私を壊さないで
番を見つける数時間前、エリクは五日ぶりに森からグランフルトに帰ってきた。
しばらく町から離れていると、人混みの中を歩くのが面倒になる。動かない木々に比べて、常に動いている雑踏は、ぶつからないように歩くだけで神経を使う。慣れるまで時間はかからないが、意識が切り替わるまでの空白が煩わしい。
「今回の調査結果は仮説の裏付けになりそうですね」
「まさか古代の住居跡が見つかるとは。資料にあった年代とほぼ一致している。発表する日が楽しみだよ」
前を歩く研究員たちが嬉々として成果を話し合っている。彼らは慣れない野外調査で体力を消耗しているはずなのに、疲れた様子は全くない。
「元気だねぇ。森に入った初日は、魔獣が出ただけで死にそうな顔してたのに」
やや後ろを歩いていた護衛が笑いを堪えながら言った。声に嘲笑の色はない。初心者の狩人を見守るような、微笑ましさに溢れている。
「仕方ないさ。最初に遭遇したのが大ムカデの群れだったんだから。気絶しなかっただけ上出来だろうよ」
護衛たちをまとめているハンネスも、微笑ましい光景を思い出しているようだ。
今回、エリクの仕事は研究員の護衛だった。町に近接している森を調査をするのが目的だ。
護衛はエリクを入れて三人、研究員は五人という大所帯での移動だった。だが他の護衛と衝突することなく、連携しやすかったおかげか、全員無傷で帰還している。護衛の人選には戦闘能力だけでなく、性格も考慮してあったのだろう。何より狩人と違い、裏切られる心配がないのがいい。
研究所へ戻った一行は、玄関ホールで解散となった。
「護衛の皆さん、おかげで助かりましたよ」
調査員の代表は、目的を達成した上に無事に帰れたことを、しきりに感謝していた。
「また森へ入る時は、お願いするよ」
「どういたしまして。こちらこそ肝が据わった護衛対象で助かった。あんたらみたいに自分の足で歩いてくれるなら、いつでも引き受けるよ」
ハンネスが言う通り、調査員たちは魔獣に怯えながらも自力で森の中を移動していた。森を歩き慣れている護衛に比べて移動速度は遅いが、そんなことは想定済みだ。勝手なことをせず、こちらの指示に従ってくれるなど、素直で護衛しやすかった。
「じゃあ、こっちの護衛組は解散するか。出発前に話した通り、今日から三日間は休養に充ててくれ」
狩人ならここから戦利品の分配など面倒な後始末があるが、研究所所属の護衛は仕事が終わればすぐに帰れるのが楽だ。
「エリク。仕事の完遂祝いをしないか?」
もう一人の護衛が酒を飲みに行こうと誘ってきた。テーレにいた頃なら誘いに乗っていたところだ。
「今日は帰るよ。久しぶりに婚約者に会いたいからね」
「幸せそうな顔しやがって。次は絶対に来いよ」
あっさり引き下がった護衛は研究所を出て、酒場がある地区へ歩いていった。夕方の開業時間にはまだ早い。先に良さそうな店を探しておくのだろう。
エリクは反対方向にある市場へ向かった。ウルリカはまだ仕事をしている時間だ。先に帰ったエリクが夕飯を作っておいたら、きっと喜んでくれる。
寒さが厳しくなってきたことだし、根菜と鳥肉をミルクで煮込むのはどうだろうか。とろみをつけたスープは冷めにくく、体を温めてくれる。ウルリカが好きなクルミパンとも合う。食後には木苺のジャムを乗せた焼き菓子があれば、なお良い。
市場で食材を見て帰ろうとしたとき、人混みの中にいる存在に鳥肌が立った。自分の価値観を揺るがす何かがいる。
言葉よりも先に本能で理解した。
――番だ。
想像以上に強烈な存在感だ。会わなければならない。今すぐ。体が勝手に引き寄せられそうになる。先程まで考えていたこと全てが頭から抜け落ちていく。
番に会えば世界が変わる、とはよく言ったものだ。
淡いオレンジ色の髪と、黒っぽい耳を見つけた。彼女は風下にいるせいか、まだこちらに気がついていない。
エリクは急いで市場から離れた。とにかく逃げなければ、取り返しがつかないことになってしまう。遠くから見かけただけでも影響があるのだから、顔を合わせてしまえば番のことしか考えられなくなる。
せっかく幸せが手に入ったと思ったのに、番の本能が全てを壊してしまう。エリクが欲しかったのは、番がもたらす激しい感情ではない。むしろ番では駄目だった。
家に駆け込んだエリクは震える手で鍵をかけた。
「ウルリカ……」
返事があるわけでもないのに、名前を呼ばずにはいられなかった。
まだ自分は正常だと思いたい。外へ出て行きたいと考えているのは、きっとウルリカに会いたいからだ。求めているのは番ではない。
抱きしめたいと思ったのも、死ぬまで一緒にいたいと思ったのも、全てウルリカだけ。そうでなければ、危険を犯して駆け落ちなんてしなかった。どうでもいいと思っている人を助けたりなんかしない。
荷物が足元に落ちた。
吐き気がする。己の意思が見えない力に動かされているようで気持ち悪い。
エリクは洗面所へ向かった。水瓶に貯めてあった水を手桶ですくい、頭から被る。水の冷たさが、番への執着をほんの少しかき消してくれた。
一瞬でもウルリカ以外の女性に心を動かされたのが悔しい。それも、通りがかっただけの人に。
自分が存在していることが穢らわしい。このままでは周囲のものまで穢れが移りそうだ。そんな妄想が脳裏をよぎる。番の本能を否定して生きてきたくせに、簡単に流されそうになったせいだ。それも最愛の人を裏切る形で。
浅いバスタブに水瓶の水を半分ほど移し、服を脱いで中へ入った。泡立てた石鹸で全身を洗っているうちに高揚した気持ちが落ち着いてくる。だが今度は罪悪感で沈んできた。表面だけ綺麗にしても中身は変わらない。
風呂から出ても嫌な気持ちは完全に消えなかった。寝室に入ってベッドに座り、ウルリカが使っている枕を抱きしめる。
早く帰ってきてほしい。彼女に会えば、番への執着なんてすぐに消えてくれるはずだ。
ふとベルトルドのことを思い出した。
――あの人は、この気持ちに耐えていたのか。
ウルリカからほとんど会っていなかったことは聞いている。すぐ近くにいるのに、会わない選択をし続けることの辛さは相当なものだっただろう。
竜人族の姫の逸話を信じるなら、番の本能は番が遠ざかれば思考に影響しない。エリクを動かそうとする衝動も、じきに落ち着くだろう。今はとにかくウルリカが帰ってくるまで、大人しくするしかない。
時間の経過が遅く感じる。
――そういえば。
耳と尻尾を切り落とせば、獣人としての本能が薄まるというのは本当だろうか。




