最初から最後まで白い結婚でしてよ
ミレイユ・フォールトンとガゼイル・ワグナーの結婚が行われたのは、冬を目前にした秋の終わりの頃だった。
この国での結婚は春先に式が行われる事が主流であるので、そういう意味では珍しいと言えるのかもしれない。
貴族であれば、特に。
式は控えめでささやかなもので、新郎新婦の家族くらいしか参加していない、貴族家同士での結婚とは思えないものであった。
けれどもガゼイルはそんな事すら気にしていなかった。
何故ならこの結婚は親が決めた政略結婚であり、ガゼイルには他に愛する者がいたからである。
愛する女性はかつては貴族であったが、今は没落し平民となってしまった女性である。
ガゼイルは自ら身分を捨てて彼女と結婚をするよりも、この結婚を白い結婚として数年後に離縁し、後妻という形で愛する女性を迎えようと目論んでいた。
その頃には代替わりをし、ガゼイル自身がワグナー家の当主になっているだろうというのもその計画を進めようと思った一つだ。
困った事に彼はその計画が自分の思い通りに進むと信じて疑っていなかった。
けれども、既にこの時点で。
気付ける要素はいくつか存在していたのだ。
規模の小さな結婚式。
誓いのキスを交わす時に、ガゼイルはマトモにキスをするつもりはなかった。唇の端をかすめるように一瞬だけ触れて、それで終わらせるつもりだった。
実際それは、唇どころかそこから更にずれて頬と呼べるギリギリの部分になったけれど。
ガゼイルとしてはそれすらおかしいと思わなかったのだ。
新婦が顔の位置を調整して唇の端だろうと絶対にキスをしないという決意も考えも、気付かなかった。
そしてそんな形だけとしか言いようのない口付けを交わした新郎を、冷ややかな目で見ている親族たちさえ。
ガゼイルがここで気付いていれば、もしかしたら少しは何かが変わったのかもしれない。
例えば――そう、今後の自分の立場とか。
式を終えた後、新婦であったミレイユは初夜を迎えるべく準備をしているはずだった。
そしてそんな夫婦の寝室へガゼイルは赴き、そこで真実を告げてやるつもりだったのだ。
お前を愛するつもりはない、と。
ところがいざ夫婦の寝室へ足を運べば、そこで待っているはずのミレイユの姿はなかった。
これが例えば、少し前までいたけれどトイレに行きたくなって部屋を出ている、とかであればまだしも、そんな気配すらないのだ。
ベッドに腰かけて待っているはずだった妻の姿はそこにはない。
それどころか、本当にこの部屋に立ち入ったのかさえ不明である。
ベッドに腰を下ろして座っていたのであればあるはずの皺なんて、一つもなかったので。
この時点でガゼイルの脳内計画は壊れてしまったが、ガゼイルは一先ず少しばかり待つ事にした。
トイレから戻ってくる可能性を考えての事だ。
けれども、いつまで待ってもミレイユが戻ってくる気配がない。
もしやあの女、迷っているのではあるまいな……?
そんな風に考えて、ガゼイルは寝室を出た。探しに行く事も考えたが、そこまでしてやる義理はないと思ったのでとりあえず使用人に声をかける。
「奥様は私室に戻っておりますが……?」
そして返ってきた言葉がこれである。
初夜の日に寝室にいかず私室にいる、というのがもう有り得ない。
あり得ないのだが、使用人はそのあり得ない事態をおかしいと思っている様子ではなかった。
むしろ何当たり前の事聞いてるんだろう? みたいな雰囲気である。
まるでそんな事もわからないのか、と言われたような気分だった。
知っていて当然の常識を知らないみたいな、非常識な相手を見るかのような目を向けられた気になってガゼイルは思わずカッとなったけれど、使用人に当たり散らすまではいかなかった。
ただ、その怒りのままにずかずかと大股で廊下を移動し、自分の私室から離れた位置にあるミレイユの私室とやらに足早で向かったのである。
「何故寝室にいない!?」
ノックも何もせず乱暴に扉を開け放ち、ガゼイルは開口一番そう叫んだ。
初夜を迎えるつもりがあるとは思えない夜着に、恐らくハーブティーだろうか、カップを手に使用人と何やら話をしていたミレイユが、鬱陶しそうにガゼイルを見る。
「いるわけないでしょう」
まるで目の前を飛び回るハエでも見るような目だった。
同時にミレイユとガゼイルの間に割りいるように使用人が立ち塞がる。まるでミレイユを守ろうとでもいうように。
「まさかこの結婚の意味を理解していないのですか? 白い結婚なのだから初夜を迎える必要などどこにもないというのに」
「なに……?」
白い結婚。
それはガゼイル自らがミレイユに突き付けてやる言葉のはずだった。
だがそれを先んじて自分に言われた事で、ガゼイルは意味が分からなくて思わず戸惑う。
「まさかとは思いますが……私が貴方を愛しているとか、思っていませんよね?
愛しているわけありませんから。冗談でもそんな事言いませんよ。なので妄想も大概にして下さい」
「なっ……!?」
ぼろくそだった。
使用人たちが立ち塞がっているのでミレイユの姿はガゼイルから見えなくなってしまったが、声だけでもどんな表情をして言っているのかがわかってしまった。
「そもそも私には愛している人がいます」
直後の言葉に。
浮気か! と叫びたくなったがしかし言えなかった。
愛しているならいざ知らず、ガゼイルはミレイユを愛しているわけでもないし、ミレイユも今しがたガゼイルの事など愛していないと言ったのだ。
この結婚が白いものである、とも言われている以上、浮気も何も……という話である。
「まさかマトモに話も聞いていなければ状況を把握すらしていないとか……おめでたいにも程がありますわね」
いいですか?
確実に呆れているとわかる声音。
それから椅子を引く音がして、ミレイユの姿が少しだけガゼイルの目に映る。立ち上がったミレイユは、使用人に何かを小声で告げたようで、ガゼイルの前から横にずれる。
そうしてガゼイルの目に再びミレイユの姿が映し出された。
そしてミレイユの表情は今しがたガゼイルが思い浮かべたとおり、呆れ果てたもので。
彼は早々に、先程まで思い描いていたものが何もかも違うのだという結果を突き付けられる事になったのである。
ミレイユには婚約者がいた。ガゼイルではない。
騎士でもあった婚約者は、少し前の隣国との戦いで命を落とした。
帰ってきたら結婚しようと言っていた彼は、もう二度と戻ってはこない。
ミレイユは彼以外との結婚を受け入れるつもりはなかった。
そもそも家は貧乏ではないが裕福と言い切れる程のものでもない。
結婚するにあたり資金援助のために、なんて話を持ち掛けてくるような家もそもそもないと言える程度にはミレイユの家はどこまでも普通のもので、では逆に持参金をたっぷり持って嫁ぎにいけるか、となればそれも難しい。
故に、ミレイユの結婚に関しては家もそこまで望んでいなかったのだ。
どこかいい家の相手に見初められる……なんて事もなさそうだったから両親だって高望みはしなかった。
ミレイユは別に不細工ではないけれど、絶世の美女という程でもなくそこそこまぁまぁの美しさ――言ってしまえば貴族の娘としてならこの程度どこにでもいる、と言う程度でしかなかったので。
愛する彼が死んだ時、いっそ後を追ってしまおうかとも考えた。
けれども家族はそれを良しとはしなかった。
ミレイユの悲しみを理解はしても、だからといって死んでいいとは言えなかったのだ。
だがそのままではどこかから後妻を求めた相手から婚姻を望まれる可能性もあった。そうなる前に修道院にでも行こうかと思っていたミレイユだが、しかし今回の結婚の話が持ち上がったのである。
ミレイユは彼以外の男との結婚など冗談ではない、と言ったのだが、しかし別にその相手と子を作る必要もないと言われ白い結婚で構わないとなったからこそ、この話を受ける事にしたのだ。
ワグナー家では、ガゼイルを密かに持て余していた。
婚約の話を持ち掛けても、自分には愛する人がいると言う。
そしてその愛する人はかつては貴族であったと言われても、今は平民。
貴族であった時よりも平民として暮らしている時間の方が長い女だ。
礼儀作法だって正直危ういと思っている。
けれどもガゼイルは頑なに彼女以外とは結婚をしないと言い張った。
強制的に他の相手と婚姻させたところで、妻を蔑ろにするのが目に見えている。
それだけではない。
ガゼイルには他の噂もあった。
「社交界では貴方が平民の女を恋人にしているという話よりも、貴方の友人との仲を疑う話の方で盛り上がっているのですよ。いかに意中の相手と結ばれるかを相談していたようですが、二人きりで近しい距離でいて、なおかつ友人と談笑をしているとは見えない雰囲気。
結果として、貴方は同性愛者ではないか、という噂が既に社交界では広まっておりますの」
「なん……だと……!?」
ガゼイルはとんでもない噂が広まっているという事実を、今まさに知ったばかりだ。
確かに友人に相談をしたのは事実だ。
恋の話ではあるけれど、その相手は両親が決して認めようとしない相手。
だが結ばれたいという思いは確かにあるからこそ、友人に相談する際とても真剣な表情になっていた自覚はある。
内容も、あまり大声で言えないからこそ声を潜めて言っていたのも記憶にある。
だが別に疚しい話でもないからこそ、人目を避けるような事まではせず、時に社交場で、時にカフェなどの店で相談をしていただけだというのに。疚しくはないが内容が内容なので大きな声では話さなかっただけで。
「ワグナー家の一人息子がまさか同性愛者、なんて噂が出たせいで一番困ったのは、ワグナー夫妻です。えぇ、貴方のお父様とお母様ですわ。
だからこそ余計にさっさと結婚させたくて仕方がなかったのだけれど、婚姻の話をすればするほど貴方は頑なになるばかり。
そしてその相談を貴方は何度も友人に持ち掛けていた」
相談されていた友人は愉快犯なところがあるのでその程度の噂が流れても、彼自身とくに痛手を負う事はなかった。何故なら彼は既に結婚しているので同性愛者という噂が流れたところで奥さんがいるし何だったら夫婦仲が良好なので。噂が出たところで「だから?」としかならないのだ。
その友人の妻も身分差があるからこそ、ガゼイルが相談していたのだろうな、とはミレイユも簡単に想像ができた。
けれども状況が最初から違う。
その友人の結婚に関しては、確かに身分差があるが夫も妻も優秀で相応に成果を出しているのだ。故に二人が結びつく事に周囲も異を唱えなかった。
だがガゼイルの最愛である女は、確かに昔ほんのちょっとだけ貴族だった期間があるけれど、大半は平民として生活していたもうほぼ平民である。今社交界にその女を入れたところで、何ができるのかという話なのだ。
平民でも優秀な存在はいるけれど、そういった相手の中にガゼイルの最愛の女の名が出た事は生憎一度もなかった。
せめてガゼイルとその女が結ばれる事でワグナー家に莫大な利益が生じるような事があればまだしも、何もないのだ。だからこそ両親はずっと反対し続けていた。
結果として、既婚者の同性に想いを寄せているガゼイル、とかいうとんでもない噂が爆誕したわけだが。
真実の愛だかなんだか知らないが、ガゼイルの本命女性は平民であるという話も勿論噂として少しは出ている。
けれども人は面白い話題に飛びつくもの。
その女性との関係は、禁断の恋を隠すカムフラージュではないか、なんて言われているのだ。
鵜呑みにしている者も、わかった上で面白いからあえて乗っかる者もいて、最早ワグナー家にとってガゼイルの存在はどこに出しても恥ずかしい存在である。
だからといって放り出すわけにもいかない。家を追い出せば確実に運命の相手の元へ転がり込むのは目に見えているが、その状態で周囲に迷惑をかけるような事をされるのも家からすると迷惑な話。ガゼイルの両親はガゼイルが周囲に迷惑を掛けずに恋人とおとなしく過ごすという事は考えていない。確実に周囲に迷惑をかけると嫌な方向で信じていた。だからこそそうならないために手を打つ必要があるのだが……
だがしかし殺すにはパンチが弱い。恋人に貢ぐのに家の資産に手をつけるだとか、もうちょっと罰するのに向いている――というのもなんだが――理由があれば処罰もやむなしとなったかもしれないが、そこまではしていないのだ。
幽閉するにしても、ワグナー家には丁度いい幽閉場所がなかったので急ごしらえの場所に閉じ込めたところで脱走される可能性も高い。
そうやって考えた結果、カムフラージュでもなんでも、いっそこの際マトモな貴族女性との結婚をさせた上で家で飼い殺した方がまだマシ――ガゼイルの両親は最終的にそう結論を出したようだった。
そうやってガゼイルの動きを封じ込めている間に、親類からこの家を継ぐのに問題のない相手を養子に迎え入れて、その後にガゼイルの対処をしよう、という事らしい。
ミレイユは生憎そこら辺に興味がないので詳しくは聞いていない。
殺しはせずとも、日の目を見る事はないのだろうな、と察するだけだ。
ミレイユとしても一応表向き結婚しました、という事実があれば離縁した後は次の結婚を……なんて話もそうそう出てこない。仮に誰かに望まれたとしても、前回の結婚でもう充分です……なんて適当に理由をでっちあげてしまえば、無理強いも特にされないだろう。ミレイユにとって結ばれたかったのはあくまでもたった一人だけなので、子ができない事にしてしまえば、そういった話はほぼ出てこないと思っている。
結婚したと言う事実があってもそれは最初から最後まで白い結婚だ。そしてその白い部分を世間に公表するつもりは、どちらの家も特にない。
両家の思惑が一致した結果のものでしかないのだ。
だから初夜なんて最初からする必要はないし、ミレイユがガゼイルに歩み寄る必要もない。
「頃合いを見てどうにかなると思うので、身の振り方をそれまでに決めた方がいいと思いますけれども」
仮初としか言いようのない妻相手になんで初夜なのに寝室にいないんだと怒鳴り込むよりも、他にもっとやるべき事があるでしょうに。
そんな風に言われて、ガゼイルはこの部屋に入ってきた時の威勢をすっかり失ってしまった。
白い結婚を突き付けて、いずれ折を見て離縁を言い出すつもりだった。
だが、ミレイユだけではなく両家の親にも最初からこの結婚が白いものである、と理解されているのだ。
その状態で離縁を言い出したところで、ガゼイルの立場がこれ以上悪くなるだけであるのは明白だった。
「私は彼以外の男性と肌を重ねるつもりはありません。なので白い結婚大いに結構。
ワグナー家も一応どうにか面目を保てる事になりますし、その間に貴方をどうにかする理由を作るつもりのようです。
私と結婚した結果愛人と化した愛する人との不貞が理由になるのか、それとも別の理由を作られるのかはわからないけれど。
……のんびりしている暇はないのではなくて?」
今後の自分の身の振り方を早急に考えて、どうにかしなければならない。
それができなければ、ガゼイルの両親が決めたシナリオ通りにガゼイルの運命は定められるだろう。
仮に今ここででは白い結婚ではなくきちんとした結婚を、とガゼイルが考えたところで。
おかしな真似をするようなら、この場にいる使用人や護衛が黙ってはいないのである。
ミレイユの安全は保障されている。
そうじゃなければガゼイルが部屋に入ってきた時点でもっと騒ぎ立てられているだろうに、それすら気付いていないガゼイルがここから先、人生を逆転できる可能性はとても低そうね……なんて声に出さずにミレイユは既に両親からも見捨てられている哀れな男を見た。
社交界で彼が想いを寄せていると噂されている彼の友人は、愛妻家として知られているからむしろそんな噂が流れても痛くもかゆくもない。彼にとっては友人の悩みを聞いていただけでしかないのだから。
道ならぬ恋に身を焦がしていると噂されているガゼイルも、ミレイユと形だけとはいえ結婚をした事でワグナー家はどうにか体裁を整える事ができた。一時的ではあるが。
だがその一時的で得た時間を、ワグナー夫妻はガゼイルを処分するための準備期間にあてるはずだ。
ワグナー家を継ぐのはガゼイルではなくなってしまったし、それを今からガゼイルが覆すのはほぼ無理だろう。
(有耶無耶にして自分が当主になるとするなら、彼自身が今すぐ両親を殺す、とかかしら?
でもまぁ、無理でしょうね。そんな事をしても犯した罪はすぐ露見する。自分こそが後継者だと名乗って本来予定されてた相手と法廷で争って時間を稼ぐくらいはできても、最終的に負けるでしょうしそうなれば普通に家を追い出されるよりもっと酷い事になる。
……もっと早くに貴族である事を捨てて恋人と駆け落ちでもしておけば苦労はするけど始末されるような事にはならなかったでしょうに。
貴族である事は捨てられない。もしかしたら今まで苦労してきた恋人を貴族に戻したい、なんて思ったのもあるかもしれないわね。でも、ワグナー夫妻がそれを認めていないのなら、たとえお二人を殺すような事をしたところで……他の親族が認めるはずもない)
後手に回れば回る程、ガゼイルにできる事は少なくなっていく。
それこそ最終的には何もかもを捨てて恋人と地の果てまで逃げるくらいの事をしなければならなくなるかもしれない。
だが、それを実行しようとは思わないだろうし、そもそもそこまでの事だとは考えもしていないだろう。
事態の好転を望み、願いながらずるずると無駄な時間を過ごす可能性がとても高い。その結果全てを失う事になるなんて、きっと考えていないに違いないのだ。
お飾りの妻であるミレイユは、ワグナー家の体面を一時的とはいえ保てばいいだけ。そこにガゼイルの評判の回復は含まれていない。
この白い結婚をする際の契約に、ガゼイルを矯正しろなんてあったならミレイユとてこの話は蹴っていた。
精々社交界で、ガゼイルは同性愛者ではなかった、くらいの噂の訂正はするかもしれないが、それだけだ。
ついでに愛人を囲っているという話をするかは、その時の状況次第だろう。
(愛人……いえ、彼にとっては恋人でしたね。いる、という噂自体は前からあったけれど、社交界での噂は面白そうな方に比重が傾いていたもの。恋人がどんな人かまでは知られていなかった)
自分を知るであろう者たちがいるかもしれない場所を堂々と恋人と共に出ていたりはしていなかったようで、だからこそ恋人の噂はそこまで広まらなかったとも言えるのだが。
しかし今後、噂の訂正ついでにガゼイルが愛人を囲っている、なんてミレイユが言ったとして。
(今度はその愛人が男性、なんて尾びれや背びれのついた噂が広まるかもしれないわ)
そんな噂がもし当の恋人にまで知られたら、果たして一体どういう反応をするのだろう?
(まぁ、私には関係ありませんね。どうせ数年の付き合いでいずれ終わる関係ですもの)
未だに自分が置かれた状況を理解しきれていないのか立ち尽くしていたガゼイルに生温い視線を向けて、ミレイユは使用人にそっと指示を出した。
部屋から追い出されたガゼイルが今後どうするのかまでは、ミレイユの知った事ではないので。
――さて、その後の話ではあるけれど。
もしかして自分の置かれた状況って、もしかしなくてもヤバイんじゃないか? なんて遅ればせながら考えたガゼイルは両親のところへ駈け込んだようで。
そこで自分が同性愛者の噂があると知らされて、それはもう思い切り狼狽えたらしい。まぁそうでしょうね、とはミレイユも思う。
ある程度事実に掠っているならともかく、事実無根もいいところな話が突然降りかかれば動揺してもおかしくはない。
そんな噂が立っていて、そのせいでワグナー家の名が穢されかけているのだと両親に盛大に叱られ――るような事はなかった。
既に両親はガゼイルを見限り、彼を次の当主にするつもりもないのだ。この家の跡継ぎは親戚の中から選ぶ事に決めたと言われ、彼の居場所は少なくともこの家から消える事になると明かされて。
すんなりとそれに従えるわけもないガゼイルが、しかし今更抵抗したところで恋人を妻にするために相応の準備も根回しも何一つしてこなかった以上はどうしようもなく。
数年後にガゼイルは病気に罹った事にしてひっそりとこの家からその名を消す事になる、と告げられたのである。
ガゼイルと言う貴族令息が消えると言っても、名を変え平民として生きていく事になるのか、それとも本当に病気という事にして命を消されるのかまでは、今はまだわからない。
しかしガゼイルに示された未来はそのどちらか、というのを両親から言われ、ようやくそこで彼は思った以上に自分の立場が危ういのだと悟ったようではあった。
せめて両親がガゼイルにちゃんとした貴族令嬢との結婚を勧めているうちならまだどうにかできたけれど、それに反抗し続けてきたのだ。であれば、家を追い出される可能性だってもっと早くに考え付いただろうに、この家の一人息子だからと甘く見ていた結果だろう。
どうにもならないと悟った結果、ガゼイルは恋人の家に逃げ込んだようだがしかしその後すごすごと帰ってきた。
もしかして自棄を起こすんじゃないかと思った使用人の一人がこっそり後をつけて一部始終を見ていたようで、恋人の家に駆けこんだガゼイルに何があったかは簡単にミレイユもワグナー夫妻も知る事ができた。
ガゼイルの恋人でもある女性は、いつか貴族に戻れる日を夢見ていた。だからこそガゼイルの言葉を信じていたようで、けれど彼が憔悴した様子でやって来てその夢が叶わぬ事を突き付けられたのである。
夢見ていた、と言っても実際のところは、いつか戻れる日が来たらいいなぁ、というようなぼんやりふんわりしたものであったようだが、そのふわふわした夢に輪郭を与えたのはガゼイルだ。
叶うかもしれない、なんて希望をちらつかせるような事がなければ、彼女も彼女なりに身の丈にあった生活を送るつもりであったようではあるけれど。
ちらついた希望は砕けたし、それどころかガゼイルも家を出される可能性があるだとか、貴族ではなくなるだとか言われて。
そこまでは、女性もまだどうにか冷静でいた様子だったようなのだけれど。
その後ガゼイルが、何もかもなくなるけど、こんな自分でも支えてくれるか? なんて言ったところで。
怒りが爆発したらしい。
使用人からの報告を聞いたミレイユからすれば、彼女が怒ったのも頷ける。
そもそもの話、後継者としての教育もそこまで本腰を入れていたわけじゃなかった。他に相手がいないのだから次の当主は自分だと信じて疑わず、今の今まで親に色々言われていても適当に受け流し楽な方に流れていた男だ。
領地経営のために何か学んだかと言われれば微妙なところだし、そんな男が家を追い出され平民になったとして、すぐにマトモな職にありつけるとも思えない。
女は幼い頃の貴族としての暮らしを遥か遠い思い出として懐かしんだりしていても、今は平民として生活しているからこそわかっているのだ。
平民の仕事だからと言って悪い意味での適当な扱いをしていいわけではない事を。貴族としての感覚が抜けていないのなら、きっとガゼイルは甘く考えてやらかすだろう事を。
平民になった以上は平民として生きていかなければならないのに、いつまでも貴族のつもりでいるようなら仕事をしたところですぐにクビになりそうな予感しかしない。それ以前にマトモに職に就けるかどうかも疑わしい。
そんな先行き不安でしかない男から、支えてくれるか? なんて言われたところで、生活のすべての面倒を見てくれとしか聞こえなかったのだ。
平民になったとしても、もっと必死に現状をどうにかしようという覚悟のようなものがあれば女だってガゼイルとやっていくつもりはあった。
あったけれど、この期に及んでまだ甘く見ているガゼイルとではとても一緒にやっていけない。
追い出されるまでまだ時間があるなら今のうちに少しでも自立できる道を見つけてきなさい! と叱りつけ尻を蹴飛ばし家から叩き出された、と使用人が語った事で、ミレイユはちょっとだけ笑ってしまった。
追い出されたガゼイルはそこで自分の現状が自分で思っている以上にヤバイのだとここに来てようやく本当の意味で理解したらしく、だがしかし現状をどうにかできる手立てもないからこそ、とぼとぼと戻ってきたのだ。
その後は助けを求めるような目をミレイユに向ける事もあったけれど、ミレイユが助けてやる義理はない。
ミレイユの周囲には常に使用人と護衛がいるので、ガゼイルがロクでもない事を考えたところで実行はできないし、だからこそ悠々とそんなガゼイルを尻目にお飾りの妻をやっていられる。
ワグナー夫妻に連れられて社交に出た時にミレイユの口からもワグナー家の名誉を回復するための手伝いはしているので、お飾りの妻だとしても悠々とお茶を飲んでのんびりしていても罪悪感もない。
ガゼイルが連れていかれないのは、余計な事をしでかさないためだろう。
連れていかなくても単独でやって来るかもしれない、なんて思ったが、流石に招待状もなしにやって来るような非常識さまではなかったようで、社交の場でガゼイルは結婚をしたものの性質の悪い風邪に罹って外出がままならない、という事になっている。
これでガゼイルが友人へ助けを求めに行くようであればそんな嘘はすぐに広まりそうだったけれど、流石にそこまで恥を振りまきに行けるだけの図太さまではなかったようだ。
実際助けを求めたところで、友人がどうにかできる事はほとんどない。
精々ちょっとした愚痴を聞くくらいはできるが、仕事を紹介するだとか、そういうところまではしないだろう。
ガゼイルが有能であるのならまだしも、そうではないのだ。そんなのに仕事を紹介して大きな失敗をやらかされた時、紹介したこちらの評判まで下がる事を考えれば……精々口先で頑張れと言うのが関の山。
ガゼイルがそこまでわかっているかはわからないが、友人関係で雇用関係が発生すれば今までのような関係ではなく明確に上下関係が決まるわけで。
意識的にか無意識かはわからないが、それを回避しようとしたのかもしれなかった。
「意外と逞しいのね……まぁ、そうでなければ平民として生きていけなかったっていうのもあるかもしれませんけれど」
後がないと察したガゼイルがとにかく必死に藻掻いているのを他人事のように見物しつつ、ミレイユはガゼイルの恋人である女性について調べてみた。
てっきり貴族の地位か金だけが目当ての女だとばかり思っていたが、ガゼイルが支えてくれるか? なんて言った時の使用人の報告を聞く限り、その時点で見限ったというわけでもなかったのでちょっとだけ興味がわいたのである。
彼女について調べたところ、確かに貴族に戻りたい、という気持ちもあるようではあったけれど、絶対に戻ってやると言う程でもなかったようで。
なんでも幼い頃に食べたお菓子が美味しくて、でも平民になってからは一度も口にしていない事からもう一度貴族に戻れたらあのお菓子をまた食べる事ができるかしら……? なんていうのがそもそも貴族に戻りたい願望の根源であったようだ。
思い出のお菓子は確かに平民の間では出回っていないので、結果として焦がれる気持ちも理解できなくはない。
平民になってからは身の丈にあった暮らしをしているようだし、ガゼイルと恋に落ちたのはともかくとしても、貴族になるのだからとまだなってもいないうちから気が大きくなって何かをやらかした、なんて事もない。
ミレイユの想像以上にしっかり者である、と判明したのもあって。
(この白い結婚が終わる頃に、ガゼイルを生かしたままでもいい、となったのなら。
彼女にお任せするのがいいのでしょうね。手綱はしっかりと握れそうですし)
もしそうなるのであれば。
その時はガゼイルに思い出のお菓子とやらを手土産に持たせて送り出してやればいいかしら……?
ミレイユはそう考えたし、とりあえずワグナー夫妻にも一応話しておこうと思って席を立ったのであった。
(……むしろなんでガゼイルは彼女にそのお菓子を渡さなかったのかしら。理解に苦しむわ。料理長に頼むなりして作ってもらって持っていけば、彼女はきっとそれだけでも充分喜んだでしょうに。
ま、そういうのが最初からデキる男だったらそもそもこんな事になっていませんわね)
ミレイユが調べさせたガゼイルの恋人の特記事項に、『犬が好き。馬鹿な子ほど可愛い』というのが書かれていたのもあって、もしかしてガゼイルもそういう……? とは思ったものの。
わざわざ本人に聞くのは藪蛇な気がしたので、ミレイユはそっとその部分を頭の片隅へ追いやったのである。
ガゼイル同性愛者説はみちならぬ恋に身を焦がす恋愛小説などに感化された年頃の令嬢が一枚噛んでいるかもしれません。
なおガゼイルくんが今後ひっそり処分の方向性に決まったらその時はその時でガゼイルくんの恋人にはミレイユさんがそっとお望みのお菓子を差し入れに行くよ。
どんなお菓子かは想像にお任せするよ。とりあえず平民の口には絶対に入らない高級な感じのを想像しておいていただければ(^^)
恋人さんがガゼイルくんにそれを言ってないのはこどもの頃に食べたお菓子目当てで貴族に戻りたいとか流石に言うのが恥ずかしいっていうのがあるからだよ。いい年した大人が、っていう考えがちらついてる。
次回短編予告
一方的に婚約破棄を突き付けられた挙句、悪評まで流されたオフィリエ。
家族と共に街を追われた彼女が行きついた先で、彼女は元婚約者の幸せな結婚を知る。
人を不幸に陥れておいて自分はのうのうと幸せになっているだなんて……!
そう思うのも無理はなく、オフィリエはそう、ちょっとだけ愚痴っただけなのだ。
次回 婚約破棄を愚痴った結果
愚痴った相手がまさかとんでもない相手だなんてオフィリエは知らなかった。




