私を壊さないで4
朝になって目が覚めたとき、隣にエリクはいなかった。耳をすませると寝室の外で物音がする。
扉を開けたウルリカは、温かい朝食の匂いを感じた。
「エリク」
キッチンで料理をしていたエリクが振り返った。おはようと言って微笑む顔からは、昨日の憔悴ぶりが嘘のように消えている。悩みはまだ無くなっていない。だから心の内を上手く隠している気がした。
「おはよう。朝ごはん作ってくれたのね」
「うん。もうすぐできるから、待ってて」
手伝いは不要だと言うので、先に洗面所へ行く。昨日、バスタブに沈めた服を洗って干さないといけない。ところが服は見当たらず、バスタブは掃除まで済ませてあった。
「ねえ、エリク。バスタブに服がなかった?」
「あれなら洗濯して干したよ。珍しいね。ウルリカがあんなことするなんて」
いつもなら服を脱ぎ捨てて放置しない。汚れた衣服は洗濯物用のカゴに入れていた。エリクが聞いてくるのも無理はない。
「昨日、帰ってくるときに会った人。もしかしたら、あなたの番かもしれない」
「え?」
ウルリカは番を探している獣人のことを正直に話した。
「番探しに積極的だった、か。面倒だね」
「腕を掴まれたの。彼女がエリクの番かどうかは分からないけど、私の服から番の痕跡を感じたら嫌だなって思ったから……」
「服からは何も感じなかったよ。水に浸けてたからかな? ハンカチみたいに、ずっと身につけていないと分からないのかも。それよりも」
エリクは食卓にウルリカを誘導して座らせた。
「昨日は、ごめん。かなり混乱してた」
「いいの。番を見つけて冷静でいられない人はいないわ」
「体は大丈夫?」
「少し寝不足なだけよ」
本音を言えば怠いし寝不足だ。それを言えば、一方的に責めることになりそうで言いたくなかった。
番のことは二人の問題なのだ。彼だけが罪悪感を抱えてほしくない。
座ったまま両手を広げると、エリクは上体を屈めて抱きしめてきた。優しく包み込んでくれるこの瞬間が好きだ。
今日が休みだったらのんびり過ごすのだが、残念ながら仕事が待っている。
「エリク。お腹が空いたわ」
「夕飯抜きだったからね。すぐに用意するよ」
額にキスを落としてからエリクはキッチンへ戻っていった。
食事中にエリクが休日をもらったことを聞いたので、出勤するのはウルリカだけだ。
「じゃあ、行ってくるけど……」
「心配しなくても、番と駆け落ちなんてしないよ」
「信じてないわけじゃないのよ?」
「分かってる。ウルリカが不安に感じてることもね」
大人しく家事に勤しむと言うエリクを残して、職場へ向かった。自分ではいつも通りに仕事をしているつもりだったが、他人の目には違和感があったらしい。昼過ぎに上司から呼ばれ、早退しなさいと告げられた。
「顔色が良くない。倒れる前に帰って休むべきだ」
「でも……」
「君はいつも真面目に働いてくれている。疲れが出たんじゃないか? 差し迫った業務予定はないし、明日も休みでいい。その代わり、明後日からは通常通りに働いてもらうからな」
ただの寝不足だなんて言えなかった。せっかくの気遣いを無駄にしないために、ウルリカは礼を言って早退することにした。
帰り際に同室の調薬師たちが優しい言葉をかけてくれたのが、罪悪感となって心に刺さる。彼らはウルリカが遠慮をして休みを取得しなかったと思っているようだ。
真っ直ぐ家へ帰ろうとしたウルリカだったが、見覚えのある人物を見つけて足が止まった。相手もウルリカに気がついたようで、驚いた顔をした後に申し訳なさそうに近づいてくる。
「あの、何度もすいません」
「昨日の……」
「ええ」
狐族の女性はニナと名乗った。
「迷惑なのは分かっているわ。でもどうしても、その……目的を果たしたくて」
堂々と番を探していると言えないためか、ニナは言葉を濁した。
「なんとなく、あなたから気配を感じた気がしたのよ。気のせいかもしれないけど。些細なことでもいいから、手がかりが欲しいの」
「ニナさんは、どうして積極的に探しているの?」
「それは……ちょっとだけ静かなところへ行かない? ここは人が多いから」
その意見には同意だった。
ウルリカは現在地の近くにある公園へ誘った。大通りに面していて、適度に人が通る。ベンチもあるので話をするには最適だ。ニナも同じ考えだったのか、公園に到着すると安心したように表情を緩めた。
空いているベンチに座ると、ニナはさっそく喋り始めた。
「私、恋人がいたの。二人で狩人やってて、色々な町を渡り歩いたわ。同族だったし、性格も相性が良かった。この人となら歳をとって、死ぬまで一緒にいたいなって思うぐらい。でも相手はそう思ってなかったみたい。私は番を見つけるまでの繋ぎだったのよ」
「繋ぎ? そう言われたの?」
「あ。はっきり言われたわけじゃないわ。恋人が番と出会って、私のことなんて相手にしなくなって……つい感情的になって問い詰めたのよ。付き合いが長い私よりも、出会ったばかりの番を選ぶのかって」
自分と似ている状況に、心臓のあたりが痛くなりそうだった。
「答えなんて分かりきってたのに。もちろん番が大切だって言われたわ。お前も番を見つけてこいよ、そうしたら紛い物の恋愛ごっこだったと分かる、ですって」
「そんな……酷い……」
番だけが真実の愛を育めるなんて信じられない。番でなくても人を愛することができるのは、ウルリカとエリクがよく知っている。番から逃げてきた者がいるグランフルトには、番に依存しない生き方をしている夫婦が大勢いるのだ。
「半分は、恋人への反発かな。もう半分は、私も確かめたいなと思っただけ。だから、まずはよく当たる占い師に番がいる場所を占ってもらったの」
「それでグランフルトに来たの?」
「ええ。でも具体的な町の名前を教えてもらったわけじゃないのよ。竜人族が支配している町にいるってことだけ。そこへ行けば、番に会えるんですって」
なかなか有能な占い師を捕まえたようだ。昨日はエリクを目視できる範囲内にいて、今日は手がかりを持っているウルリカに接触している。
「私が狩人やってたのは運が良かったわ。お金を稼ぐ手段には困らないし、その気になれば世界中へ行けるもの。色々な番の夫婦と会ったけど、みんな幸せそうだったわ。だから本当の愛があるなら、私も出会ってみたい。誰にも邪魔されない関係って素敵じゃない?」
ウルリカは無意識で襟元を握った。
やはりニナとエリクを会わせたくない。彼女の境遇には同情するものの、自分の幸せを終わらせてまで、好奇心を満たしてやりたくなかった。
「……私には分からないわ。ごめんなさい。あなたの力になれない」
「でも、二度も惹きつけられる気配がしたのよ。きっと偶然じゃないわ」
ニナはそこで黙った。慎重に確認するかのように、ゆっくりと話し始める。
「ねえ、もしかして……あなたの身近な人なんじゃないの? だから私が番を探そうとするのを邪魔してる?」
肩を掴まれた。ニナが徐々に力を入れていくせいで痛い。
「番に出会うのは幸せなことなのよ。背中を押してくれたっていいじゃない!」
「ニナさんは自分だけが幸せなら、それでいいの? 恋人を番に奪われる悲しさを知っているのに?」
「じゃあ我慢しろって言うの? みんな番を見つければ解決することだわ。あなたも、こんな町に引きこもってないで外へ出たら? 世界を見れば、自分が持ってる偏見が消えるわよ」
「どれだけ世界を旅しても、自分が見たいものしか見なかったのね。番の本能が幸せを運んでくるわけじゃないのよ。幸せになれない番もいるわ」
「分かったようなことを言わないで! 私に取られたくないって素直に言いなさいよ! 私の幸せを邪魔しないでくれる?」
ニナに髪を引っ張られたが、すぐに力が緩んだ。彼女は大通りの方を見て止まっている。
「……見つけた」
ニナは頬を赤く染め、恍惚が入り混じった声でつぶやいた。潤んだ瞳は恋をする乙女そのものだ。
目線の先を追うと、見覚えのある銀髪と耳が人混みの中に消えていくところだった。
「待って!」
切ない声で叫んだニナが追いかけていく。もうウルリカには見向きもしない。番を見つけた獣人は、どうしていつも真っ直ぐなのだろうか。その純粋さが羨ましくなる。
「エリク……?」
よく似た他人だと思いたかった。だが一瞬だけこちらを見た顔は、見間違えるわけがない。
出遅れたウルリカも二人を追いかけた。人で賑わう大通りは歩きにくかったが、幸いなことにニナたちの移動速度も落ちている。なんとか見失わずに一定の距離まで追いついた。
ニナの背中が脇道に消えていく。移動距離が長くなるにつれて通行人が減り、やがてニナしかいなくなった。だが彼女にはどこへ向かえばいいのか分かるらしく、迷いのない足取りで先へ進んでいく。
階段を登って住宅街に入った。この辺りの高台は富裕層が多く住む区画だったはずだ。中間層の住宅街とは高低差を設けて、明確に線引きをしてある。人通りが少ないのも納得だ。
道の左側は見晴らしが良く、大通りや市場が見下ろせる。等間隔でベンチが置かれ、春には花をつける樹木も植えられていた。隠れながら追いかけるには最適だ。もっともニナは番のことしか見ていないので、あまり神経質に隠れる必要はない。
ニナは風景など目もくれず、道の先で待っていた獣人に近づいた。その獣人が振り返る直前、ウルリカは一際大きな木の後ろに身を隠した。彼らの声がなんとか聞こえる範囲だ。
「やっと、会えたわ。あなたを探していたの」
ニナが話しかけたのは、やはりエリクだった。背格好だけでなく、家を出る前に見た服装も同じだ。他人のそら似ではあり得ない。
――どうして?
エリクは「番と駆け落ちしない」とは言ったが、「会わない」とは言っていない。会えばどうなるのか、本人が一番よく理解しているはずだ。
「まさかこの町で番に会うなんて思わなかったよ」
「あなたを探しに来たのよ。だって、待っていても番に会えないわ。幸せになるためには、自分から動くしかないでしょう?」
「そうだね。やっぱり会わないと何も解決しないな」
「会いたかったわ」
ニナはエリクへ走り寄った。




