送り狼
夕方から夜の山道で、後ろから気配を感じても決して振り向いてはならない。
振り向けばそれは“送り狼”に道案内を頼んだことになる。
無事に家まで送られたなら、礼と見返りを欠かすべからず。
それを怠れば――
山の影が長く伸びる頃、道の上に残っていた日は既に赤く、木立の間はいち早く夜の帳が落ち始めていた。風に煽られた藪からは今にも獣が飛び出して来そうな不気味さがあった。
そんな影が落ち始めた山道を、柚子は急いで下っていた。
高校二年生の彼女は、黒髪ショートヘアを墨のついた筆先のように揺らしながら、茶色の丸い瞳で足元を見ながらホップステップジャンプして木々の根を越えていった。黒いTシャツにショートパンツ。コンバースの足跡が道に刻まれていく。明らかに山向きの恰好ではない。
……こんなはずじゃなかった。もっと気楽に、ハイキングにでも行くノリだったのに、しっかりと登山をする羽目になった。それほど、目的地は山頂にあったのだ。とても雄大な山麓の眺望景観で、しっかりとiPhoneで撮影した。後でそれを友達や親に送ってやろう、と柚子は考えていた。
そもそも、なぜ彼女は山の頂に行ったのか。
というのも、日本でも珍しい"狼信仰"の神社があると、祖母の家で聞いたのだ(毎年のように言われていたが乗る気にならなかった)。
確かに神社に居たのは狛犬ならぬ狛狼。阿吽の呼吸をした二体の狼は、見るものを睨みつけ、聖域を護るべく毅然とした態度をしていた。回り込んでもこちらを睨みつけているようで少し不気味だった。
狼の社自体は小さく、三十分あれば回り切れる。人の姿は見当たらなかったが、朱色の社殿自体は綺麗で、手が入れられている様子だった。恐らく元々は寺院だったのだろう。朱色の門構えや建造物が多く、そこに狼信仰を示す狼の彫り物が並び、よく言う神仏習合といった風貌をしていた。
緑青を帯びた銅板屋根の下で一息ついた柚子は、しばし無人の境内で蝉の声に耳を傾けていた。今日は祖母の家に遊びに来ていた。都会に住む柚子にとって、蝉や蛙の鳴き声は逆に新鮮だった。
ところが、そんな自然に対する認識の薄さが仇となった。山間の日暮れは早い。ようやく日が傾き始めたことに気づき、慌てて弾かれるように下山を開始したのだった。
祖母は言っていた。「あの神社は狼様の社だから、夕暮れには近づくんじゃないよ」「山で背後に気配を感じても振り返るんじゃないよ」
村の入り口にある苔むした石碑にすら「フリカエルナ。オクリオオカミ」なんて刻んである。この村の人間はそんなに狼が怖いのか。もう恐怖の対象は絶滅して一匹たりともいないのに。柚子は思わず薄ら笑いを浮かべてしまう。
ただその言葉を笑って流したのは、気温もまだ高く、蝉の声が五月蝿かった昼下がりの頃のこと。
今は、蝉の声も止み、風さえも息をひそめて、徐々に気温が下がっていく。噂に惹かれて山の奥に進み過ぎてしまった。懐中電灯も、非常食も、地図もない。頼みの綱のiPhoneは”圏外”だ。
(早く帰らなきゃ。おばあちゃんとお母さん、きっと心配してる)
柚子は小石を蹴りながら、急いで山道を下る。
――ぺき、と小枝の折れる音がした。
振り返るべきではない。頭のどこかでそう囁く。祖母が口酸っぱく言っていたことを思い出す。"山で背後に気配を感じても振り返ってはいけない"と。
それに連想して『フリカエルナ。オクリオオカミ』という文言を思い出す。
もし、本当に狼がいたら……。1ミリの考えが脳裏を掠める。だが、パーセンテージ的には熊や鹿の可能性が高いだろう。だとしたら、振り返らなければ逆に危険だ。
背後に柔らかい足音、湿った息づかい。背中をまとわりつくような視線と気配に耐えられず、柚子は足を止め、振り返ってしまった。
そこにいたのは狼――――ではない。驚くことに人だった。薄い色の巫女装束をまとっている。首には金色の鈴をつけ、薄紅色の袴を穿いている。
白い。月の光に浮かび上がるように、白髪の少女が立っていた。腰まである長い銀糸をしている。
歳は柚子と同じくらい。血の気の薄い肌と透明な赤い瞳。着ているのは、白を基調とした巫女装束のような衣。綺麗に染められた薄紅色の袴。
「どうして、振り返ったの?」
少女は柔らかく笑い、小首を傾げる。声は透き通っていて風の音のようだった。
「え、えっと……後ろに誰かがいる気配がして」
透き通った白髪の少女は小首を傾げて、微笑んで言う。
「ふふ、怖かったのね。いいよ。一緒に帰ろう?」
「いいの? やった、助かった! 丁度、道に迷っちゃってさ」
「安心して。この道には慣れてるから」
そうして二人は並んで歩き始めた。どちらかというと柚子はコミュニケーション能力に長けていたので打ち解けるのは早かった。
「私、遠野柚子って言うんだ。高校二年生。都内に住んでるよ。あなたは?」
「わたしは朧。見ての通り、この山の神に仕えているよ」
「巫女さんって、その恰好で山を上り下りしてるんだね。それって修験道みたいな?」
「うーん、修験道とはちょっと違うかもだけど……」
朧の歩き方にはそれが出ていた。静かに、まるで動物のように無音の歩き方をする。山頂の神社で巫女をするくらいだ。きっと山道に慣れているのだろう。
対して、山道に不慣れな柚子はドスドスと音を立てながら、木々の板根で作られた階段を乱暴に下っていた。
「柚子はこの山に来るのは初めて?」
「ううん。毎年夏に、おばあちゃんの家に遊びに来てるよ」
「じゃ、狼伝説の話は聞いたことあるんだ?」
「あるよ!」
狼の伝承については祖母、亡くなった祖父、親戚一同から耳に胼胝ができるほど聞かされた。
言われすぎて記憶が上書きされて、祖母が言っていた「絶対振り返るんじゃないよ」という記憶だけが唯一残されている。
朧は白い素肌の色を変えることもなく、息を荒げることなく話を続けた。対し、柚子は赤ら顔でハアハアと荒い息をしていた。
「柚子は日本神話って好き? この山って、その昔、日本武尊が道迷いしたときに、狼が道案内してたって伝承があって、それで狼信仰が根づいているんだ」
「あ、聞いたことあるよヤマトタケルノミコト! それで狼信仰なんだねぇ」
「柚子はこの村好き?」
「正直嫌い! この村、コンビニもないし、信号もない! マックもスタバも! バスは一日一本だし、村の人が話すのはと伝承やら昔話ばっかり!」
「ふふ。柚子は根っからの現代っ子だね」
「そりゃそうだよ! こちとらずっと都会っ子でやらせてもらってますからね!」
柚子が息を切らしたので、二人は木立の中で小休止を入れることにした。柚子は腕の肌で汗を拭う。「体育の授業以外で、有酸素運動したのはいつぶりだろう……」とぼやいた。その様子を朧は赤い目を細めて見ていた。まるで、何かを吟味するかのように。値踏みするかのように。
「ふふ。柚子、いい匂いがする」
「え、もしかして汗臭い? エイトフォー持って来ればよかったなぁ」
「名前の話だよ。果物の香り。ほら、気にしないで。あと少し頑張ろう?」
朧はくすくす笑って歩き出す。柚子は渋々それに続いた。二人は隊列を作りながら下山していく。
「柚子は"送り狼"って知ってる?」
「知ってるもなにも、おばあちゃんとこ行くと絶対聞かされるもん! "山道で気配を感じても振り返るな"って口うるさいんだもん」
「そうそう。振り返るとどうなるか知ってる?」
「"食べられる"んでしょ? だから、振り返っちゃダメなんだって」
「そう昔はね。振り返った瞬間に食べられた。今は違うけど」
「どうせ御伽噺でしょ?」
「ふふ。どうだろう?」
しばらく歩くと、低木が茂り始めて、空を見透かすことができるようになる。天球が赤色から紫色からのグラデーションを描いていた。遠くで村の明かりちらちらと星の瞬きと一緒に見え始める。柚子の茶色の瞳が輝いた。
「この道、ずっと昔は狼が通っていたんだよ」
朧は袖を振りながら楽し気に話し始めた。
「この村は狼を神様として祀ってたの。人を襲ったり、守ったり。さっき言った送り狼の伝承もね?」
柚子は汗を流しながら首を縦に振る。
「でも、狼なんてもう絶滅して……」
「明治の頃ね。人間に一方的に殺されて、食べもしないのに毛皮ばっかり剥がされて。だから人は祀ったの。怒らせないように。もちろん、さっき言ってた日本武尊の信仰が先だけど」
巫女の声は淡々としていたが、その横顔だけは妙に優しく見えて、不思議と怖くなかった。
柚子自身も、年を取るにつれて、日本でも珍しい”狼信仰”が気になるようになっていた。ただ日本唯一の狼であるニホンオオカミは絶滅して久しい。時たま「ニホンオオカミ目撃情報」があるが、柚子は「ツチノコ発見!?」程度の嘘話としか思っていなかった。
――やがて、家々の灯りが見えてきたとき、柚子は胸をなでおろした。崖上にある祖母の家の明かりが見えてきた。瓦屋根は濡れたような黒で描かれていた。懐かしいその建屋に柚子の胸に温かさが満ちる。
柚子は朧と面と向かって言った。
「じゃあ、送ってくれてありがとう。朧も、気をつけて帰ってね? 振り返っちゃダメだよ?」
柚子が深く頭を下げると、白髪の少女はほんの一瞬、笑顔のまま黙っていた。
「そうだね。逆に、送り狼が振り返ったら、どうなるんだろう? でも、柚子の家の前まで、ちゃんと送るね?」
「え、そこまで……いいよ悪いし」
「ダメだよ。送り狼は、最後まで送らないと意味がないの」
柚子はそんな朧の冗談に軽く笑って頷いた。
二人はいよいよ、祖母宅の玄関先に辿りついた。辺りには味噌汁の匂いが漂う。
柚子は朧に改まって向かい合った。朧の美貌が目に飛び込んでくる。美しさの中に、仄かな粗野を感じたが……気のせいだろうか?
「送ってくれて本当にありがとう! すっごく助かったよ。ありがとうね!」
柚子は元気よく、感謝を込めて言った。
「…………ありがとう、だけ?」
その声は優しいままだったが、どこか温度がない。朧の表情が固まったように見え、柚子はあくせくした。
「えっと、他に何か、いる? お菓子とか、お茶とか……お小遣い? LINE交換する?」
「柚子、わたしね、"送り狼"って呼ばれてること、知ってる?」
「あはは……じ、冗談でしょ?」
白髪の少女は、笑ったまま柚子を見つめる。瞳は赤く、灯りに揺らめいて不気味に透けていた。
「送り狼は、振り返った時点で『道案内をお願い』したことになるの。昔は振り返った段階で食べたりしてたんだけど、わたしは道に迷った人を家まで送ってあげるようにしていたの。柚子は振り返ったよね? だからそれで終わりじゃないの。昔から決まりがあってね――」
柚子はこの村あるあるの伝承に苦笑いして困惑しながら頷く。
「うん、おばあちゃんが言ってた。"振り返ったりしたら、お礼を言うんだよ。鶏の一羽で許してくれる"って」
「そう。『送り届けてもらったら、見返りを渡すこと』」
「み、見返り……」
「うん。血、命――鶏や家畜。何でもいい。何かを差し出さないと、”帰り道は成立しない”の」
白髪の少女の声は囁くように低く、しかしはっきりと耳の奥に届く。柚子の背筋に冷気が這った。
「で、でも……今はそんな習わし、残ってないし……そもそも鶏なんていないし」
「人間が忘れただけだよ。――狼は、忘れてない」
ふわり、と朧は一歩踏み出した。あんなに山道では静かだった足音だったのに、草履が砂利を踏む小さな音がやけに響く。柚子との距離が近づく。
「ねえ、柚子。あなた、帰り道を楽しんでたよね? わたしとおしゃべりして、笑って。『助かった』って言ってたよね? 命を運んでもらったなら、命で返すのが筋なんだよ」
「……い、言ったけど」
朧がさらに、ゆっくり近づいてきた。二人は間際まで顔を合わせる。柚子は一方的に気圧された。
足音が消え、夏風がやむ。鈴が小さく鳴る。
二人の間に静寂が横たわった。
「じゃあ、ちゃんと返さなきゃ。言葉だけじゃ足りない。命を預けて、帰ってきたんだから」
柚子は一歩後ずさる。喉がからからに乾き、声にならない。
「ま、待って。本当に怖がらせるのやめ――」
白髪の少女は笑顔のままなのに、瞳孔だけが細く収束していく。息づかいが獣のように低く、喉が震えた。あまりの気迫に柚子は硬直してしまう
「今の人間って、都会っ子って、『ください』って言うばっかりで、『あげます』って言えないんだね。だから、わたしが決めてあげる」
柚子の脚が地面に縫い留められたように動かない。
少女が首を傾ける。ゆらりと長い白髪が揺れ、声がゆっくりと、低く耳元で囁く。
「見返りは――――柚子でいいよね」
その瞬間、周囲の虫の声も、遠くの犬の鳴き声も、風鈴でさえ音を消してしまった。音のない世界の中、少女の爪先が形を変え始め、皮膚の下で骨が折れ、狼のそれへと変わっていく。朧の身体から、骨の軋む音が小刻みに響いた。
パキ、ポキ……と、指の骨が逆方向へ曲がりながら、獣の形へと作り替えられていく。その指先からは黒く鋭い爪が伸び、血管の浮いた白い皮膚の下で、筋肉が波打つように膨れ上がった。
柚子の喉から声にならない息が漏れる。
「や、やめ――」
返事の代わりに、少女だったものの唇がぞり、と裂けた。
赤い肉が覗き、頬骨が持ち上がるように変形しながら、赤々とした口は耳元近くまで裂けて広がっていく。
そこから覗いたのは、獣の牙――いや。肉を引きちぎり、噛み砕くための、生々しい白刃の羅列。
白髪は逆立ち、やがて背中ら次第に灰褐色の毛皮へと変貌する。腕は前肢へ、着物の袖は血のように赤く染まりながら千切れ、やがて夜気の中へと消えていった。
――そのすべてが数秒の出来事。だが柚子には、刹那が永遠のように永く感じられた。
完全に狼の姿となったそれは、静かに笑ったように見えた。
赤い目が細くなり、鼻先が柚子の首筋へと近づく。
「柚子……あったかい匂いがする」
声は喋っているのか、頭の中に直接響いているのか、判別できない。
逃げようとしたが、足が動かない。呼吸も浅く震えて、肺が上手く膨らまない。
次の瞬間。
柚子の肩の肉に、獣の牙が深く食い込んだ。
骨に当たった鈍い感触。血飛沫が爆ぜて、温かい液体が首から胸へとどっと流れる。
「――っッッ!」
叫び声は、喉に牙が食い込むことで潰され、震えた吐息に変わった。
狼は噛んだまま頭を横に振る。筋肉が裂け、皮膚が裂ける。濃い鉄の匂いが空気を満たし、滴った血が石畳をじわりと黒く染める。
柚子の体から力が抜け、地面に崩れ落ちた。
「ほら、大丈夫。痛いのは最初だけ。すぐ慣れるよ」
狼は次に爪で柚子の腹を引き裂く。そして傷口に口吻を突っ込み、臓物を引きずり出す。柚子は涙で歪む景色の中、薄い目を開けてそれを見た。赤黒い腸が引きずり出され、膜がそれに従って伸びる。朧はそれを、ぐちゃぐちゃと、さぞかし美味しそうに咀嚼した。
柚子の視界がチカチカと明減し始める。手は必死に狼の毛を掴むが、指先から力が抜けて、やがて重力に耐えられず地面に落ちた。
ぴちゃぴちゃと、液体が滴る音と、満足げな狼の唸り声だけが辺りに聞こえる。
――ああ、ニホンオオカミは絶滅してなかったんだ。人間に姿を変えていただけなんだ。
柚子の意識が遠のく間際に彼女はそう答えを出した。そして次の瞬間、生命の灯が消えた。隣家の風鈴が一つだけ鳴った。
ちりん――
風もないのに鳴るその音は、まるで村全体が目を背けている証のように、薄く、遠かった。
翌朝。
家の裏口の地面には、赤黒い染みだけがじっとりと残っていた。
「あ、ああ、柚子……振り返ったんだね……送り狼に、連れて行かれたんだ……」
祖母は震えた声で言う。
「送り狼様に、会っちまったか……」
老人がぼそりと呟くが、誰も応えない。
「この子も、可哀想にねえ」
村では昔から"食われた者の名前を呼んではいけない"という習わしがあった。
遠くの山から、風を裂くような狼の遠吠えが響き渡った。
先日、秩父にある三峯神社に参拝いたしました。実はこの神社の神の使いは「狼」で、この小説は隣接する資料館の展示を見て思いついたものになります。ちらっと本文に出てきた狛犬ならぬ狛狼も、本当に実在します。霊験あらたかな神社で、何度か参拝いたしておりますが、そのたびにまた違った表情を見せてくれるとても大好きな社です。もしよかったら行ってみてください。遠路遥々行く価値がありますから。
今作は、初めての短編ホラー作品で、少しグロテスクな表現に挑戦しました。あまり書かない分野ですが、いかがだったでしょうか。ゾッとした、怖かった、グロかった、可哀想だった……普段とは逆に、そんなネガティブな感想を頂けると嬉しい限りです。
皆さんも、決して山で背後に気配を感じても振り返らないよう――なんて言えないご時世ですね。熊ばかりですから。熊、鹿、猪……狼様が絶滅したせいで過剰に増えているのかもしれませんね。




