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第五話:蜘蛛の巣の奥にて

 洞窟の奥へ進むにつれて、空気がじわじわと重くなるのを、シリルは肌で感じ取っていた。

 冷たく湿った空気が、身体の芯まで染み込むようにまとわりついてくる。

 目を凝らすと、薄闇の中にわずかに揺らめく紫がかった瘴気のようなものが漂っていた。


 魔素だ。しかも、相当濃い。


「……この洞窟、相変わらず魔素が濃いな。空気がぬめってるみたいだ」


闇蜘蛛(テラノクティス)の巣だ。この洞窟自体魔素が発生しやすい場所だが、長年あいつが暮らしているんだ。あいつの体から滲み出る魔素が積もり積もっている」


 ボスが周囲を警戒しながら進む。

 シリルは眉をひそめた。

 足元には古びた繭、天井には乾いた死骸。

 無数の白糸が何重にも交差し、まるでこの空間自体が巨大な罠のようだった。

 アルマも緊張した様子で、後ろから付いてくる。


 ──二年前、この場所には一度、来たことがある。

 まだ自分にどれほどの力があるかを試していた頃。

 偶然――狩りの合間にこの洞窟を見つけ、興味本位で足を踏み入れた。

 その時に出会った、巨大な蜘蛛。

 子蜘蛛を返り討ちにしたせいで、命をかけた追いかけっこに発展し──

 結局、心配して追ってきたボスに助けられた。


 不意に、先の闇が蠢いた。

 太く黒い脚が音もなく這い出てくる。

 白い毛が絡みついた足が岩肌をなぞるたび、岩の破片がぱらぱらと崩れ落ちた。


「……ほう。銀狼(シルバーウルフ)の“長”が、ずいぶん久しぶりに顔を見せたじゃないか」


 皮肉をたっぷりと滲ませた声が、洞窟の奥から響く。

 洞窟の奥から響く声は、枯れ木を裂いたような、湿った重みのある音だった。

 人語を操る――それは、高位魔獣の証とも言える。

 ましてこの声には、ただの知性ではない、悠久の時間を背負った威圧があった。


 闇の中から現れたのは、巨大な蜘蛛だった。

 体長十メートルを超える異形。

 甲殻は煤けた灰色で、背には白い小蜘蛛たちが幾重にも群れていた。

 どこからが脚で、どこまでが胴体か、見分けがつかない。


闇蜘蛛(テラノクティス)……」


 ボスがその名を口にすると、蜘蛛はくくく、と喉の奥で笑った。


「その名を覚えていたとはね。てっきり、遠い昔に忘れ去られたかと思っていたよ。……まったく、気まぐれな犬っころだ」


「今日はそう吠えにきたんじゃない。頼みがあって来た」


「頼み、だと?」

 闇蜘蛛の目が細くなる。

 洞窟全体が揺れるほどの吐息を、深く、低く吐いた。


「ふん……そういえば、そっちのガキとは二年前に一度会っているな」


 彼女の目が、隣に立つ少年へと移った。


「おおかた、そいつの服を作ってやれって話か? なるほど、ついに人里に放り出す気になったと見える」


「そうだ。お前の糸が必要だ。……頼めるのはお前しかいない」


「ふん……」


 蜘蛛はその巨体をゆっくりと低くし、わざとらしくシリルの方へ目を凝らす。


「……しかし、まさかまた会うとはね。前に来た時は──確か、私の子らを“返り討ち”にしてくれたよな?」


 シリルは物怖じせず、あっけらかんと答えた。


「うん。あのときは悪かったと思ってる。勝手に入り込んじゃったし」


「よく言う。勝手に巣に入り込んで、子を傷つけて、よくもまあ素知らぬ顔で──」


 その口調に怒気が滲む。

 闇蜘蛛がぴたりと動きを止めた。

 少年の態度は変わらない。

 無礼ではないが、媚びもない。

 謝罪はあるが、怯えも緊張もまるでない。

 ただ、洞窟のじめっとした空気を嫌そうに肩をすくめ、鼻をつまみたげにしている。


「……ふざけたガキだ」


 闇蜘蛛の八本の脚がぴしり、と張った。

 洞窟の天井と壁に、白銀の糸が音もなく展開されていく。


「……あの時、我が子らにしたこと……口先ひとつで済ませるつもりかい?」


 微かな音とともに、洞窟全体の糸がきしんだ。空気がわずかに震える。


「“頼み”などと、ずいぶん気軽な言葉だ。……この“糸”は、私の矜持だ。何も払わずに欲しがるとは、なめられたものだね!」


 空気がぴんと張り詰める。

 闇蜘蛛の巨体が低くうなり、洞窟全体の空気が粘つくように濁る。

 無数の白い糸が天井から降り、地を這い、音もなく配置される。

 まさに巨大な蜘蛛の“領域”。


 対するシリルは、一歩、前へ。

 その背で、アルマが低く唸り、毛を逆立てる。

 だが、その肩に、白く大きな前足が静かに置かれた。

 アルマがちらりと振り返る。

 ボスが無言で首を横に振る。

 これは――二人の問題だ。


「なんだ、そういうことか。わかりやすくて助かるよ。──こっちも試してみたかったんだ。今の俺の力をさ」


 闇蜘蛛の全身から濃密な魔素が滲み出る。

 紫の瘴気が視界を曇らせ、洞窟全体が脈打つように揺れた。

 だが、シリルはその圧に目を細めるだけだった。

 怯えも、驚きもない。

 ただ、肌を撫でる湿った気配にわずかに顔をしかめる。


 少年の足元に、濃紫の霧がわずかに揺れる。

 空気中の魔素が反応していた。

 魔力が膨れ上がり、瞬時に全身を巡った。


 次の瞬間、シリルの姿が掻き消える。


 蜘蛛の複眼がかすかに揺れる。気配を追って一歩、後退──遅い。

 瞬間、放たれた拳が、闇蜘蛛の脚の付け根に叩き込まれた。

 甲殻が軋み、鈍い衝撃が洞窟に響く。

 巨大な足がぐらつき、重心がわずかに崩れる。


 続けて──


 天井近くに跳躍したシリルが、足先に魔力をこめて蹴りを落とす。

 蜘蛛の背にぶら下がる子蜘蛛たちが警戒音をあげ、糸を吐いて応戦。

 しかし、シリルの動きは一切止まらない。

 飛来する糸を腕で弾き、回転しながらそのまま横薙ぎに拳を叩き込む。

 軽やかで無駄のない動き。それでいて力強く、重い。

 蜘蛛の巨体が、その体格に見合わぬ速度で蠢き、シリルを弾き飛ばそうとするが──届かない。


 (速い……? いや、違う)


 闇蜘蛛の思考が、僅かに揺れた。


 (こやつ、動きに“迷い”がない)


 少年の中には、恐れもためらいも存在しなかった。

 ただ、敵の動きを読み、的確に反応する。

 無駄がない。だが、冷たくもない。


 楽しんでいる。


 「なるほど、これが──あの犬っころが手ずから鍛え上げた人間か!」


 怒鳴るように吠え、闇蜘蛛が大きく跳ねた。

 天井を蹴り、一気に空中から覆いかぶさるように迫る。


 「潰してやる!」


 白い糸が放射状に吐き出され、洞窟の空間が一瞬で閉ざされた。

 網のような糸の檻。

 その中心に、全身を毛で覆われた黒い巨体が降りかかる。


 だが。


 「……残念、間に合ったよ」


 中央にいたシリルの掌が、紫の閃光を灯した。


 爆音。


 魔力の衝撃波が放たれ、糸を内側から切り裂く。

 闇蜘蛛の脚に衝撃が走り、その重みが崩れる。


 直後、シリルは反動を殺して地を蹴り、距離を取った。


「……ハァ、ハァ。うん、やっぱすごいな。そりゃ怖がられるわけだ」


 笑っている。

 この状況で、少年は涼しい顔で肩を回している。

 闇蜘蛛は、ただの蜘蛛のように沈黙した。

 やがて──


「クク……クハ、クハハハハハ!」


 岩が震えるような笑い声。

 洞窟の奥深くまで響く、不気味で、しかしどこか乾いた、笑い。


「まったく、口先だけの謝罪で“頼み”をしに来るとは、どれだけ舐められたものかと思ったが……!」


 闇蜘蛛はそのまま背を伸ばし、やがて静かに落ち着いた声で言った。


「……認めよう。お前は“飼われている”だけの人間ではない。今や、自ら狩る者だ。あの老狼が、なぜ人の子などに肩入れするのか──少しは理解できた気がする」


 シリルは小さく笑って、ポンと自分の胸を叩いた。


「でしょ? でもさ、洞窟じめじめしてるし、空気もぬめぬめしてるし、正直、長居はしたくないんだけど……服、作ってくれる?」


「ふん……仕方のない子だね。こっちの手間も考えな……いや、よそう。構わない。私の糸で縫ってやろう。好みは?」


 シリルは少し間を置いてから答えた。


「……動きやすくて、涼しいのがいい。あとは……」


「臭くなければ?」


「うん、それ」


 闇蜘蛛はくく、と喉の奥で笑った。


 子蜘蛛たちが糸を紡ぎ始める。

 柔らかく、張りのある糸。

 闇蜘蛛が、自ら手をかけるようにその上に糸を重ねていく。


 その様子を、アルマは少し離れた場所から静かに見守っていた。

 戦いの間ずっと緊張で逆立てていた毛並みが、ようやく落ち着きはじめている。

 シリルが無事に戦いを終えたこと、心の底から安堵したように、小さく息を吐いた。

 しかし、足元にはまだ僅かな警戒心が残っており、その眼差しは油断なく洞窟の主を捉えたままだった。


「時間はかからん。すぐに終わらせる。こんな陰気な場所、長居したくもなかろう」


「よくわかってる」


「まったく、どいつもこいつも……この“巣”の良さがわからんとは」


 最後のぼやきには、どこか寂しげな色が混じっていた。

 だが、巣の奥からは、淡く編まれていく布の音だけが、静かに響いていた。


 シリルはふぅっと息を吐いた。


「──ねえ、ボス。やっぱ、あの蜘蛛……根は悪くないよね?」


 その言葉に、アルマがちらりとシリルを見やる。

 言葉には出さずとも、同意するようにしっぽを小さく揺らした。

 ボスは苦笑したように、鼻を鳴らす。


「ああ。……ただし、癖がある。覚えておけ、シリル」


「うん、忘れないよ」


 少年は軽く頷き、湿った洞窟の空気の中、ふと明るい笑みを浮かべた。

 その隣には、ようやく緊張を解いた白い狼が、静かに寄り添っていた。


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