私の知ってる童話じゃないけど!
「あはっ、みすぼらしい姿だこと! 灰まみれのエラ。あなたは今日からシンデレラね!」
妹のイモラが嫌味っぽい笑い声を立てた瞬間、私、アネッサは前世の記憶を取り戻した。
裕福な商家ならではの豪華な応接室、その天井に吊されたシャンデリアに重なるように、二十五年で閉じてしまった前の人生が走馬灯のごとく駆けてゆく。
私はどこにでもいる、ややオタク寄りの文系女子だった。
大学を卒業し、一般企業に就職し、セクハラやパワハラに悩みつつ日々をサバイブしていた矢先、うっかり歩道橋から足を踏み外して転落し、死亡してしまったのだ。
あれ、サバイブしてなくない?
妙齢の女性が不慮の死を遂げた後、ヨーロッパめいた異世界に転生し、「悪役令嬢」にあたる役回りを演じることになるというのは、オタクの間ではもはや一般常識だ。
私はすぐさま、この体自体が持つ記憶と照合しつつ、現状把握に努めた。
私、アネッサはちょっと意地悪そうな顔立ちの美少女。
母のギヴォーナが、裕福な商人と再婚したのを機に、つい先日、妹ともども、このクレイ家にやって来た。
そうして引き合わされたクレイ氏の元々の子どもが、今、応接室の隅で居心地悪そうに立っている金髪の少女。名前はエラ。
前妻の子とされているが、正確には、クレイ氏が数年前に引き取った捨て子だそうだ。
十三歳だというが発育も顔色も悪く、直前まで汚れ仕事をしていたのか灰まみれのみすぼらしい装いをしている。
おかげで、ついたあだ名はシンデレラ――。
はい、どう考えても童話「シンデレラ」の世界です、ありがとうございました!
悪役令嬢系の話は多々あれど、下敷きとなる話が乙女ゲームでもマンガでもなく童話だというのは少々珍しいというか、「意外に直球きたな」という感想だ。
考えてみれば、シンデレラの姉って元祖悪役令嬢だもんね。
義妹いびりの草分け的存在だ。
元祖なだけあって、悪役令嬢側が受ける「ざまぁ」もえぐい。
ペロー版なら、平謝りすれば許してくれるけど、グリム版だと、義姉たちは足を切り落としたり、シンデレラ強火担の鳩に両目をえぐられたりする羽目になるのだ。
ちなみにグリム版の場合、魔法使いは出てこず、代わりにシンデレラは不思議な力を持つハシバミの木に願い、自力でドレスを入手する。
グリム版のほうが根性あるよね。
目を抉られる義姉たちを見てシンデレラは幸せそうに微笑むというから、サイコみもあるけれど。
とそのとき、窓の外でハシバミの木に鳩が止まっているのを見つけてしまい、青ざめた。
えっ、ここ、グリム版じゃん!
ということは――選択を誤れば、私、目を抉られる羽目になるのでは!?
「お姉様との時間を邪魔しないでちょうだい、シンデレラ。あたしたちが遊んでいる間、そうね、あなたは暖炉の掃除でも――」
「くぁwせdrftgyふじこlp!!」
考えに耽っている間にも、勢いよく破滅道を爆走する妹を、思わず叫んで制止した。
馬鹿イモラ馬鹿イモラ!
そんなこと言ってると、将来足を切り落とす羽目になるんだからね!
ちなみに私は親指、あんたは踵よ!
私はこほんと咳払いし、努めて優しく切り出した。
「こら、イモラ。せっかく出来た家族だもの、優しくしましょう。エラは召使いではないわ」
「えぇー? だって、あたしの家族はお姉様だけで十分だもの。召使い扱いでいいでしょ?」
シスコン気味のこの妹は、わがままな性格で、自身を世界の主役だと思っている節がある。
でも待って、イモラ。
私たちたぶん、姉だからアネッサで、妹だからイモラで、義母だからギヴォーナなのよ?
この世界において、そういう、ものすごく適当に決められた感じの、ものすごくぞんざいに扱われそうなポジションなのよ。
自重しよ?
「それにこの子、なんか暗いし、みすぼらしいわ」
「そんなの、環境次第で変わるわよ! ガラッと!」
こちらの心配をよそに、イモラが軽々しく主人公を敵に回そうとするものだから、つい力強く断言してしまう。
聞け妹よ、ドレスをまとったシンデレラに、いずれ私たちは圧倒されることになるのよ。
あまりにもきっぱりとした断定に驚いたのだろう、エラが目を見開いている。
ボサボサの前髪に隠れた瞳は宝石のような青色であることに気付き、ほらねと思った。
今は痩せっぽちだし、肌荒れもひどいけど、磨けばこの子、絶世の美女になるわよ。
控えめな佇まいは庇護欲をくすぐるし、王子の心を射止めるのは、このぶんだともはや確定事項。
ということは、私たちの破滅も、このままでは確定だわ。
「エラ。さっきは妹がごめんね。今後は絶対、灰かぶりだなんて呼ばせないわ」
なにしろ、それすなわち破滅への道だもの。
私は、自分史上最大に優しい声を出しながら、エラの荒れた手を取った。
とにかく、この子を虐げる行為は一切やめなければ。
「私、あなたと仲よくしたい。私はあなたの味方よ。これから一緒に、楽しく暮らしましょう」
ついでに誓った。
この子を幸せにしなくてはと。
だって、いくらこき使われたり、舞踏会行きを邪魔されたからといって、義姉の目をくり抜かせて微笑むって、どういう神経?
とんだサイコ女よ。
情操教育を誤るわけにはいかない。
愛情で包み込んで、自己肯定感を育み、他人の過ちを許せる優しい子に育てるのよ。
かつ、私は敵ではなく味方であると刷り込む。
そんなわけで、私の、私による、主に私の安全のための、シンデレラ更生計画は始まったのだった。
***
さて、決意をしたはいいものの、エラの教育、というか懐かせ計画は、そうスムーズには進まなかった。
何しろ彼女ときたら、とにかく警戒心が強く、万事控えめなのだ。
一緒に食事をしようと誘っても、食卓の隅で縮こまって俯くだけ。
話すことも極端に少なく、笑顔もなく、そもそも目を見て話を聞こうとしない。
へそくりをはたいて可愛いドレスを贈っても、一度も袖を通してくれず、男物と疑うばかりの質素な作業着ばかりを好んで身に着けていた。
母や妹なんて呆れてしまって、「やっぱりこの子は使用人で十分よ」などと言って雑用を命じたものだ。
けれど、そのたびに私はそれを宥めた。
というのも、おどおどした行動を取るエラに、前世ブラック企業でパワハラ上司に苦しめられた自分の姿を重ねてしまったためだ。
いやわかるよ。
一度「怖い」と認識してしまった相手の前では、身を縮こめたくもなるよね。
傷付きたくないから、話さないし笑わない。
いつも視線をわずかに逸らして、小さくなってやり過ごしていたっけ。
いきなり贈り物をされても、裏があるのかと警戒するよね。
「ねえ、エラ。私たちのことが、怖い?」
なのである日、母と妹が買い物に出かけて、屋敷内に二人きりになったとき、私はエラに尋ねてみた。
「ほら、私たちって、話し方が偉そうだったり、態度も大きいから。連れ子のくせに大きな顔して、あなたを怖がらせてしまっているなら、悪いなあと思って」
エラは母から芋の皮むきを命じられ――そういうの、止めたほうがいいってば、お母様!――、台所に立っているところだった。
そこですかさず私も皮むきを手伝うことにする。
さりげなくお母様の破滅フラグまでへし折る有能な私。
それに、もしかしたらこういう些細な善行が積み重なって、「姉様大好き、玉の輿に乗っても目はえぐらないし全財産あげます♡」みたいな展開になるかもしれないからね。
「ドレスとかもね、本当に、全然、裏があるわけではなくて、可愛いと思ったから贈っただけなのよ。あっ、もちろん、気に入らなければ全然、着なくてもいいんだけど」
強要と取られてはまずいので、慌てて付け足す。
するとエラは、申し訳なさそうに一層縮こまり、ナイフをまな板に置いた。
「気に入らないという、わけでは……。ただ、私には、相応しくない装いですので」
蚊の鳴くような声で答える。
私はびっくりして、「なぜ?」と声を上げてしまった。
だってあなた、天下のシンデレラよ?
鳩を手なずけ無からドレスを生み出し、セルフプロデュースは大成功、ひとたび躍れば一国の王子のハートを攫い、庶民から王妃へとステータスを駆け上がる、世界一有名なお姫様となるべき女よ?
「私には、このような、みすぼらしい恰好がお似合いなのです」
「まさか! 私、あなたは磨けば光る逸材だって、心から確信しているわ」
「そんなことを言ってくださるのは、アネッサ姉様だけです。私は本当に、不出来な人間で」
悲しげに呟かれてしまい、私は思わず眉を顰めた。
「どこが不出来だというの? あなた、隠しているようだけど、私たちよりよっぽど計算も速いし、字もきれいじゃない。私、知っているんですからね」
これは本当のことだ。
彼女は、私たちが家庭教師から受けている講義を拾い聞いているだけなのに、たちまちその教えを飲み込んでしまう。
私だって前世で大学を出たわけだから、この中世世界観ではかなりの才女だと思うのだけど、その私が難解だと感じた数式の解を、彼女はこの前、暖炉の灰の中に指でこっそり書いていた。
主人公力をまざまざと感じた瞬間だ。
「えっ、見て……」
「大切な家族のことだもの、ずっと見てるわ。あなたの才能は、正直そこらの貴族以上よ」
大げさに褒め称えると、エラは苦笑するかと思いきや、悲しげに目を伏せ、呟いた。
「……そんな、貴族以上だなんて。魔力があるわけでもないのに」
彼女がそういうのは、この国において、王侯貴族は魔力を持つとされているからだ。
とはいっても、剣と魔法とドラゴンが出てくる、本格ファンタジー路線の世界観かと言われればそうでもない。
王や上位貴族は神の末裔であり、それを証立てるように、それら高貴な人々は、ちょっぴり物を浮かせたり、獣を使役する程度の不思議な力を持っている、というだけだ。
まあ、なにせハシバミの木に願うだけでドレスを授かったりする世界観なのだから、多少、超能力のようなものが存在してもおかしくないだろう。
とはいえ、高貴な人だけが持つ魔力なんて、一般庶民には無縁の話。
王族あたりだと、魔力がないからという理由で追放されてしまうこともあるらしいけど、庶民では魔力を持っているほうが稀、というか、そんなことが起こったら奇跡だ。
あっ、そうか。
だから、「願っただけでドレスを出現させられてしまうシンデレラ」は「魔力が使える」、すなわち「高貴なる女」という証明になるのね?
ははあ、そしてその能力のおかげで、庶民が王子に嫁いでも許されると。
ということは、エラが魔力なんて得てしまったら、また一歩、私の破滅に近付いてしまうではないの!
「魔力なんていらないでしょう?」
よって私は、エラの手を取り、はっきりとした声で告げた。
「今、私、魔力の話なんかしてた? 私はあなたの才能を褒めているのよ」
なぜだかエラがはっと息を呑む。
私の圧が強すぎたのかもしれない。
申し訳ないと思いつつも、いやいや、これは私や妹の進退に関わる話だ。
極力相手を怯えさせないよう、自分の中で最大に優しい声を出して、私は話しかけた。
「この手は勤勉で働き者の手だわ。誰より早く数式を書くし、誰より上手に芋の皮を剥く」
同性だしたぶんセクハラにはならないよね。
きゅっと手に力を込める。
エラの腕は細かったけど、意外にも指が長く、手自体は私と同じくらい大きかった。
数年後には高身長の美女になるのかもしれない。
「この足は、力強い足だわ。どんな仕事をこなした後でも、崩れ落ちずまっすぐ立っているし、道にも迷わない」
ついで私は、少年のようなズボンに隠されたエラの足を指し示した。
そういえばこの子、お母様やイモラにこき使われることがあっても、寝込んだり、疲れて座り込むようなことがないのよね。
華奢なわりに体力があるのかも。
それに、一度歩いた道はすぐに覚えてしまうから、全然道に迷わない。
お遣いを命じられた時、手伝おうと追いかけて道に迷ってしまった私のことを、彼女が逆に探しに来てくれたっけ。
「あなたは自分で歩く力があるの。それって、すごく大事なことだわ。自立、ってやつ」
自立、という言葉を、私は特に入念に繰り返した。
思うに、「スパダリに見初められることこそ女の幸せ!」なんて価値観の持ち主だから、シンデレラは玉の輿展開に乗ったのだ。
ここはひとつ、彼女に、「自分で掴み取るものこそ真の幸せ」「奢られる寿司より、自分で稼いだ金で食べる寿司のほうが美味しいじゃん?」といった価値観を植え付けておかねばならない。
これによって、彼女の玉の輿願望を根本から断ち、そもそも舞踏会に興味を持たないという未来を実現するのだ。
まったく、十手先を読む私の深謀遠慮ぶりときたら、我ながら舌を巻くほどだ。
「……姉様は、自立した人間が、お好きですか?」
「もちろんよ! 自立していて、自分でしっかり稼げる、主体性のある人間が理想だわ」
「ですが、女性は一般的に、高貴な王子に見初められることを望むものでは?」
「全っ然! 全然そんなことないわ! 身分なんて関係ない。大事なのは、そう、ええっと……愛よ! 男性から溺れるような愛を注がれること、それこそが真の女の幸せよ!」
玉の輿に興味を持たれてはかなわない。
その一心で、私は力いっぱい断言した。
ちょうどエラには、買い物に出かけるたびに、真っ赤になって親切にしてくれるパン屋の少年がいる。
エラの隠された美貌を見て、好意が抑えきれない様子だ。
お相手としてはああいうのがいいんじゃないかな。
優しそうだし、めっちゃ愛してくれそうだもの。
あそこのパン、美味しいし。
「溺れるような愛を注がれることこそ、女性の幸せ……」
「そうよ、覚えておいてね!」
反芻するエラに念押しし、その後私たちは和やかに芋の皮むきを終えた。
褒め殺し作戦が効いたのか、その日を境にエラは、私に対しては時々、はにかむような笑みを見せるようになった。
嬉しい。
***
さてそれから一年が経ち、私が十六歳、エラが十四歳となった秋である。
私の精神に、いいや、国全体に激震が走った。
なんと、我が家を含む、年頃の娘や息子がいる貴族家庭および上流家庭に、王家主催の舞踏会への招待状が届いたのである。
名目は、国内の若者の交流促進だそうだが、実際には、王子の学友となるべき男女を見定める会なのだそうだ。
さらに正味の話、学友探しなどというのも建前で、本当は嫁を探したいのだろう。
女ばかり集めるとあからさますぎるから、カムフラージュというわけだ。
「嬉しいわ、お母様! 貴族でもないあたしたちが、まさか王宮の舞踏会に参加できるなんて」
「そうよ、イモラ。旦那様には王家との伝手があるのですって。それで特別に、貴族でないわたくしたちも王宮に上がれることになったのよ! 見初められれば、王妃だって夢じゃないわ!」
お母様も妹も、突如転がってきた玉の輿のチャンスに大喜びだ。
口先ばかりでお調子者のお義父様に、王家との伝手があるだなんて疑わしいから、実際のところは、この一年でぐっと増したエラの美貌が、王家にまで伝わってしまったのではないかと私は思う。
だってエラったら、相変わらず野暮ったい前髪で魅力を抑えてはいるけど、私のように見る目のある人間からすれば、涼しげな青い瞳とか、抜けるように白い肌とか、高い鼻筋とか、全然隠せてないんだもの。
変態に目をつけられないようにするためか、いつも男物のような服ばかり着ているけれど、その上に載っている顔が紛れもなく美少女なのだから、私に言わせてもらえば男装なんて無意味だ。
もっと可愛い服を着ればいいのにと思う。
ゴージャスなドレスとか。
とそこまで考えて、私は「いやいやいやいや!」と我に返った。
ゴージャスなドレスを着ればいい、じゃないんだわ。
エラが舞踏会になんか出てしまったら、世界がシナリオ通りに進んでしまうじゃない。
それにしたって、シンデレラの年齢は十六、七くらいかな、なんて漠然と思い込んでいたものだから、完全に油断していた。
っていうか十四歳を見初めてくる王子とか、私の前世の価値観からすれば完全にアウトなんですけど!?
のんびり構えていたばかりに、エラとの関係構築も道半ばだ。
ほかの家族に比べれば、だいぶ心を開いてくれているとは思うけど、性格の根っこに人間不信でもあるのか、あの子は時々すごく冷めた目をする。
どうせ自分を愛してくれる人間なんていないよね、みたいな、諦めきった目。
差し出した手を全力では握り返してくれないというか、遠慮がちというか、いつも距離を残しているというかね。
そこを変えてからじゃないとさー!
よくないんじゃないかなー!
舞踏会に行って、幼女趣味の王子にうっかりロックオンなんかされたりした日には、非行少女がロクデナシに捕まるみたいなノリで、流されるがままのセックス、共依存、早すぎる妊娠、メンタル崩壊、からのサイコパス闇堕ち、義姉の目えぐり……うわああ、見えちゃった!
なんかヤバい未来が今見えちゃった!
私は、応接室のソファの端で、一緒に招待状を見ていたエラのことを、ばっと振り向いた。
「エラ! あなたは、舞踏会なんて――」
「すみません、せっかくのお話ですが、私は参加しません」
ところが、「行かないわよね!?」と圧力を掛ける前に、エラ自身がお母様にそう切り出したので、すっかり出鼻を挫かれてしまった。
え、行かないの?
「可愛がっていた鳩が、このところ、弱っていて……。もしかしたら寿命かもしれません。傍に、いてあげたいのです」
「ああ、あの鳩? あなたが飼っていたの? 道理でハシバミの木にずっと居着いていると思ったわ」
「母から託された、大事な鳩なのです」
胸元できゅっと両手を握り締めたエラに、お母様は「鳴き声がうるさいと思っていたのよ」と顔を顰め、けれどすぐ、満更でもなさそうに頷いた。
「まあ、あなたがそう言うなら無理強いはしないわ。舞踏会にはアネッサとイモラだけが参加する。文句ないわね?」
「はい」
一方私は困惑した。
え……っ、と。
自主的な欠席ならば、本筋から外れたということでいいのかな。
恨まれる筋合いはないものね。
でも、作中のシンデレラって、欠席と見せかけて、家族の裏をかいて舞踏会に出たんじゃなかったっけ。
それを思えば、この展開はむしろ本筋に沿っている気もする。
どっち!?
慎重に事態を見極めようとしているうちに、半月が経ち、あっという間に舞踏会の当日になってしまう。
いよいよ我が家からの馬車が出ます、という段になっても、やはりエラはおめかしをせず、台所のテーブルに弱った鳩を横たわらせ、じっとそれを見つめるだけだった。
「い、いいの、エラ? 舞踏会に行かなくて」
「はい。今日がこの子の最期になるかもしれない。それなら、見ていてあげたいのです。姉様はどうぞ気にせず、行ってきてください」
エラはちらりとこちらを振り返り、寂しそうな笑みを浮かべた。
「城に上がれば……きっと姉様なら、素敵な出会いに恵まれます」
「アネッサ、早くなさい」
「お姉様ぁーっ! 早く馬車に乗りましょ! お揃いのショールを早くみんなに見せびらかしたいの」
玄関からは、お母様と、浮かれた妹の声がする。
ずっとエラに構いがちだった私が、久々に一緒に出かけるというのでご機嫌なのだ。
なんて可愛い妹だろう。
でも――。
「あ、いたた! いたたたた!」
私は一度だけ拳を握り締めると、腹を決め、その場にもんどりうってみせた。
「ああー! 痛い! 足の小指がぎっくり腰で、もう立っていられない! 肘のあたりも耳鳴りがするし、なんかもう全体的にとても無理! 到底舞踏会で踊れる体調じゃない!」
「ええっ!? お姉様、大丈夫!?」
「だ、大丈夫ですか?」
馬車からはイモラが駆け寄りそうな気配がし、エラまで椅子から腰を浮かす。
そのどちらともを、私は更なる呻き声と叫び声で制し、渾身の演技を続けた。
「胃腸もまずい! 絶対粗相しちゃう! 家名に泥を塗っちゃう! せっかくの晴れがましい日、それはあまりに両親に申し訳ないので、ごめんなさい、私は舞踏会を欠席します!」
「えええっ!?」
イモラは心配そうな声を上げたが、すぐにお母様によって馬車に引き戻された。
基本的にドライで現実主義のお母様からすれば、よくわからない病で大騒ぎする娘に構うより、遅刻せず舞踏会に出席することのほうが百倍大事なのだろう。
首尾よく二人の馬車を見送った後、私は、呆然としているエラに、にっと微笑みかけた。
「私も一緒にいるわ」
ぐったりした鳩が可哀想だったので、ショールで巻いて温めてやる。
「鳩もこれじゃあ寂しいし、最期を一人で見守るなんて、つらすぎるでしょう。何ができるわけでもないけど、ほら、こういう時って、そばに誰かいるだけで心丈夫だから」
という動物愛護の精神は理由の半分だけで、もう半分は、こっそり舞踏会に出ようとしているかもしれないエラを監視しておこうという魂胆だった。
だって相手はシンデレラで、今日は舞踏会よ?
もしかしたら私たちが出かけた途端、弱っていた鳩は元気になって、原作通りにドレスを咥えて持ってきて、エラをプロデュースしはじめるのかもしれない。
この、何かとエラにまとわりついてくる鳩、怪しいと思うのよね。
たぶん、こいつが将来、私の目を抉る役を演じるのだと思う。
それを思えば、今からこの鳩を無力化しておきたくもなるが、いやいや、私も鬼ではない。
ここはひとつ、看病によって恩を売り、鳩とも友好な関係を築こうじゃないの。
「で、でも、姉様。今日の舞踏会は、女性にとっては千載一遇の――」
「いいの、いいの。そんなことより、あなたの鳩が大事だわ」
鳩自体が、というか、鳩を懐柔させることがね。
エラは声を詰まらせ、信じられないものでも見るような表情を浮かべている。
さすがにちょっと臭すぎたかしら。
「ク……、クルッ、ク」
と、温められたのがよかったのか、鳩が甘えたように鳴き出した。
「あっ、少し元気になったのかしら――」
私は途中で声を途切れさせてしまった。
というのも、ショール越しに、鳩がふんわりと淡く光った気がしたからだ。
「え? なにか、この鳩、光った……?」
光の加減かとも思ったが、すでに夕陽は落ちはじめ、そもそも台所に日が射してはいない。
「――……! まさか」
エラが息を呑みながら手を伸ばした瞬間、鳩はむくりと身を起こし、ショールを撥ねのけて飛び立った!
「えっ!?」
――ばささささ……っ!
開いていた窓から、鳩は勢いよく飛び出して行く。
「待って!」
エラは驚いた様子で声を上げたけど、やがて諦めたように、伸ばしていた手をゆるゆると下ろす。
「鳩は、……私のそばにいたくないのかもしれませんね。姉様、付き合わせてしまってすみません。今からでも舞踏会に向かってください」
そんなことを言うものだから、私は「いやいやいや」と声を張った。
「なに言っているの! あなたの鳩でしょう!? 心配じゃない! 追うわよ!」
「え……っ」
だって私は心配だった。
あの鳩め、元気になった途端、シンデレラ用のドレスを取りに行ったのではあるまいな。
それでもって、ハシバミの木に落とそうとしているのではあるまいな。
そんなことになれば、せっかく介入してきたストーリーが本筋に逆戻りだ。
エラのシンデレラ化は、絶対に阻止してみせる。
つまり、あの鳩を邪魔してみせる。
私は決意に燃えていた。
「え、っと、では、手分けして」
「だめよ! 一緒に探しましょう」
エラったら、さては私を撒こうとでも!?
そうはさせじと、ぎゅっと手を握る。
息を呑んだエラに、私は言い聞かせるつもりで告げた。
「絶対にこの手は離さないからね。私たち、ずっと一緒よ」
この私の目を盗んで舞踏会に参加だなんて、絶対させないんだからね。
「…………っ」
迫力に恐れを成したのか、エラが唇を噛み締める。
でよく見えないけど、瞳に少し、涙が滲んだ気がした。
泣かせちゃったなら心苦しいけど、いやいや、私の未来と安全は譲れない。
私は心を鬼にして、エラの手をひとときたりとも離さずに、夜に沈む町を駆けずり回った。
「はぁ……っ、はぁ……っ、どこに行ったのかしら、あの鳩」
「もう十分です、姉様。せっかくのドレスが……どうか今からでも舞踏会に出てください」
「何を言っているの!? ドレスなんかより、あなたの鳩を探す方が百倍大事だわ!」
ぴしりと言い切ると、エラはとうとう立ち止まり、顔を覆った。
「エ、エラ? 大丈夫……?」
もしかして計画を邪魔されすぎて、激怒しちゃった?
ドキドキしながら尋ねると、エラはふいに顔を上げ、引き寄せられるように夜道を進み始めた。
「……視える」
「へっ?」
ふらりとした足取りで辿るのは、なんと我が家に戻る道だ。
どういうこと? と首を傾げつつ後に続くと、エラは、庭の裏に植えてあるハシバミの木にたどり着いた。
するとなんということだろう。先ほど窓から逃げてしまったと思った鳩が、枝に止まっているではないか。
「えっ、結局ここ!?」
私は咄嗟に、鳩が何も咥えていないかを確認した。
ドレスなし、金銀の靴なし。
神よ!
この鳩はシンデレラのプロデュース用小道具を何一つ持って来なかった!
しかも、夜の闇を伝って、ガラーンと鐘の音が響く。
十二時を告げる鐘だ。
ということは。
「よ、よかったー!」
シンデレラの舞踏会イベント、回避だ!
感動のあまり、私はエラの両手を取って、ぶんぶん振ってしまった。
「よかった! エラ! 本当によかった!」
安堵のあまり笑みがこぼれる。髪もドレスもぼろぼろだったけど、そんなのはもう、全然どうでもよかった。
「私、こんなに嬉しいことってないわ!」
するとエラは、押し殺した声で呟いた。
「姉様。あなたという人は、なんて……っ」
が、その声はあまりに小さくて、よく聞き取れない。
何しろ私、飛び跳ねていたしね。
「え、ごめん、エラ。今なんて――」
私は身を乗り出したけれど、言葉を最後まで紡ぐことは出来なかった。
なぜなら、エラがぎゅっと握り締めていた両手から、突然光が溢れだしたからだ。
「えっ!?」
――パァァァ……ッ!
白い光は闇を切り裂き、ハシバミの木に止まっていた鳩を飲み込んだかと思うと、両翼の形になって夜空いっぱいに広がる。
やがて光の粒はすぅっとひとかたまりになって、エラの胸あたりに吸い込まれていった。
「えっ!? えっ!?」
「ああ……」
ぎょっとして、ハシバミの木とエラを交互に見つめる私をよそに、エラ当人といえば、感極まった様子で胸を押さえている。
「私にも、魔力が……!」
「ええええっ!?」
なんで魔力が使えるようになっちゃってんのこの子!
なにこの展開!
私の知ってる「シンデレラ」じゃないんですけど!
というか、鳩って魔力の、なんていうのこう、象徴? みたいなやつだったの!?
混乱しきりの私を見て、エラはくすっと笑うと、いくつかのことを説明してくれた。
「実は、私の母は、庶民には珍しく魔力を持つ人だったのです。私はその力を受け継いだはずなのに、うまく使えなくて……。魔力の発現には、強い意志や強烈な感情が必要だというから、そのせいだと思うのですが」
なんでも魔力というのは、動力となる強い感情、そして魔力に呑まれないための揺るぎない意志の二つがないと使えないらしい。
強い感情は憎しみでも愛でも執着でもよいけれど、揺るぎない意志を得るためには、自己肯定感や自信をしっかりと育む必要がある。
ところがエラの場合、生まれてすぐ母親に捨てられてしまったり、たらい回しにされたりした過去があり、どうしても自分に自信が持てずにいたそうだ。
たしかに、私と出会ってからも、結構長い間、暗い顔していたものね。
「ですが、姉様はずっと優しくしてくださって……。いつもいつも、自分のことよりも優先して、私を守り、信じてくださった。それで、私は」
エラは言葉を飲み込んでしまったが、私には続きがわかる気がした。
なるほど、こちらの真心がエラに届き、家族の情が芽生えたということだ。
「大好きです、アネッサ姉様」
はにかんで、珍しくきゅっとこちらに抱きついてくるエラに、なんだかじーんとしてしまう。
えっ、嬉しい。
元は破滅回避のためにしたことだけど、警戒心の強かった義理の妹に慕われるなんて、素直に喜ばしいことじゃない?
鳩だとか魔力だとか、だいぶ私の知ってる童話じゃないけど、とにかく破滅に続く舞踏会は回避したのだし、これでいいじゃない。
ほっこりしていると、身を離したエラがにこにこ笑って手を差し出してくる。
「姉様。手を」
「え? 手? 繋ぐの?」
「はい。だって、約束しましたから」
いやぁ、舞踏会は無事に済んだし、もうエラを拘束しておく必要もないのだけど。
とはいえ、これまでの鬱屈ぶりはどこへやら、最後に残っていた遠慮までなくなって、ストレートに家族の情を示してくれるエラはとっても可愛い。
だいたい私、イモラもそうだけど、懐いてくれる年下の子って大好きなのよね。
結局私はエラの手を取り、家までの短い道のりを辿ったのだった。
***
さて、そこからさらに一年が経ち、私は十七歳、エラは十五歳になった。
鳩探しの夜、エラは完全に心を開いてくれたみたいで、以降すっかり私に懐いている。
一緒に鳩探しをしたのがポイント高かったのかな。
それとも、実は魔力に憧れがあったようだから、見事それが開花したことで、「生きとし生けるものすべて愛しい」みたいな心境なのかもしれない。
いや、そのわりに、イモラとはあまり反りが合わないみたいだし、パン屋の少年にも塩対応だから、やっぱり私のことを特別慕ってくれているのかな。
へへ、照れちゃう。
とにかくエラは、以前の警戒心の強さが嘘かのように、食事の時も、勉強の時も、買い物の時も、ぴったりと私に付いて回った。
その姿はまるで、刷り込みを受けた雛のようだ。
「姉様。今日のお召し物、こちらはどうですか。念のため五色候補を用意して、すべてを洗濯しておきました」
「う、うん、ありがとう。でも、私のために洗濯物を増やさなくていいのよ? それに、今日はこっちの服を着たい気分っていうか」
「それは少々露出が多いのでだめです」
朝着替えるだけでこんな感じだし。
「姉様。林檎のケーキを焼いてみました。お口に合うとよいのですが」
「ありがとう、すごく美味しそうだわ! ふふ、大きなピースを狙っちゃおうかな」
「え? このホール丸ごと姉様のものですが」
「え? イモラたちのぶんは?」
「え? すみません、今ちょっとよく聞こえませんでした」
食事やお菓子も、やたら私のためだけに作りたがるし。
あれ、ちょっと待って。
エラの好意、重くない?
甲斐甲斐しく、時に魔力まで惜しみなく使って私の世話を焼こうとしてくれるんだけど、なんだか行き過ぎていて、私がこき使っているみたいで申し訳ないというか。
まさかこれが原因で、「義姉にこき使われていた」というシナリオに逆戻り、なんてことはないよね?
でも、それを恐れた私が食事を断ると、エラったらすごく悲しむし、買い物のたびに荷物持ちをさせるのが申し訳ないからと、幼なじみの男の子を代わりに誘って出かけると、すごく怒るし。
結局私は、エラの圧強めな好意に流されるがまま、どんどん彼女に甘えきった生活を送るようになっていた。
だってね、素直に好意を表現してくるエラって、とっても可愛いんだもの。
魔力の開花とともに、すっかり自信を付けたようで、最近の彼女は前髪も横に流して、麗しい顔を露わにしている。
澄み切った瞳で「姉様」と上目遣いに見つめられたら、逆らえる人間なんていなくない?
しかも、料理上手で、笑顔が可愛くて、気が利いて、頭もよくて、運動も得意で、器用で、すごく優しいのよ。
私が男だったらすぐにでも求婚していたわね。
引き換え私ときたら、十七歳の結婚適齢期だというのに、誰からもお声が掛からない。
去年くらいまでは、もう少し男友達との交流もあった気がするのになあ。
お母様も、最初は「私が見合い相手を見つけてあげるわ」と息巻いていたけど、いつの間にか話も流れてしまったようだし。
イモラに仲介を頼んだら、「ご、ごめんなさい、お姉様。私には、無理……」と、真っ青になって震えながら顔を逸らされたっけ。
なによ。
私のことを、とても友人には紹介できないような怪物女だとでも?
「私、そんなに、嫌な女と思われてるのかなあ……」
「なにを言うんですか! 姉様は世界一善良で、愛らしい、素敵な女性です」
落ち込む私を、いつもエラだけが慰めてくれる。
ぽんぽん、と髪を撫でてくる彼女に、そういえばずいぶん背が高くなったなと私はしみじみした。
胸の発育は唯一私が勝っているみたいだけど、それ以外の点で、もはやエラが私に及ばないことなどない。
この世界の主人公である彼女は、シンデレラという役から外れても、きっと輝かしい人生を歩んでいくのだろうな。
――そんな予感が的中したというべきか、ある日、エラのもとに一通の手紙が届いた。
なんと、王家からの招待状である。
「『魔力が発現したというエラ殿を、ぜひ陛下のお目に掛けたく。ついては、半月後に予定されている国王陛下主催の茶会にご招待を』ですって? まあ……!」
立派な封蠟が施されていた手紙を読んで、お母様たちは絶句した。
それはそうだ。
有象無象が集まる舞踏会ではなく小規模の茶会、それも王子主催ではなく国王主催のそれに招かれたとなれば、招待状を受け取った時点で栄達が約束されたも同然。
男性であれば叙爵や役人への登用、女性ならば王族との婚約がなされるものだから。
わっと沸き立つほかの家族をよそに、私はショックで呆然としていた。
嘘でしょう、舞踏会を回避したと思ったのに、結局エラが王妃になってしまうなんて!
それともこれが、この世界の強制力というものなのだろうか。
よくあるよね、頑張ったけどシナリオからは外れませんでした、という展開。
オタクとして理解はしていたけど、いざ自分の身に降りかかると衝撃だ。
まあたしかに、エラは最高の美少女だし、魔力を持つ庶民なんて相当珍しいのだから、見初められても仕方がない。
仕方がないのだけど、でも!
「エ、エラ。今回も、その、欠席なんて……」
「まさか! するはずがありませんよ! ここに家族も同伴できると書いてあります。姉様もぜひ一緒に行きましょう」
一縷の望みを託して聞いてみたけれど、あっさり否定されて撃沈する。
エラはいつになく上機嫌だ。
心の底から登城したがっているのがわかる。
「エラは、もしかして、ずっとお城に行きたかったの……?」
「もちろんです。城に上がれれば、やっと私の夢が叶いますから」
嘘ぉ、あれだけ自立を説いてきたのに、やっぱり玉の輿が夢だったわけ!?
これまで積み重ねてきた努力がすべて無に帰すような心地がして、私は半泣きになった。
何しろこれほど急展開で本来のシナリオに戻ったのだ。
かなり私に懐いてくれたと思っていたけれど、きっとそれも「強制力」のせいでなかったことにされるだろう。
エラは私が同伴すると疑わぬ様子で、しきりとドレスを仕立てるように勧めてきたけれど、私は半月の間それを断り続けた。
そうしてとうとう、茶会当日の朝、身支度を始めなくては間に合わないという段になって、ドレス片手に部屋に押しかけてきたエラに、こう切り出した。
「ごめんね、エラ。私、この家を出て行こうと思うの」
「――……え?」
そのときのエラの顔は、忘れられない。
にこやかだった顔からすっと笑みが抜け落ちて、青い瞳が凍り付いたように見開かれた。
「きっと今日を境に、エラは輝かしい人生を歩むと思うからさ。嫁き遅れの不出来な姉がいたら、足を引っ張っちゃうかもしれないでしょ? だから、少し距離を置こうかなって」
ああ。
数多の悪役令嬢が、隣国に逃亡していた理由がよくわかる。
あれこれ奔走しても、結局シナリオの強制力には逆らえず、物理的にヒロインから距離を置くしかなかったのだ。
「あっ、でも、お祝いの品とかは贈らせてね。私、エラの幸せを祈っているのよ。本当に」
私は単に、靴の持ち主探しに出る王子と接触して足を切り落としたくない、そして、結婚式に参列して鳩に目を抉られたくないだけなのだ。
それらさえ済めば、またこの町に戻ってきても構わない。
本当は、大好きなエラと、ずっと一緒に暮らせたら嬉しかったけど。
でも、私だって生き延びたいし、恋や結婚だってしてみたい。
仕方ないよね。
「そうだ、イモラのことも連れていこうと――」
「――ふぅーん?」
急に、聞いたこともないような低い声が響いた気がして、びっくりする。
え?
今の、男の人みたいな声、どこから?
きょろきょろしていると、エラに両手で頬を包まれ、瞳を覗き込まれた。
「だめですよ」
甘い、甘い声がする。
「ずっと、私と一緒にいてくれるのでしょう。アネッサ?」
青い、青い瞳が私を見ている。
遠くで、鳩の羽ばたきのような音がする。
くらりと世界が回り出し、急に視界が遠ざかって――私は意識を失っていた。
***
「――ええ。彼女が私の心を溶かしてくれました」
ゆるりと目を開けると、なぜだか私は、豪華なシャンデリアが飾られた応接室のような場所にいた。
「庶民上がりで側妃となった母は、いびられて体調を崩し、私の教育どころではなかった。おかげで私も魔力が発現せず、ほかの王子たちにはずいぶんと虐められました。女の恰好をさせられたりね。結果私には、己を誇る心も、他者を想う心も芽生えぬままだったのです」
私はふかふかのソファのようなものに座らされているようだ。
すぐ隣の席から声がする。
伸びやかで透き通るような、若い男性の声。
「魔力がないからと身分を剥奪され、商人に引き渡され……そのことで父上を恨んだこともありました。けれど、今となっては感謝しています。おかげで彼女と出会えたのですから」
あれ?
私、いつの間にかドレスを着ている。
こんな宝石とレースだらけの豪華なドレス、いつ用意したっけ。
「出会った時から、彼女は特別でした。みすぼらしかった私を『灰かぶり』とは呼ばず、未来を強く信じ、高貴さの証明である魔力には見向きもせずに、私の才能を掬い上げては開花させた。優しさと信頼で包み込み、結果的に莫大な魔力まで目覚めさせてしまった」
ゆっくりと意識が覚醒してくる。
この声、いつもより低いけれど、誰かのものによく似ているような。
理知的で、澄んだ声。
そう。
物静かに話す、エラのような――。
「彼女との結婚を承認してくださるなら、私は過去の恨みを水に流し、魔力を王家に捧げましょう」
「はいぃぃぃぃぃ!?」
すっと腕を掬い取られた瞬間、私は跳ね起きた。
いやなに!?
ここどこ!?
そして、愛おしそうに私の腕に触れてくる、この金髪碧眼のどイケメンは誰よ!?
「ああ、目が覚めたのですね、姉様――いいえ、アネッサ。ここは王城の、陛下の私室。茶会まではまだ少しあるので、安心してください。ドレスもよく似合っていますよ」
「えっ、あっ、は……っ、いやちょっ、えっ!?」
姉様。
私のこと、姉様って呼んだ、このイケメン。
まさか、と頭をもたげた閃きを、大慌てで否定する。
いやいや、こんな、白いサーコートがばしっと似合う色男、親戚中見回してもいないって。
短くオールバックにしている金髪を伸ばして前髪を戻し、肩幅の広い服をだぼっとした作業着に替え、狼のように鋭い笑みを控えめな微笑に取り替えたら、ある人物にすごく似ている気がするけど、それはきっと勘違い。
「だって、なんで、エラが、男……っ」
「今日からはもう、エラではないですよ。エラルドと呼んでください」
エラ、改めエラルドが、愛おしそうに私の頬に指を滑らせる。
「王子の身分を取り戻しましたが、敬称もいらない。あなたの前では、ただのエラルドです」
にこ、と穏やかに微笑まれたが、こんな美貌の男に至近距離に迫られて、平静を保てる女は少ないのではないかと思う。
しかも、何もかもが唐突でよくわからない、この状況で。
「魔力を発現させた夜から、ずっとこの日を夢見ていました。アネッサ。望み通り、溺れるような愛情を注ぐことを誓います。ですから――求婚を受け入れてくれますね?」
「すまんなぁ、アネッサ嬢。こやつの魔力、どうやら過去最大レベルの強さでな。嫁一人宛がえば従ってやる、などと言われたら、さすがに条件を呑まずにはいられないのだ。まっ、どうせ外堀は埋められておったようだしの!」
そう言って、わっはっはと笑っているこの方は、もしやこの国の……王的なアレだろうか。
「さあ、この後の茶会で、私たちの婚約を存分に披露しましょう」
「えっ、な、わ……っ」
エラルドがぐいぐいと近付いてくる。
いつもより低い声。
細いけれど大きな手。
なんてこと。
シンデレラが実は追放されていた王子で、国随一の魔力持ちで、しかも義姉を狙っていたなんて。
「これぞハッピーエンドですね、私のアネッサ」
「私の知ってる童話じゃないけどぉーーーー!」
応接室に響き渡った私の叫びは、エラルドの唇によって、すぐに塞がれることになった。
蓋を開けてみれば、シンデレラの義姉である私は、足を切り落とすこともなかったし、目を抉られもしなかった。
けれど――結局のところ、シンデレラからは逃げ出せず、彼以外の相手を見つめることもなかったというその後の展開を、ここに付記しておくわね。
エラの正体、皆さまどのへんでお気付きになりましたでしょうか…!?
ぜひ感想欄などでお聞かせください^^
本作は、ゼロサムさまから刊行されている漫画「悪役令嬢アンソロジー」14巻に収録されている「私の知ってる童話じゃないけど!?」の原作です。
双方向勘違い、おっちょこちょいなヒロイン、意図せず決まってしまう啖呵、ヤンデレ…今回も性癖メガ盛りハッピーセットです!
楽しんでいただけますように。