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第六話:旅立ちの日

 旅立ちの朝は、しんと静まり返っていた。

 夜の余韻がまだ残る深淵の森の中。

 木漏れ日が差し込む場所に、シリルとアルマ、それにボスの三つの影があった。

 今日は、シリルがこの森を出る日。

 そして、これは――ボスが二人にしてやれる、最後の贈り物だった。


「これを渡しておく」


 ボスが差し出したのは、美しい白い仮面だった。

 表面には淡く金色と青白い装飾が絡み合い、仄かな光を帯びながら、心音のように微かに脈動している。

 裏側には、魔方陣を思わせる複雑な紋様が彫り込まれており、肌に触れるたびに微かな温もりを帯びた。

 ただの装飾品ではない――そう感じさせる、生き物のような気配が静かに漂っていた。


「……これは?」


「変化の魔術がかけてある。白髪も目の色も、外見ごと人間に近づけられる」


 手に取った瞬間、シリルの指先に仮面がぴたりと馴染んだ。

 内側から、ふわりと温かい気配が伝わってくる。


「ボス、こんなもの、どこで……?」


 少し戸惑いを見せたシリルに、

 ボスは少しだけ目を細めた。


「昔、旅をしていた仲間が使っていたものだ。」


「……旅? ボスが?」


 驚きを隠せないシリルに、

 ボスはふっと小さく笑った。


「ああ。まあ、昔のことだ。今は気にするな。」


「ええ!? 気になるんだけど……」


 シリルがそう言うと、ボスはゆっくりと目を閉じた。


「いつか――旅から帰ってきたら、そのときにな」


 その言葉に、シリルは小さく笑った。


「じゃあ、必ず帰ってくるよ。強くなって」


「当然だ」


 二人の間に交わされた約束は、静かに、

 ――しかし確かにこの場に刻まれた。


 そしてもう一つ――。


「これが俺にできる、二人への最後の餞別。魔術による契約だ」


 ボスの言葉に、シリルは不思議そうな顔をする。

 アルマは静かに、横に立っている。


「魔術による契約……?」


「そうだ。アルマと契約を結ぶことにより、魔力や意思の共有が可能になる。これは俺が昔覚えた契約の術式だ。地面に描くぞ。見ておけ」


 そう言うとボスは、そばにある木から枝を手折り、口に咥える。

 そして、咥えた枝で器用に地面に模様を描いていく。

 その模様は、魔法を発動するときに出現する魔方陣と似ているが、それと比べるととても複雑だった。

 しばらくするとボスは、枝を放り投げ、二人の方に向き直る。


 それは完成を意味する。

 とても複雑で、大きな魔方陣が二人の前に描かれた。


「二人とも、この中に向かい合って立て。」


 ボスの指示に従い、二人が立ち位置につく。

 風が止み、空気が重くなる。


「これで二人が魔方陣に魔力を流せば、契約が可能になる。」


 シリルは小さく頷き、右手を魔方陣の中心に翳した。

 アルマも、それに呼応するように前脚を中心へと置く。


「……」


 言葉はなかった。

 ただ、シリルとアルマから湧き出る魔力が、ゆっくりと魔方陣へと染み込んでいく。

 すると魔方陣全体が輝きだし、温かな光が二人を包み込む。


 ――ず、と心が揺れた。


 《……シリル》


 それは言葉ではなかった。

 けれど、確かに「声」が心に届いた。

 温かく、柔らかく、そして確固たる意志をもった存在が、自分の中にすっと入り込んできた。


 《これが……契約……》


 二人を包み込んでいた光が、淡く揺らめきながら、やがて静かに朝靄の中へと溶けていった。

 シリルの目が見開かれる。

 アルマは微かに尾を揺らし、彼のそばに寄り添う。

 二人の間に、言葉のいらない絆が結ばれた瞬間だった。


「……成功だな。」


 ボスは、どこか懐かしむように目を細めた。


「この契約……ボスも、さっき言っていた旅の仲間としていたの?」


「ああ。……大切な相棒だった。」


 それ以上は語らなかった。

 けれど、シリルはその背中から、確かな重みと誇りを感じ取った。

 アルマは一度、シリルの顔を見上げると、

 そっと瞳を細めた。

 ボスはそんなアルマに静かに歩み寄り、ゆっくりと姿勢を低くする。


「アルマ。……契約は済んだ。これからはお前にも、果たすべき役目がある」


 言葉を選ぶように間を置いてから、ボスは改めてアルマに向き直り、静かに語りかけた。


「いいか、シリルの影に意識を溶かすように力を流せ。身体を委ねるんだ」


 ボスの声は穏やかだった。

 厳しさよりも、懐かしさの滲む声。

 アルマはその言葉に素直に頷き、

 静かに一歩、シリルの傍へ近づく。


 そして──


 銀色の体がふっと揺らぎ、まるで霞のように形をほどいていく。

 輪郭が曖昧になり、毛並みも、息遣いも、気配までもが薄れてゆく。

 シリルの足元へ、柔らかい影が吸い込まれるように伸びた。

 気づけばそこには、アルマの姿はなかった。


「……え?」


 少年は思わず辺りを見渡すが、どこにもその気配はない。

 けれど──彼の心の奥で、確かに感じた。


 “いる”。


 それが契約により可能となった、特別な術――名もなき共鳴の証。

 気配を消し、影に溶け、意思を繋ぐ。

 言葉を超えて。


 それは、かつてボスも体験した、特別な“共”の在り方だった。


「……すごい。こんなことまで、できるんだ……!」


 呆然と呟くシリルに、影の中からふっと風のような気配が返る。

 次いで、かすかに、アルマの声が彼の内に響いた。


 《……できた……のか、俺にも……》


 その声は、驚きと戸惑いを含みながらも、どこか嬉しげだった。

 少年は自然と笑みをこぼす。


「うん。ちゃんと、いる。……ありがとう、アルマ」


 微かな尻尾の揺れのような感触が、心に触れた気がした。

 ボスはその様子を見て、満足げに息を吐く。


「……これが、二人のかたちだ。互いを信じ、支え合え。その絆がある限り――お前たちは、どんな絶望にも呑まれはしない」


 そう言って、ボスは静かに空を仰いだ。

 木々の隙間から朝の光が差し込み、揺れる梢の向こう、澄んだ青空が広がっていた。

 その目に映るのは、過ぎ去った日々か、それともこれからを託す未来か。


 ――朝靄に包まれた森の中、風が静かに木々の葉を揺らしていた。


 森の南側、外界へと続く細いけもの道。

 かつてシリルが連れてこられた北側の道とは、森を挟んでちょうど反対に位置していた。

 今、その入口に、狼たちと少年の影が静かに集まっている。


 それは、旅立ちの刻を見送るための、小さな儀式のようでもあった。


 兄弟たちが見守る中、アルマは一頭ずつに静かに歩み寄っていく。

 その足取りは迷いなく、それでいて、どこか名残惜しげだった。


 ライナに、エルミナに、ノクスに、マウルに、セナに──そしてアニマへ。


 ライナはアルマに応えるように、アルマのおでこに鼻先をそっと押し当てる。

 そんな短い仕草に、彼女なりの精一杯の想いが込められていた。

 その姿を見たシリルは、思わず駆け寄った。

 ライナの柔らかい毛並みに、小さな体をぎゅっと押し当てる。


「ありがと……元気でね、ライナ」


 涙はこぼれなかったが、目元はじんわりと濡れていた。

 それでもシリルは、笑って見せた。


 エルミナがそれに続き、名残惜しげに顔を背けながらも、

 小さく尻尾を振ってシリルの手をそっと舐めた。


「えへへ……ばいばい、エルミナ」


 四男のノクスは前足で地面をかき、照れくさそうに視線を逸らす。

 けれど、シリルが抱きつくと驚いたように身をすくめ──それでも逃げなかった。


「ノクスも、元気でね。今度また遊ぼう」


 三男のマウルはやや乱暴に肩をぶつけ、喉を鳴らす。

 シリルが軽く倒れかけて、笑いながら拳でマウルの胸をぽすっと叩く。


「いてっ……もう、強いんだから。じゃあな、マウル」


 そして、誇り高い長女セナが一歩前に出る。

 彼女はまっすぐに二人を見つめ──ふいに、柔らかく微笑んだ。


『……行ってらっしゃい。胸を張って、あなたたちらしく』


 言葉は発していないが、二人には確かに伝わっていた。

 静かな誇りと願いが宿っていること。

 シリルとアルマは、自然と背筋を正す。

 

 最後に、アニマが静かに歩み寄る。

 彼とアルマは、何も言葉を交わさず、ただ向かい合った。

 しばしの沈黙ののち──互いに、ごくわずかに頷く。

 それだけだった。

 けれど、その仕草に込められた想いは、誰よりも深く、重かった。


 後ろで見ていたシリルが、アニマの元へと駆け寄る。

 そして、勢いよく抱きついた。


「……ごめんね。ありがとう」


 それだけを小さく告げると、すぐに離れ、はにかむように笑った。

 アニマは何も言わず、ただその頭を一度だけ、そっと鼻先で押し返した。


 少し離れ所、木の根元にはボスがいた。

 何も言わず、ただ静かに、それを見守っていた。

 すべての別れを終えたシリルとアルマは、名残惜しげに兄弟たちをもう一度見渡したあと、ゆっくりとボスの方へと向き直った。


「……行ってくるよ」


 シリルの言葉に、ボスは静かに頷く。


「ああ……」


 そう短く返事をすると、彼は穏やかに微笑んだ。


 それぞれの想いを託された別れの挨拶を胸に、アルマは一歩、群れから踏み出す。

 その横を、シリルが並んで歩く。

 今までの簡素な腰巻ではなく、闇蜘蛛(テラノクティス)の糸で仕立てられた黒衣を纏い。

 少年の足取りは軽く、迷いはなかった。


 群れの銀色の影達は、誰一頭として声を上げず、ただじっと彼らを見つめている。

 朝霧のかかる森の中──

 仮面を顔へと近づけると、シリルの内に潜む魔力がそっと反応し、仮面の紋がほのかに輝いた。

 次の瞬間、仮面は空気を震わせながらぴたりと肌へと吸いつき、まるで元からそこにあったかのように馴染んでいく。

 淡い光が彼の髪を包み、白銀はやがて柔らかな金色へと染まり、両の瞳も琥珀の輝きを宿していた。

 シリルは、アルマの背にひょいと乗る。

 そして甘えるように、アルマの頭に顔をうずめる。


(……行こう、アルマ)


 影から返ってきたのは、言葉ではない。

 それでも、確かに伝わってきた。


 ――ああ。共に。


 二人は同時に振り返ると、シリルが明るい声で叫んだ。


「いってきまーす!!」


 それは、まるでいつもの狩りに出かけるような軽やかさ。

 でも、それこそが彼ららしさだった。

 ボスは、その後ろ姿をじっと見つめながら、ぽつりと呟くように言った。


「いってこい。息子達よ……」


 きっと二人には、届いていない。

 それでも構わなかった。

 ボスの顔には静かな微笑みが浮かび、その瞳には光るものが宿っていた。


 こうして、二人は深淵の森に別れを告げ、広く果てしない世界へと歩み出す。


 ――彼らの旅が、今、始まった。


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