仲良くしようね
雨が降っていた。日の光を遮りきれない薄い雲から降り注ぐ、ミストみたいな柔らかい雨。納骨を終え、ビニール傘をさして食事に戻る親族の輪から不意に外れ、ごうは「もうちょっとここに残ってもいい?」とパパに言った。「そのうち帰るから」「食事は?」「先に食べててもらってもいいかな」
おれは喪服を着たごうの真っ直ぐに伸びた背中を数人分後ろ(ごうが踵を返したので後ろは前になった)から見ていたけど、パパに許可をもらったごうはおれの視線を受け取ることなく、静かに元いた墓地に戻って行った。
ひとりになりたい、背中がそう言っていた。あるいは、二人で話したい、かもしれない。近しい人を亡くしたことのないおれは、日本の供養、がこんなに忙しいことを知らなかった。看取り、諸々のお知らせ、申請、手配、通夜、葬儀、火葬、納骨。プロバスケ選手として名前が知れていて、長男で、弟のおれと違って人好きがするごう。いつも誰かがごうに話しかけて、その誰かの言葉一つひとつにごうは真摯に応えていた。思い返せば、互いの仕事場で危篤の知らせを受けて深夜の病院で合流してから、ごうの涙を見ていない。泣く暇もなかったのだ。これからごうは早すぎた時間の流れを取り戻しに行くんだろう、と思った。革靴越しに砂利を踏む感覚を一歩一歩数えながら、おれは前を行くパパに声をかけた。「ねぇ、おれも――」
山あいにある霊園は広く、同じようなお墓が整然と並んでいて方向感覚をおかしくさせる。でも不思議と迷うことはなかった。ごうがいる場所、ごうの向かう場所。子どもの頃からずっとその鼻だけは効くのだった。線香と生ぬるい雨の匂いが混じった中から、ごうの放つ空気、生命力の気配のようなものを辿ると、それほど時間をおかずに、おれはごうを見つけることができた。
ミストみたいだった雨の輪郭が少しずつ実線に近くなる中、ごうはお墓を前に片膝をついて、さっき骨壺を収めたあたりを見つめていた。お墓とお墓の間に植えられた低い樹木に合間で、おれはごうの横顔を見る。ごうの唇がたまに動く。何て言っているかはわからない。ただ深く息を吸って吐いてるだけかもしれないし、何かを語り掛けているようにも、歌を口ずさんでいるようにも見えた。ただその静かな佇まいに、傘の柄を握りなおす。彫刻みたい、とか、黄金比、とか言われてる理想的な鼻筋を、前髪に溜まった雨粒が辿るのが見えた。どんなに待っても、ごうは泣かない。焦げ茶色の澄んだ目は、静かに雨を受け続ける墓石を見つめる。
やさしい、生暖かい風が吹いて、その瞬間おれはわかってしまった。ごうはひとりきりで、また何かを背負おうとしている。生きてるうちも、亡くなってその身体が焼かれるときですらできなかったこと。ちゃんとじいちゃんとお別れをすることと、たぶん、懺悔を――。
懺悔。その重たい言葉が脳に侵食した瞬間、おれの脚は動き出していた。ゆっくりと、でも確実にごうに向かって。ごうのすぐ後ろまで来て見下ろすと、いつもより少し下がった右肩が、雨に濡れてひんやりと冷たそうだった。喪服の硬い生地で覆われていて、触れてもきっと体温はわからないけど。
「イオ、濡れるよ」
もう自分は濡れてるのに、ごうは振り返ることなく、傘を差し出したおれに言う。ごうがさしてきた傘は、たたまれて墓と墓の敷居のいちだん高くなった石の囲いの上に置かれている。おれにはそれがごうに見えて、胸がしんと切なくなる。
「なに……してたの」
「……言えなかったなぁ、最期まで」
ごうが前を向いたまま苦笑する。ごうが背負っているものを思って、唇を噛む。言えなかった、違う。言わなかったんだ。ごうは、自分がラクになることよりも人のしあわせや平穏を選ぶ人だ。それで――。「言えなかったし、言えないようなことをしてるのに、それをやめようとも思えない」自嘲するように、でも、どこか小ざっぱりとした明るい声でごうが言った。「じいちゃん、ごめ……」言いかけたごうの口を片手で覆う。生暖かいごうの息を掌に感じて、泣きたくなった。
(そんなごうに、おれはいつでも、いつまでも護られている)
傘が手から離れる。すぐそばにあるごうの肩に顔を埋め、おれは泣き声を殺す。ごうを抱き締めているようで縋りつくようにもなった身体を、ごうとの明確な境界を、忌々しく思う。ごうの中に溶けて、その覚悟も、痛みも、同じだけ感じられたらいいのに。たった二年弱の差が、ごうが兄でおれが弟だということが、たとえ血が繋がっていても別の人間同士だという事実以上に、境界を濃くしている気がする。ごうはいつだって、無意識におれを護る。きっと何もかもが明るみに出たって、おれには疵一つ負わせてもらえないだろう。
ごうは強くしがみ付きすぎて白くなったおれの手の甲に掌を重ねて、「じいちゃんがね」と静かな声で言った。「二週間前かな?最後にお見舞いにいったときに」ハスキーな声が、ほんの少し幼く揺れる。ごうは上を向いては、と息を吐いて、笑みを含んだ、芯のしっかりした声で、言う。「『庵と仲良くな』って、言ってた」
「仲良くしようね、イオ。ずっと」
それが兄弟としてなのか、恋人としてなのか。この先そのどちらであっても、なのか。ごうは言わなかったし、おれも訊こうとは思わなかった。
「……ん」
「おれは、大丈夫だよ」
ぽんぽん、と、雨に降られても何故かずっとおれよりも温かな手でやさしく覆われる。おれはごうの肩から顔を上げて、祈るように言った。
「ひとりで……大丈夫になんてならないでよ」
ごうがひとりになりたいことを、ひとりになるためにここに来ることを知っていた。たぶん、そう間を置かずおれが追って来ることを、ごうが知ってることも。全部知っていて、それでもこの身体は、目は、心は、ごうを探して、見つけ出してしまう。懺悔。ごうのそれが誰にも、大好きなじいちゃんにすら言えない関係をおれと結んだことについてなら、おれのそれはごうに対するものだ。好きになってごめん、巻き込んで、背負わせて、ごめん。そのどれ一つも言葉にしない狡いおれの中の何かを洗い流すように、弱い雨は絶える様子もなくペールグレーの空から落ちてくる。
「うん。……来てくれてありがとう、イオ」
ようやくごうが振り返って、その瞬間雲の切れ目から光が差し込んだ。明るく照らされた、神様がつくったみたいに整った顔は濡れていたけど、やっぱりごうは泣いていなかった。焦げ茶色の瞳の中に、情けなくなるほど幼い顔をしたおれがいた。ちいさい頃を思い出して、でもその境界を越えたくて、震える唇をごうのそれに押し当てる。ごうの長い腕が強くおれを抱き締めて、その瞬間雨からも日差しからも、喪失の哀しみからも。何もかもから、どうしたっておれは護られていた。