私を壊さないで5
エリクに抱きつこうとしたニナは、そのまま彼を通り抜けた。何が起きたのか分からないといった顔で振り返り、エリクに触れようと手を伸ばす。だが指先は彼の体に触れることはなく、虚しく空中を掻くだけだ。
「……どうして? ねえ、どうしてこんな意地悪をするの?」
「こうしないと、まともに話せないからだよ」
「でも、さっき見かけた時は本物だったのに」
「そうだね。大通りでは本物の僕だったよ。途中で幻と入れ替わったんだ。本物はここにいない」
ウルリカは静かにため息をついた。エリクが望んでいるのは話し合いだけで、ニナとの触れ合いは拒否している。想像している最悪の事態は来ないかもしれない。
「幻なんて使わなくてもいいじゃない。お願いだから出てきて! 私ね、あなたに会いたくて旅をしてきたのよ」
ニナが懇願しても、エリクの態度は変わらなかった。
「僕は君に会いたくなかった。はっきり断らないといけないみたいだから、出てきただけだよ」
「そんな……誰かに脅されているの? だって、おかしいじゃない。番に出会うのは幸せなことだってみんな言ってたわ。あなたは幸せが必要ないの?」
「どうして今の僕が幸せじゃないなんて思うのかな? むしろ君が登場したことで、幸せとは言えない状態になってる。君にどんな理由があろうと、僕たちが一緒になることはないよ」
「嘘よ。そんなの違う。そっか……あの女の人に騙されているのね? あなたの気配を纏わせた人族がいたのよ。彼女、番の出会いを妨害してきたんだから」
ニナが苛立ってきたので、ウルリカは覗き見をやめて木の幹に背中をくっつけた。いま見つかってしまったら、無傷ではいられないだろう。
「私とあなたは、これから幸せになれるのよ。本物の絆で繋がるの。紛い物の愛なんていらないわ! 目を覚まして! 私も昔は番じゃなくても十分だって思っていたけど、それは番に感じる気持ちを知らなかっただけだわ。一緒にこの町を出ましょう」
「その提案は受け入れられないな。僕と君は番に対する考え方が違う。全ての人間が番を好意的に思っているわけじゃないんだ。番に引き寄せられることと、人を愛することは違う」
「どうして私を拒絶するの……? 私を見たとき、あなたも感じたはずよ。自分の中の何かが呼び起こされる感覚を。あの衝動を知っても変わらないなんて、どうかしてるわ。そこまで頑なに拒む理由は何?」
ニナの声は涙が混ざっていた。切実な訴えにウルリカの心まで痛くなる。
――エリクが番を嫌う理由って確か……。
出会ったばかりの人と恋愛関係になるのが苦手ということは聞いた。ウルリカも同じ考えだったので深く考えなかったが、ニナと話しているエリクは嫌うという感情を通り越して憎んでいるようにも聞こえる。
拒絶するだけでは無駄だと悟ったのか、エリクはぽつりと言った。
「……少しだけ、僕の話をしようか」
***
エリクが覚えている一番古い記憶は、大きな屋敷の中で大勢の人に囲まれているところだった。父親が名付けてくれたラーシュという名前で呼ばれ、誰もがエリクを大切に扱って嫌なことを押し付けてこない。躾のためにきつく言われることはあっても、大抵は甘やかされていた。それが貴族の長男として生まれた特権だったからだ。
何の苦労も知らない子供だった頃は、こんな日がずっと続くと思っていた。いつまでも幸せで、何も変わらないのだろうと。
父親は特に優しかった。エリクの銀色の髪と紫の瞳は、父親譲りだ。北国のとある地方を治めている彼は、仕事で留守にしがちだったが、屋敷に帰って来たときは必ずエリクの相手をしてくれた。
「とうさま。氷が見たい」
そう言ってねだるエリクに、よく氷の魔法を見せてくれた。
空中に煌めく細かい氷雨や、花のように広がる氷の結晶。
父親が操る魔法は綺麗だ。自分にとって父親は、目標であり世界の全てだった。彼の庇護下は安全で、揺るがない。
母親もまた優しかったが、父親ほどではなかった。けれどもエリクを慈しんでくれているのは分かっている。母親はきっと父親を好きな気持ちが大きすぎて、エリクに向けるのを忘れているのだと、当時の自分は思っていた。
両親は理想的な番の夫婦だと聞いたのは、いつ頃だろうか。正確に覚えていない。おそらく使用人たちの噂話を断片的に聞いたのだろう。とにかく世の中には番の夫婦と番ではない夫婦の二種類が存在する。両親はその番の夫婦の中でも、特に理想的な組み合わせらしい。
両者とも上流階級の家に生まれ、政治的な軋轢もない。年齢も近く、結婚を妨げる問題は存在しなかった。番といえども、種族や生まれ育った環境が違うほど苦労がつきものらしい。
生活が変わってしまったのは、父親が領地の視察から帰ったときだった。いつになく険しい顔をしている父親に近づいたエリクは、抱きつこうと伸ばした手を払いのけられた。
「とうさま?」
「触るな。私はお前の父親ではない」
わずか五歳の頭では、父親の豹変についていけなかった。冷たくされる理由が分からず泣いて縋ろうとしたが、父親は振り返らずに行ってしまう。使用人たちはエリクを引き留めて、父親のところへ行かせようとしない。それどころか、エリクの扱いに困っているようだった。
今朝までは幸せに満ちていたのに。
父親は屋敷の外で悪い妖怪と入れ替わってしまったのかもしれない。
それとも、自分が悪いことをしたせいだろうか。だから罰として本当の父親は連れていかれて、別人が戻ってきてしまったのだ。けれど、自分のどの行動が悪いことだったのか、いくら考えても分からなかった。
父親は迷わず母親のところへ行き、足元に香炉を投げつけた。割れた陶器のかけらと灰が散らばり、母親の足を汚す。
「よくも騙してくれたな。何が番だ。お前は紛い物ではないか」
顔を青ざめさせた母親は、口を両手で覆って何も言わない。それが答えだったのだろう。
その後しばらくして、母親とエリクは屋敷を追い出された。別れ際に見た父親に、優しかった頃の面影はない。ただただ蔑みの目を向けられた。父親の隣には母とそう年齢の変わらない女性がいて、そちらには慈愛に満ちた顔を向けていたのが、いつまでも記憶に残っている。
後で分かったことだが、母親は父親と結婚したいがために番だと偽っていたらしい。番を誤認させる香を焚き、妻の座を手に入れていた。嘘が発覚したのは、父親が視察先で本物の番を見つけたためだ。本物の番に出会ったことで、父親は香で見せられていた夢から覚めた。怒るのも無理はない。
エリクが見ていた優しい世界は、嘘の終わりと同時に消えてしまった。追放されたのは、その報いだ。
実家に戻ったエリクと母親は、腫れ物扱いだった。
「よりにもよって番と偽って嫁ぐなど……」
「なんてことをしてくれたの。あなたは家の名に泥を塗ったのよ」
エリクの祖父母にあたる人たちは、戻ってきた自分の娘にそう言った。その後、彼らの行動は早かった。所有している家の一つにエリクたちを押し込め、家督を息子に譲って隠居を選んだのだ。これが当時の貴族社会における責任の取り方なのだろう。
新しい家で、エリクはほぼ放置されていた。母親は悲しみにくれて寝室から出てこようとしない。二人いる使用人たちは掃除や食事の世話をするだけで、エリクたちとの会話を避けている。
この辺りのことは、記憶が曖昧だ。生活が変わったことと、毎日似たような日々だったことで、脳が覚えなくてもいいと判断したのだろう。いつの間にか傷が増えていたり、使用人のように自分で服を着て身の回りのことをするようになっていた。
一年半ほど経過した頃、また身辺に変化があった。政治的な駆け引きか、母親の実家に何かしらの異変があったのかもしれない。住んでいた家を追い出されることになったのだ。
それはある朝のことだった。武装した男たちが家へやってきて、馬車に乗るよう指示してきた。最初は丁寧に説明をしてくれていたようだが、母親が拒否をして泣き叫ぶと、刃物をちらつかせて脅すようになった。そうして怯えた母親を馬車へ乗せた男たちだったが、エリクには少しだけ優しかった。
「ごめんな坊主。新しい町へ引っ越さないといけないんだ」
「遠くへ行くの?」
「そうだよ。さあおいで」
部屋の隅にいたエリクが頷くと、抱き上げて馬車まで連れていってくれた。誰かが話しかけたり優しくしてくれるのは、父親と一緒に暮らしていた時以来だ。
ずっと家から出られなかったエリクにとって、馬車の旅は新鮮だった。男たちはエリクが話しかけても無視しない。伸びすぎて邪魔になっていた髪を切ってくれた。見たことがないものの名前を教えてくれて、馬の背中にも乗せてくれる。
不思議だったのは、エリクが楽しそうにしていると、ときどき辛そうな顔をしていることだ。その理由は、エリクが成長してから知った。
もうすぐ目的地の町に到着するという段階で、男たちは馬車を止めた。
「証拠を持って帰らなきゃいけないんです。上着と、髪を少しいただきたい」
「わたくしを殺すの?」
「そう命令された気もしますね。でも遠くへ捨ててこいという話だったかもしれない。長旅で記憶が曖昧なんですよ。そういうことにしておいてください」
死か追放か。どちらか選べということだろう。
殺してしまうことと、身寄りのないところに放置することは、どちらが残酷なのだろうか。男たちは人殺しの罪を背負いたくなくて、死を偽装できるだけの証拠を求めている。山奥ではなく町に捨てれば、生き延びることができると考えているのだろう。
現実はそう甘くない。元貴族の母子が何の援助もなく、一から生活していけるわけがないのだ。彼らはそれを知っているのに、己の心を守るために、現実から目を背けている。
母親は上着を脱いで男へ渡した。男はエリクの上着も回収して、髪を一房切り取る。他の男に野うさぎを捕まえるよう指示してしたのは、食料の確保ではなくて、証拠を偽装するためだったようだ。
町に到着するとエリクと母親は馬車から降ろされ、お金を渡された。
「このお金でどうしろと……」
「まず住みこみの仕事を見つけては? ここは街道の交差点にある町だ。いくらでも仕事が見つかるさ」
男たちは目線を合わせず、もと来た道を引き返していった。
残された母親の顔は青ざめていた。貴族として不自由なく育った母親が、子供を抱えて働くなんてできるわけがない。そもそも、世間にどんな仕事があるのかすら知らないのだ。渡されたお金も、どう使えばいいのか分からない。
エリクの手を握った母親は、ふらふらと大通りを歩き始めた。助けてくれる人はどこにもいない。太陽が出ているうちに、どこかに身を寄せなければならなかった。
「……まずは宿に……? でもどうやって……」
独り言を言いながら歩いていた母親だったが、ふと足を止めて正面を見つめた。
「かあさま?」
驚いた顔で動かない母親を不思議に思っていると、人混みをかき分けてやってくる男がいた。父親よりもだいぶ年上だ。子供のエリクには、見上げるほど背が高い。腰にナタを下げ、足を縛ったウサギを持っている。丈夫な生地の服は薄汚れていたが、貧民には見えない。屋敷にいた頃に会った、狩猟場を管理している使用人と雰囲気が似ていた。
「あの、あなたは……」
母親の頬がじわりと赤くなって、言葉が詰まる。
「なんてことだ。どうして今になって……いや、そんなことはどうでもいい」
男は母親を優しく抱き寄せた。
「俺の家に来ないか? 狭いところだが、邪魔する奴はいない」
「ええ、もちろん」
二人にしか分からない会話が続いている。初対面のはずなのに、仲睦まじい様子はとても奇妙だ。
後になって、これが番の出会いなのだと知った。唐突に恋をしている状態へ落ちていく。当事者にはとても幸せなことだ。事情を知らないエリクには恐怖でしかない。
父親に続いて、母親まで豹変してしまった。このままだと一人になってしまう。それだけは分かった。
エリクは母親のスカートを掴んだ。
「かあさま。置いていかないで」
母親はようやく、エリクのことを思い出した。困った顔に邪魔をされた苛立ちをにじませて、エリクを見下ろす。
「その子供は?」
「……私の子供よ。家を追い出されたの」
男が向けてきた目は、父親と別れてから散々見てきた種類のものだった。扱いにくいものを、どう合法的に処分しようか思案している。邪魔という言葉を飲み込みきれず、顔全体に滲み出てしまった。そんなところだろう。
「過去なんて関係ない。君の子供なら、俺の子供同然だ」
男はそう言って、エリクを抱き上げた。
「これからよろしくな。名前は?」
エリクは自分の名前を言った。男に逆らったら、どこかへ捨てられる。そんな気がした。彼はエリクの母親だけが欲しいのだ。付属物がいなくなろうと、どうでもいい。むしろ番と二人だけで生活するには、連れ子など不要だ。彼にはエリクを養う義理も責任もないのだから。
それが養父との出会いだった。




