私を壊さないで7
「お前、最近はチル婆さんのところへ行っているらしいな」
ある夜、酒に酔った養父に話しかけられた。チル婆さんは産婆のことだ。本当はもっと長い名前らしいが、皆があだ名でしか呼ばないので誰も本名を知らない。
「そうだよ。家事を手伝ったら、お小遣いをもらえるんだ」
エリクは堂々と嘘をついた。
「お酒の味が良くなったと思わない? もらったお金で良いお酒を買ってみたんだ」
「まあまあだな」
養父はそう言って一気に杯をあおった。言葉では微妙な反応だが、本心では喜んでいるのは、飲む量を見れば分かる。
いずれ産婆のところへ通っていることは発覚するだろうと思っていた。邪魔をされないように、言い訳を考えておいたのは正解だったようだ。養子が稼いだ金が自分の酒代になっていると思っている間は、文句なんて言わないだろう。
「しかし家事の代行とは……お前は相変わらず出来が悪いな。男ってのは、俺みたいに猟で生活できるようにならないと――」
養父は上機嫌で喋っている。
「――いいか。番と生きるってのは幸せなんだぞ。まあ、お前には見つけられないかもしれんな。番と出会うには、まず運が良くないと駄目だ。正しい生活をして、神に感謝をしているか? そうすりゃ、お前だって死ぬ直前ぐらいに番を得られるだろうよ」
本当はエリクが狩猟で得た報酬から酒代を出しているのだが、言わないでおいた。血抜き、皮剥ぎ、解体。どれも養父より腕が良くなった。近頃の養父はエリクと仕事をしないから、知らないだけだ。養父が剥いだ毛皮に手を加えて、買取価格を上げているなど夢にも思わないだろう。
養父にとってエリクは見下せる存在でなければならない。優秀な人間は養父の劣等感を刺激する。しがない猟師の養父は、成功している若者が嫌いだ。そんな彼の気持ちを知っているから、エリクは無能を演じていた。成人するまでの我慢だ。
弟が成長して走り回るようになると、おもちゃを作る機会が増えた。山で枝や木の実を拾い、加工して渡すだけで弟は喜んでくれる。駆け引きなどない純粋な感情は、エリクにとって数少ない癒しだった。
「にぃに。歌うたって」
おもちゃに飽きた弟が別の遊びを要求してきた。母親が妹の相手で忙しいため、ますますエリクに懐いている。
「歌か……」
まともに歌ったことがないエリクには、厄介な問題だった。母親や養父が歌うところなんて見たことがない。季節の祭りで歌を聞いたことがある程度だ。その祭りもよそ者のエリクが歌や踊りで参加する余地などなく、いつも雑用をして終わりだった。
可愛い弟の期待を裏切りたくない。仕方なくエリクは幼少時に教えてもらった曲を口ずさんだ。優しかった乳母のことを思い出しながら歌っていると、母親の叫び声が聞こえた。
「どうしてその歌を歌うの!? 私に嫌なことを思い出させないで!」
左頬に鈍い痛みがした。ああ、叩かれたのかと、冷静に考えている自分がいる。
「もう二度と歌わないでちょうだい。いいわね? 本当はあなたの顔だって隠しておきたいのに、我慢しているのよ」
感情が赴くままに言いたいことを言った母親は、涙が浮かぶ顔を両手で覆った。
母親は、いつでも被害者なのだ。懐かしい歌で華やかだった頃の生活を思い出して、虚しくなってしまったのはエリクのせい。この町に追放されたのは、両親が守ってくれなかったせい。実家に帰されたのは、父親に番の女が現れたせい。父親と結婚できないのは、番にしてくれなかった神様のせい。
どんなに願っても手に入らないものがある。その辛さに耐えられる人ではなかった。もしかしたら、父親に惚れて番になりたいと願った時に、壊れてしまったのかもしれない。
「ごめんね。僕が悪かった。もうしないから泣かないで」
「……ええ。約束よ」
優しい言葉をかけて慰めると、母親は妹のところへ戻っていった。
心に残っていた思い出を否定されたことで、自分の中にあった芯が揺らいだ気がする。おそらくこの時に、母親に対して漠然と持っていた感情が言語化された。
誰のせいで、こんな生活をしていると思っているのか。そもそも、父親を騙して自分を産んだくせに。母親は申し訳ないとか、反省を意味する言葉を一度もエリクに言ったことがない。
「にぃに。痛い?」
弟が悲しい顔をしてエリクの頭をなでた。弟には母親が怒っている理由が分からない。だが自分が原因であることは分かっているようだ。
「大丈夫だよ」
エリクは弟を抱きしめた。伝わってくる体温が暴力的な衝動を消していく。心の穴を埋めるほどではなかったが、最後の一線を越えずに済んだのは確かだ。
歌のことがあってから、母親はエリクの顔を見なくなった。エリクの顔立ちは母親似だが、髪や瞳の色が父親を連想させるらしい。母親にとって父親と暮らしていた時間は、思い出したくない過ちに変換されているようだ。
***
エリクが住んでいた地方では十七歳で成人とみなされた。親は成人する子供のために、小さな輪のピアスを用意して祝福する。この町で暮らす大人は、ほとんどピアスをつけていた。だが母親と養父がエリクのために用意した形跡はない。これまでの扱いを考えれば当然だ。
成長するにつれ、エリクの外見には父親の面影が出てきた。母親はますますエリクを遠ざけるようになり、会話すらしない日もあった。養父もエリクを疎ましく思い始めたのか、投げかけてくる言葉に棘を感じる。限界が近い。
十七歳の誕生日まで数日に迫ったとき、エリクは町を出ることにした。
産婆による教育は終わっている。旅に必要な資金も貯まった。弟には、いざという時のために隠し財産の位置を教えておいた。何かを察した弟は泣きそうになっていたが、彼には本当の家族がいるから寂しくないだろう。最近の妹は母親に似て、エリクを嫌いになり始めている。もう家の中にエリクの居場所はない。
早朝、静かに家を抜け出したエリクは、産婆のところへ向かった。老人は朝が早い。とっくに起きていた産婆はエリクを迎え入れた。
「そろそろ来ると思っていたよ。ほら、これはあんたのだ」
老婆が渡してくれたのは、身分を証明する札だった。
「あんたが犯罪者じゃない証のようなものさ。よその町に住んで仕事をするなら必要になるんだ」
エリクがこの町に来たときにも、何かしらの手続きがあったのだろう。門のところで大人たちが話をしていたと思うが、何年も前なので覚えていない。
「正規の方法で作ったやつじゃないからね。あんたの本当の名前は書いてない。嫌なら自分で申請しな」
「これで十分だよ。ありがとう」
札を受け取るとき、産婆は紫色の石も渡してきた。
「覚えておきな。あんた、殺しと盗みは向いてない。やらかしたら、死ぬより辛い目に遭うね。大きな嘘もつくんじゃないよ。肝心な時にしくじって、つまらない死に方をする運勢なんだから」
要するに、真っ当に生きろということらしい。
許可証に書かれていたのは、エリクという名前だった。父親からもらった名前にはもう未練などない。むしろ捨てていくべきものだ。
町を出たエリクは、旅の商人から聞いた都市を目指すことにした。やりたいことがあるわけではない。ただ、人が多く集まる場所なら、何かしらの仕事がある。田舎よりは生きやすいだろう。
順調な旅ではなかった。体力はある方だが、長距離を歩いた経験がない。ようやく目的の町に到着しても、簡単に仕事を得られるような成功は転がっていなかった。
何度も騙されて、時には痛い経験もした。未熟さが招いた失敗もある。死にそうな目に遭ったのは一度や二度ではない。
女性に好かれやすい顔を利用すれば、得られる収入もあると知った。だが恋愛絡みの問題に発展すれば厄介だ。特にエリクの見た目に引き寄せられる女性は、なかなか諦めてくれない。言葉巧みに別れるよう誘導したり、他の男性に押し付けて逃げるのは本当に苦労した。
場当たり的に生きて、到達したのが狩人という仕事だった。
狩人は、社会からはみ出した者が最低限の生活費を得ることができる労働だ。中には崇高な使命でダンジョンに挑んだり、仕組みを解明しようとしている者もいる。だが大多数にそんな思想はなく、生きるために必要だからやっているだけだった。
腕に自信があれば犯罪を犯さなくても大金が手に入る。一回の強盗よりも楽に稼げるという噂は、一攫千金を夢見る者には効果的だった。犯罪率を下げたい為政者が積極的に煽っていたのもあるだろう。だが町の労働に向いていない者には、何よりも甘い夢だった。
この頃になると、いつ死んでもいいと思っていた。未来に希望などなく、ただ生きているだけの自分には、町の生活なんて馴染めない。どうせどこへ行っても余所者なのだ。奇異の目で見られながら町で暮らすより、余所者らしく生きた方が気苦労がない。狩人を選んだのは、そんな理由だった。
狩人を始めると同時に、情報の売り買いにも手をつけた。人から必要な情報を聞き出すのは得意だ。危ない相手を嗅ぎ分けるのも慣れた。自分の立場が危うくなれば、別のダンジョンがある町へ移動すればいい。
そうやって渡り鳥のように暮らしていたある日、番を拒絶する町の噂を聞いた。
興味が湧いた。
番に出会えた者は、口を揃えて素晴らしいものだと言う。世界観が変わる。出会えないのは可哀想。そんな、どこか見下してくるような態度が嫌いだった。これまで生きてきた経験から、番の夫婦が誕生する裏側を想像してしまう。幸せそうに笑う番の後ろには、どれほどの涙が流れたのだろう。
噂が本当なら、番と出会った後で拒絶した者が複数人いることになる。どんな心境で番を拒んだのか、話を聞いてみたい。
こうしてエリクはグランフルト行きを決めた。




