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第七話:風を超えて、影が追う

 風を切る音が耳に心地よい。

 銀の狼――アルマの背に身を預けながら、シリルは森を駆け抜けていく。

 木々のざわめき。

 地を蹴るたびに広がる緑の香り。

 この景色に、彼は馴染みがある。けれど――


(森の外に出るのは、久しぶりだな)


 アルマたちと出会う前。

 森で暮らすよりも前のことだ。

 幼い頃は、村で静かに暮らしていた。

 だが、ある日突然すべてが壊れた。

 追われ、失い、ただ逃げ続けた日々。

 目指すものも、自由もなかった。

 ただ、生きることだけがすべてだった。

 ――あの頃の自分は、今とは違う。



「アルマ……この先に街があるんだよね」


 《ああ。たしか――クアガット、だったな》


「行ったことあるの?」


 《昔、ボスに連れられてな。少しだけ覚えている》


 シリルは、少し考えてから言った。


「そういえば、アルマの昔の話って、全然聞いてないなぁ」


 《今までは、言葉が通じなかったからな》


「たしかに……。じゃあ、これからいろいろ教えてね」


 《ああ。いつでもな。――さあ、森を抜けるぞ》


 言葉が交わせるようになったのは今朝のこと。

 だがアルマは昔から、よく人の言葉を理解していた。

 それは、長く共にいたシリルが一番よく知っている。


 会話を交わす中にも、風は止むことなく吹き抜けていく。

 やがて木々の密度がまばらになり、風の音が変わる。

 シリルは真っ直ぐな瞳で、前を見据えた。


 ――森を抜ける。

 

 草原だった。

 背後の鬱蒼とした森とは打って変わり、広々とした大地が夕陽に照らされている。

 ゆるやかな起伏の先には、いくつもの山が連なり、静かに辺りを見下ろしていた。

 山々に抱かれるようにして、草原はどこまでも穏やかに広がっている。


 陽は西に傾き始め、二人の影を長く引き伸ばしていた。

 金色に染まりかけた風が、草の波をさらさらと揺らしていく。


 その遥か向こうに、視力の良いシリルの目に、ぽつりと緑が濃く茂る林が映る。

 この森に比べれば、林はずっと浅くて穏やかそうだった。

 その手前には、草をなぎ払うように一筋の道が続いていた。

 街道だ。

 人の往来が刻んだその痕跡は、林の方角へと伸びている。

 まだ街そのものは見えないが、確かにこの先にある――そんな確信があった。

 あの先に、クアガットがあるのだろう。

 

 ――風が頬を撫でる。


 シリルはゆっくりと深呼吸をした。


「……行こうか」


 《ああ》




 ――街から外れた林の中。


 鳥のさえずりも聞こえず、どこか張り詰めた空気が漂っていた。

 若い男女、五人の冒険者たちが木々の間を慎重に進んでいく。

 いずれも身なりはしっかりとしており、剣や弓、杖を携えたその姿は、ただの駆け出しではないことを物語っていた。


 先頭を歩く大柄な男が、手斧を肩に担ぎながらぼそりと漏らす。


「……静かだな。この林に本当に魔獣が出たのか? 肩透かしかもしれんぞ」


 気楽にも聞こえる声に、後ろを歩く少年のような面差しの青年が眉をひそめた。


「静かすぎるんだよ……。このあたり、山菜取りのおばちゃんたちがよく入ってたんだ。なのに、数日前から戻ってないって話だろ」


「それに、調査に来たっていう冒険者も何人か、消息を絶ってる」


 三人目が重くつぶやくと、一瞬、沈黙が落ちる。

 誰もが足元の枝を避けながら、慎重に歩を進めた。


「街道からは外れてるけど、こんな場所にまで魔獣が来るなんて、普通じゃないよね」


 小柄な少女が口を開く。

 透けるような蒼い髪と、森を思わせる緑の瞳が印象的だった。

 年のわりに静かな気配をまとい、少女は腰の剣にそっと手を添えていた。

 まだ十六歳。

 だが彼女はすでにEランクの冒険者として、街でも一定の名を知られていた。

 この街では珍しい若き実力者――とはいえ、経験が浅いのも事実。

 目は真剣だが、その肩にはかすかな緊張も滲んでいた。


「元はといえば簡単な調査だったんだ。林に棲みついた小型魔獣でも追い払えば終わると、誰もが思ってた」


 仲間の一人が吐き捨てるように言った。


「なのに調査に行った連中が戻らない。ギルドもさすがにまずいと思ったんだろう。だから俺たちに声がかかった。……まったく、損な役回りだぜ」


 誰も返さなかった。

 張り詰めた空気の中、彼らは足を止めず、沈黙のまま林の奥へと歩を進めていく。


 日は傾き、林の中にも濃い影が落ちていた。

 茂みが黒く沈み、枝の間から漏れる光も、さっきより弱々しく感じられる。


 「……そろそろ、戻らないか?」


 先頭を歩いていた男が足を止め、振り返る。

 誰もが同じことを考えていた。

 これ以上、日が落ちれば視界が効かなくなる。

 普段なら問題のない林でも、今は違う。

 静かすぎるこの空間が、まるで罠のように感じられる。


 「賛成。何も見つからなかったけど、日を改めた方がいいよ」


 少女が言うと、みな小さくうなずいた。


 そのときだった。

 カサ、と――風とは違う、枝を踏みしめるような微かな音がした。


 「……っ、誰かに……見られてる……?」


 後ろを歩いていた青年が、鋭い目をして振り返る。

 目を細め、暗がりをにらみつけた。


 「……やばい。いる……! 構えろ!!」


 言葉が終わるより早く、林の影が――動いた。


 暗闇から、何かが飛び出す。

 大きな咆哮もなく、音もなく。

 だが、圧倒的な“気配”だけが、辺りを支配した。


 それは四足の獣だった。

 しなやかな肢体に、禍々しい瘴気のようなものをまとい、片方の前脚は深く裂けていた。

 だが、血は流れていない。

 不自然なまでに乾ききったその傷口は、かえって異様さを際立たせていた。

 ただ、傷など意に介さぬように、黒く濁った目がまっすぐこちらを見据えていた。


 「なんだ……あれ……!?」


 誰かが叫ぶ暇もなく、鋭い爪が一人を切り裂く。

 背中から血が噴き、男が地面に倒れる。


 「逃げろ、シエルッ!!」


 青年が叫び、少女――シエルの肩を強く突き飛ばした。


 「でも、皆が――!」


 「いいから! 走れ、行けっ……!」


 血の気が引いた顔で、それでも彼は剣を構えた。

 刹那、視線がシエルに向けられる。


 ――おまえだけは、生きて。


 口に出すことはできなかったが、その願いが確かに込められていた。


 獣が唸るように咆え、また一人を地に伏せさせる。

 そして――青年が吼えた。


 「こっちだッ! 来いよ……ッ!」


 最後まで、目を逸らさず。

 彼の剣が、獣の喉元をかすめる――



 その隙に、シエルは、走った。

 何も言えないまま。

 何も、できないまま。


 ただ、林を抜けて、街へ――生き延びるために。


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