私はあなたが怖い
エリクの番がグランフルトを去った。彼女は番問題の担当者に説得をされたのち、近くの町へ輸送されたそうだ。
番に関することで問題を起こした者は、もう町に入れない。グランフルトにいる限り、彼女が再びエリクの前に現れる心配はないだろう。なにより、あそこまで拒否されてしまったら、近づく気力が出ないのではとウルリカは思う。
いつもの生活が戻ってきた夜、寝る前に戸締りを確認したウルリカはリビングへ向かった。肌を刺すような冷気が足元から上がってくる。本格的に冬が到来したようだ。
グランフルトの気温はテーレとほぼ同じだが、こちらでは雪が降る量が多い。民家の軒先に並んだ雪だるまを見ながら通勤をするのが、最近の楽しみだった。
リビングにはエリクがいた。ソファに座って本を膝の上に置いている。光源は魔石を使った照明だ。オイルランプと違って倒しても燃える心配はないが、光が白すぎるところは好きではない。
ウルリカは自分が持っているオイルランプの光量を絞った。
「そろそろ寝る?」
「うん。そうだね」
返事をしたエリクは、心配事でもあるのか落ち着かない様子だった。よく見れば、ウルリカが戸締りをする前に開いていたページから変わっていない。
「どうしたの?」
まさか、まだ番の問題が残っているのだろうか。ニナは追放されたが、エリクを諦めたかどうかは本人にしか分からない。エリクが番を求める本能が残っていることもありうる。
ランプをサイドテーブルに置き、エリクの隣に座った。今のエリクは、番を見つけた者のような焦りや、心の昂りは見られない。番を求めているわけではなさそうだ。
エリクは本を閉じてウルリカの手を握った。
「あのさ、ウルリカ。ずっと先延ばしにしてた問題があるんだけど」
「問題?」
「そろそろ結婚しない? 生活が安定してきたし、番のことは解決したから、頃合いだと思うんだ」
何を言われたのか理解するまで時間がかかった。
――あ……そういえば、まだ結婚してなかったわ。
同棲していることで、とっくに結婚をした気になっていたようだ。結婚しても今の生活が延長されると想像できるぶん、感動が薄い。
テーレに住んでいた頃なら、もっと心が大きく動いただろう。残念だと思う反面、夫婦という簡単に切れない関係が目の前に迫ってきたことで、精神面はずいぶんと安定した。
ウルリカは両手でエリクの手を握り返す。
「ええ。しましょうか」
「……いいの?」
「駆け落ちまでしたのに、別れるって選択肢があるの? そんなの私は嫌よ」
「返事があっさりしてたから驚いたんだよ」
「だって悩む理由がないもの。結婚しても今と同じ生活でしょう? 今後も一緒に暮らすことに不安なんてないわ」
「なんだ。もっと早く言えば良かった」
エリクは手を離して隠し持っていた指輪を差し出してきた。
「じゃあこれも受け取ってくれるかな」
「喜んで」
結婚の約束に指輪を贈るのは、テーレでは常識だった。銀色をした指輪の内側には透明な宝石が五つ埋め込まれている。一つ一つは小さいものの、光を美しく反射するように研磨されていた。
エリクに左手を差し出すと、薬指に指輪がはめられた。大きさはウルリカの指にちょうど良い。
テーレの夫婦は結婚の際、五つの誓いを立てる。互いを生涯にわたって愛し、平穏な家庭を築き、子供を慈しむ。勤勉に働き、悪事に身を染めない。指輪の宝石はその誓いを象徴している。テーレ出身ではないエリクが、わざわざ調べて贈り物を選んでくれたことが嬉しい。
「ウルリカ。僕は君に贅沢な暮らしをさせてあげられないけれど、最低限の生活は保証できると思う」
「知らない町で一から生活基盤を整えて、家の購入資金も調達するのは、最低限なんて言わないのよ。あなたは自分で思っている以上に、贅沢な暮らしを私に与えているわ」
ウルリカが着の身着のまま逃走するしかなかったため、初期の生活資金はエリクの貯金に頼るしかなかった。エリクは金銭の他に、換金しやすい宝石類や高額な魔獣素材を持っており、すぐに生活費を工面できた。ウルリカが仕事探しに専念できたのは、彼の財産があったからだ。
飢えることなく丈夫な建物の中で寝泊まりできることは、十分贅沢だとウルリカは思う。
「エリクだけが背負わないで。結婚するって、そういうことでしょ? どちらか片方だけが負担する関係なんて長続きしないわ。私がエリクに求めているのは一つだけよ」
「一つだけ?」
「ええ。何かを与えるんじゃなくて、健康で長生きして。私よりもね。家族に先立たれるのは堪えるわ」
「お金を稼ぐよりも難易度が高いな」
「そうね。難しいから結婚前に言っておきたいの」
「頑張れば可能かもって思わせるところが厄介だね」
「私は長生きする予定だから。覚悟するのよ」
横から抱きしめられたウルリカは、エリクに体を寄せた。
***
翌日、目が覚めて最初にしたことは、ベッドに寝転んだまま指輪を確認することだった。昨夜の出来事が夢ではなかった証拠が、自分の指に残っている。眠気が一気に消え、頬がゆるんだ。
「……朝から嬉しそうだね」
隣からエリクの声がした。とっくに着替えて、うつ伏せの状態でウルリカを見てくる。冷静に物事を俯瞰しているようにエリクは言うが、彼の尻尾は今の気持ちを表すように揺れていた。
「嬉しいわよ。約束した証拠があるんだから。エリクだって嬉しいくせに」
ふわふわと動く尻尾を優しく撫でると、エリクは笑ってベッドから降りた。
結婚を約束しただけで、朝の目覚めまで気分が違うらしい。いつもと同じように出勤したつもりでも、ふとした時に指輪に触れてしまう。冷えた指先を温めるついでに指輪の存在を感じると、心まで温かくなってきた。
「ウルリカ。良いことでもあったの?」
同じ部屋で働いている調薬師のマレーナが話しかけてきた。勤務年数が最も長く、ウルリカの教育係をしてくれている。マレーナはグランフルト出身の人族だが、彼女の夫は他の町から来た獣人だ。ウルリカにとって人生の先輩とも呼べる存在で、異種族の結婚について何度か相談をしたことがあった。
「実は結婚に向けて本格的に準備をしていくことになりました」
「やだ、素敵!」
小声でマレーナに報告すると、彼女も小声で返してきた。周囲にいる調薬師には聞こえていない。
「ウルリカの婚約者って、銀髪の狐族でしょう? 優しそうな感じの」
「よくご存知ですね。もしかして、市場か路上ですれ違いました?」
休みの日は二人で食材の買い出しに行くことがあるので、職場の人に見られていても不思議ではない。
「それもあるけれど、実は彼が護衛していた研究員はね、私の夫なのよ。森の調査でお世話になったと言っていたわ。あの人、運動は全くできなくて。足を引っ張ってたんじゃないかしら」
「調査の話なら、少しだけ聞きました。勝手な行動をする人が一人もいなくて、助かったと言ってましたよ」
人数は多かったが素直に従ってくれたから楽だったとも言っていた。森に入ってすぐ魔獣に遭遇したことが、従順になるきっかけだったらしい。
たまに雑談を挟みつつ依頼された試薬を調合していると、ウルリカ宛ての手紙が届いた。
「速達専用の配達人だったよ。腕章を付けていてね、見かけるのが珍しいんだ」
事務を担当している職員はそう言って、自分の持ち場へ帰っていく。
遠方に手紙や荷物を届けたことはないが、料金によって差があるのは知識として知っている。速達は高額だが最も速い。専属の配達人が請け負い、早馬で届けてくれるそうだ。
手紙を受け取ったウルリカは、開封をためらった。差出人の名前がない。だが薄緑の封蝋に押された紋章は、テーレで見かけたものとよく似ている。
「どうしたの?」
会話が聞こえていたマレーナが心配そうに声をかけてくる。
「私、ここで働いているって故郷にいる人には伝えてないんです」
番から逃げてきたとマレーナだけに打ち明けると、彼女の顔色が変わった。
「なおさら、早く手紙を読んだほうが良くない? 悩むのは内容を確認してからでも遅くないわ」
「そうですね……」
ナイフで封を切って中を確認すると、最初にイングリッドの名前が目についた。ベルトルドの妹で、ウルリカが屋敷を抜け出す時に協力してくれた令嬢だ。もちろん彼女にも逃亡先を知らせていない。そもそも、ウルリカは貴族と連絡を取り合う方法も知らないのだ。
――今すぐ逃げなさい。兄はお前の居場所を知りました。この手紙が届いたことが証拠です。
簡潔に、これ以上ないほど分かりやすく書いてある。ベルトルドがどうやってウルリカの居場所をつきとめたのか謎は残る。だが、今は悠長に考えている場合ではない。
「番に知られました。ここへ来るのは時間の問題かと」
「家は? 知られたのは職場だけ?」
「文面からではなんとも……」
「知られていると思って動いたほうがいいわね。ひとまず、あなたの婚約者の職場へ行くわよ。私の夫経由で警備隊へ連絡しましょう。政府お抱えの研究者ですから。すぐに対策してくれるわ」
「ありがとうございます」
エリクが竜族の番嫌いを知っているなら、貴族のベルトルドも当然ながら知っているはずだ。むしろ貴族だからこそ、竜族と衝突するような行動には出られない。
平民のウルリカと貴族のベルトルドの間には、絶対に越えられない壁があった。対等ではない関係は、交渉する上では不利だ。だが間に竜族が入ってくれるなら、対等な立場で交渉できるだろう。
マレーナに続いて部屋を出たウルリカだったが、すぐに足を止めた。玄関のほうから争っている声がする。マレーナも異変に気がついて、そっと様子をうかがった。
平凡な容姿の男が二人、奥へ入ろうとして事務員に引き留められている。面会という言葉やウルリカの名前が聞こえ、彼らの目的を察した。
――自分が正面から来られないから、人を使って連れ戻す気ね。
ウルリカは急いで部屋へ戻り、近くにあったペンで手紙に走り書きを残す。
「マレーナさん! これをエリクに渡してください」
「渡せって、あなたは?」
「逃げながらエリクの職場を目指します。運が良ければ無事に到着できるんですけど、私って賭け事は向いていないんです。だから、それは保険」
返事を待たずにマレーナの手に手紙を押し付け、裏口へ向かった。休みを利用してエリクとグランフルトを散策したおかげで、大通りだけでなく細かい道も覚えている。早めに行動すれば、彼らを出し抜けるかもしれない。
裏口の扉を開けるとき、左手の指輪が視界に入った。
「大丈夫よ。一人でも逃げられるわ」
指輪を撫でてから、右手をポケットに入れた。手探りで小瓶を取り出し、コルクの蓋を緩ませる。こぼれないように胸の前で抱え、急いで外へ出た。
周囲には誰もいない。だが最初の角を曲がったところで、男に道を塞がれた。狼族の特徴である耳や尻尾はフード付きのマントに隠れて見えないが、ベルトルドのところで似たような風貌の男がいたのを覚えている。
待ち伏せされていたようだ。職場へ押しかけてくる前に、周辺の地理も調べていたらしい。
――表の人たちは陽動だったのね。
男はウルリカを捕まえようと手を伸ばしてくる。ウルリカは小瓶を男へ向かって振りかけた。男が素早く後退したせいで、大部分は地面に落ちてしまう。男の服についたのは、ほんの少ししかない。ウルリカの手にも付着して、甘い香りが鼻をくすぐる。
人工的な甘い香りが森や街道に漂っていたら、エリクなら気がついてくれるだろう。
男が身を引いた隙に横をすり抜けて逃げたが、すぐに追いつかれてしまった。後ろから抱きしめるように捕まって、口を布で覆われた。
どんなに抵抗しても、男の力は緩まない。耳の近くで男がつぶやくと、体から力が抜けてきた。
――狼族は集団行動が得意なんだっけ。
意識が途絶える直前、ウルリカはそんなことを考えていた。




