決めるのは私
ベルトルドに何をされるのか、分からないほど純情ではない。彼が望んでいるのは、番を手に入れること。隣にいるだけではないのだ。
お互いしか要らない関係になれたなら、とても素晴らしいことだろう。ウルリカはエリクと出会ったことで、それを知った。
ウルリカの力では振り解けない。止めてと叫んでも、誰も助けに来ないのは分かりきっていた。この屋敷にいる人は、ベルトルドの命令しか聞かないのだ。彼の邪魔をするわけがない。
ベルトルドがウルリカの顎に手をかけた。そっと顔を撫でる手は優しい。
――そんな顔をしないで。
悲しそうに見つめられると、自分の気持ちが揺らいでしまう。押さえつけられた恐怖を我慢して、悲しみの理由を探りたくなる。理解してしまったら、もう戻れない。ウルリカが生きてきた過去を否定することになるから。
ベルトルドは口を開いて何かを言いかけた。だが言葉になる直前、警戒心をあらわにして窓がある方を向く。ウルリカの拘束を解いたと同時に、咳き込んで崩れるようにベッドから降りた。ベルトルドは見えないものに抵抗しようとしているのか、胸の辺りを掴んで荒く息をしていたが、やがて表情が抜け落ちていく。
「ウルリカ。大丈夫?」
いつの間にかエリクがベッドの近くに立っていた。
彼の顔を見た途端に、抑えていた感情が蘇ってきた。恐怖と安堵。久しぶりに会えた喜びと、別れた時の寂しさ。全部が混ざって苦しい。
ウルリカはベッドから急いで降りて、エリクに抱きついた。現実逃避の夢ではない証拠に、しっかりとした感触がある。現実の出来事だと頭と体で理解して、力が抜けそうになった。
「遅いわよ馬鹿!」
「ご、ごめん……」
やはり一番に感じているのは怒りだった。自分以外の誰かが、ウルリカの未来を決めようとしたこと。その結果、全てを諦めなければいけない環境へ放り込まれた。常に自分自身を否定されているようで、息苦しかった。
「様子がおかしかったから止めたけど、良かったよね?」
「止めなかったら一生恨んだわ。番ってだけで一緒に暮らすのは無理よ」
「それが君の気持ち? ここにいたら苦労しなくて済みそうだけど」
「私の幸せを勝手に決めないで。自力で出ていけるなら、とっくに出て行ったわ」
「ここから出たい?」
「ええ。出してくれるの?」
「もう戻れないよ」
「戻らないわ」
「じゃあ僕と一緒に行く? テーレには戻れないから、別の町で暮らすことになるよ」
「それでもいいわ。連れて行って」
エリクは安心した顔で額を合わせてきた。
――私、やっぱりこの人が好き。
言葉の端々にはウルリカに対する気遣いがある。萎縮せず話せて、素直になれる相手だから、不安はなかった。勢いで八つ当たりをしてしまったのが恥ずかしい。
「じゃあ、早く外へ出ないと。あの人に使った幻術は長持ちしないんだ」
「待って。これ、使える?」
ウルリカは隠し持っていた睡眠薬を出した。
「店長が睡眠薬をくれたの。狼族に合わせて調合したらしいわ」
瓶の蓋を開けたエリクは、中身の匂いを嗅いだ。
「毒は入ってないわよ。店で調合している薬と同じ味だったわ」
「飲んだの?」
「眠れなかったのよ。狼獣人用は強力だから、私には少しの量で効くの。残っている量なら明け方まで効くと思うわ」
頷いたエリクは瓶をベルトルドの口に当てがった。エリクの囁き声の後に、ベルトルドが自発的に薬を飲む。全て飲み終えたベルトルドは、自分でベッドに倒れた。
これでベルトルドはしばらく起きない。安堵したのも束の間、誰かが寝室の扉を勢いよく開いた。エリクの背中に庇われたウルリカが見たのは、濃い灰色の尖った耳だ。
「問題が起きていると聞いて来てみたら……それがお前の選択なのね?」
いつもと変わらない態度のイングリッドがいる。その後ろには、心配そうにベルトルドを見つめるアンが立っていた。
「いずれこうなると思っていたわ。お兄様は?」
「眠っています」
「そう。殺さなかったことは褒めてあげる。そこの狐。逃げる手段はあるの?」
「ある」
短く答えたエリクは、イングリッドを警戒している様子だった。
「ならばこんなところで話している暇はないわ。お前、メイドの服に着替えなさい」
イングリッドが畳んだ扇の先で示したのは、アンが着ているメイド服だ。
「……ウルリカ。彼女の言う通りにして。暗い色だから、夜道で目立ちにくい」
「分かったわ」
寝室へ入ってきたアンと入れ替わりに、エリクとイングリッドは隣の部屋へ移動した。
「アンさん」
「ご武運を。私には、それしか言えません」
服を脱ぎながら、アンは続けた。
「短い間でしたが、あなたを知ることができて良かった。番の本能が与える影響を客観的に見つめる機会になりました」
「私も、普通に接してくれて助かりました。でもどうしてメイドの姿だったんですか?」
「公にできない事情があるのです。でも、明日からは偽りのない姿へ戻ります」
手渡されたメイド服に着替えてから、アンの着替えを手伝った。貴婦人のドレスは一人で着るのが難しい。
ドレス姿になったアンは違和感がなかった。最初から彼女に合わせて仕立てられていたかのようだ。その理由について、深く考えないほうがいい。ウルリカはここを出ていくのだから、余計な知識は身を滅ぼす。
最後に眠っているベルトルドに近づいた。
「ごめんなさい」
番の本能が強い彼には、様々な葛藤があったのだろう。ウルリカは想像することしかできない。本当の意味で理解できるのは、同じ悩みを持っている人だけだ。
だが本能に流されず、丁重に扱ってくれようとしたことは感謝している。暴走してしまった使用人を遠ざけて、冷遇しないよう努めてくれた。
ウルリカが獣人だったら。
ベルトルドがもう少し雄弁だったら。
同じ身分だったなら。
仮定の話をしてもどうしようもないが、今とは違った未来になったはずだ。
「出会わないのが幸せな番もいるのよ。婚約者とお幸せに」
寝室を出ると、エリクとイングリッドが小声で話しているところだった。着替えが終わったことに気がついたエリクは、ウルリカの靴を足元に置く。ここへ連れてこられたときに履いていた靴だ。
繊細な刺繍で彩られた室内履きから、歩き慣れた自分の靴へ。解放される実感が出てきた。
「準備はいい?」
「ええ」
周囲に半透明の蝶が現れて消え、エリクの姿が狼族に変わる。彼が魔法を使うところを初めて見た。
驚いているウルリカの前にイングリッドが立つ。相変わらず冷たさを感じさせる顔だが、彼女が見た目ほど冷酷な性格ではないのは分かっている。ウルリカとベルトルドの間に立って、世話を焼いてくれた。話し合えという言葉は、ウルリカよりもベルトルドへ向けた言葉だ。
「お前は本当に使えないメイドね!」
イングリッドは手を振り上げ、ウルリカの頬を叩いた。続いて投げつけられたのは、布に包まれたウルリカの服だ。急いで拾い上げたウルリカに、イングリッドの怒声が浴びせられる。
「もう我慢できないわ。今すぐこのメイドを追放しなさい!」
背後から襟首を掴まれた。部屋の外へ向かってエリクが背中を押してくる。着替えている間、イングリッドと打ち合わせをしていたのか、動きに迷いがない。
廊下に出されたウルリカは、どこへ進めばいいのか分からなかった。そこへ使用人の一人が近づいてくるのが見えた。
「いかがなさいましたか? このメイドは……」
うつむいたウルリカの耳に、いつか聞いた声がする。書斎の前で会った使用人だろう。
「見て分かるでしょ。メイドをクビにしたのよ。何度言っても紅茶の淹れ方を覚えないんだから」
「しかしメイドの解雇は旦那様の許可がなければ」
「この私が気に入らないと言っているのよ! 私専属のメイドなんだから、私の意見が最優先されるわ! さあ、理解したなら裏口の鍵を開けなさい! それともあなたが私の専属メイドになる?」
勢いに負けた使用人は、承知しましたと上擦った声で答えた。慌ててもと来た方向へ去っていく。
「左へ真っ直ぐ進みなさい」
小声の指示に従って廊下を進み、狭い階段を降りた。使用人が使う経路だろうか。
人一人が通れる幅しかない扉を潜ると、裏庭だった。奥に見えている塀へ向かって歩く。金属製の柵が見えたところで、イングリッドが言った。
「さようならウルリカ。不幸になったら許さないわよ」
「あ……」
この屋敷に来てから、初めて名前を呼ばれた。使用人たちはウルリカのことをお客様としか呼ばなかった。番であるベルトルドですら、君としか呼んでいない。
ようやく番という記号ではなく、人間に戻れた。
礼を言いかけたウルリカは、近づいてくる使用人を見つけた。解雇されるメイドが礼を言うのはまずい。黙って頭を下げ、イングリッドに感謝を伝えた。
使用人が裏口の鍵を開け、早く出ろと促してくる。柵はウルリカ達が出るとすぐ閉められた。
「なるべく遠くへ捨ててきなさい。二度と戻ってこないようにね!」
可能な限り遠くへ。連れ戻されないように。
彼女の気持ちを知らなければ、ただの冷たい言葉だ。隣にいる使用人には、言葉通りの意味に聞こえていることだろう。
「行こう。崖の下へ降りる道がある」
ウルリカはなるべく足音を立てずに歩いた。屋敷の外へ出られたが、まだ油断できない。すぐ近くには狼獣人達がいるのだ。
周囲には濃い霧が漂い始めている。崖道ではエリクが手を貸してくれたが、暗い中を降りていくのは勇気が必要だった。ようやく下まで降りた時は、安堵のため息がこぼれた。
繋がれていた馬を連れて茂みを抜け、街道に出た。生まれてから一度もテーレを出たことがないウルリカには、未知の世界だ。
遠くに町の灯りが見える。これが最後に見た光景になるだろう。
馬にまたがったウルリカは、前で手綱を握るエリクにしっかりと掴まった。




