第四話:旅の装い
翌朝──。
森の空気は澄んでいた。
湿った土の香りに、かすかに朝露の匂いが混じる。
木々の間を通り抜ける風が葉を鳴らし、小鳥のさえずりが遠くで響いていた。
「ふっふん、今日は角兎獣か? いや、棘栗鼠でもいいな。昨日の滑腹獣は、脂っこすぎたし」
シリルは軽やかな足取りで、前を行くボスの背中を追いながら口を動かす。
その傍らを、銀の毛並みを朝日に煌めかせる狼──アルマが静かに並走していた。
旅立ちの話もあったが、何となく今朝はまた狩りかと思いついてきた。
だが、どうにも様子がおかしい。
「……って、あれ? こっちの方って、いつもと違くない?」
シリルは眉をひそめ、周囲を見回した。
この辺りは、狩りに出るときでも滅多に足を踏み入れない方向だった。
「ねぇボス、どこ行くの?」
前を歩くボスが、ふと振り返る。
彼の表情は、いつもよりいくらか真剣で──シリルの問いに、短く答えた。
「……服を作りに行く」
「は?」
間の抜けた声を上げたシリルが、自分の腰を見下ろす。
簡素な腰巻き一枚の軽装。
動きやすさだけを考えた、野生児のような恰好だ。
「いや、別に困ってないけど?」
「その格好のまま街に入るつもりか?」
ボスの静かな一言に、シリルが口を噤む。
森ではこれが普通だった。
衣服など必要とされない、自由な世界。
だが、外には“常識”という壁があるらしい。
「でも、どうやって服を用意するの? 狼たちに、針仕事できる子なんていないし……」
シリルが首をひねると、ボスはちらりと後ろを振り返りながら、わずかに口元を緩めた。
「……最初から決めていた。あいつに頼む」
ボスが静かにそう言った瞬間、シリルの顔がピクリと引きつった。
「……まさか、あの蜘蛛?」
「闇蜘蛛。あれほど長く生きて、糸を操れる魔獣は他にいない。頼めるとすれば、あいつしかいないだろう」
「うわ……やっぱり、あいつのところか……」
シリルは思わずため息をついた。
アルマが不思議そうに首をかしげると、シリルは肩をすくめながらぼやいた。
「じめじめして、臭くて、糸がベタベタで……陰気で嫌なんだよなぁ」
嫌そうに顔をしかめるシリル。
その視線の先、森の奥深くには、濃い瘴気すら感じさせるような洞窟が口を開けていた。
ふとその時、何かを思いついたようにシリルが顔を上げた。
「……服が必要なら、人間から奪えばよくない? ほら、俺が通ってきた森のすぐの道とかで」
アルマの足がわずかに止まり、銀の瞳が横目に少年をとらえた。
その瞳に宿るのは、驚きではなく、どこか翳りを帯びた静かな憂い。
だがシリル自身は、まるで他愛もない話でもしているかのように、気にする素振りすら見せなかった。
かつて奴隷として運ばれてきたという過去を、まるで草の根でも摘むかのように軽く口にする。
──その時、ボスもまた足を止め、ちらりと少年を見やった。
その言葉に、軽い衝撃を受けたかのように目を細める。
(……あの年で、あの考えか。いや、年のせいではないな)
ボスの中に、にわかに不安がよぎる。
過去を忘れたわけでも、無かったことにしたいわけでもない。
ただ、重みを感じていないのだ。この少年は。
無邪気であるがゆえに、人を襲うという発想に至ること──
それこそが危うい。
彼の中の「普通」は、人ではなく、狼たちと暮らしてきた日々にある。
だからこそ──
「“この辺”を通る人間は、もともとほとんどいない。森の北には大通りがある。普通はそっちを使う。こっちは……わざわざ人目を避けたい連中の抜け道だ」
シリルは「そっか……」と残念そうに呟き、森の奥を目指し、先に足を進めた。
その背を見ながら、ボスは、ふいにアルマへと視線を送った。
「おまえが、ちゃんと見ていてやれ。群れの“兄”としてな」
アルマは小さく鼻を鳴らしただけだったが、それは無言の了解でもあった。
しばらく獣道を進むうち、森の様相が変わっていった。
木々の葉は厚く茂り、日差しは途絶え、地面には薄暗い影が広がる。
空気もひんやりと湿り気を帯び、まるで森が何かを拒んでいるようだった。
そしてその先──
苔に覆われた巨岩の裂け目のような場所に、ぽっかりと口を開けた巨大な洞窟が姿を現す。
洞窟の入口はまるで、森そのものが育てた巨大な魔物の口のようだった。
黒く、深く、沈黙のまま、来訪者をじっと待っている。
その入り口の周囲には太く絡みついた糸が不規則に張り巡らされていた。
木々にも、岩にも、それらはねっとりと絡みつき、かすかな振動で軋むように震えている。
シリルは立ち止まり、顔をしかめて鼻をつまんだ。
「……うわ。やっぱ来たくなかったな、ここ。じめじめしてるし、くさいし、雰囲気最悪だし」
アルマもそこで一度足を止め、じっと洞窟の中を見つめる。
その銀の瞳がわずかに細まり、微かに警戒を含んだ呼気を漏らした。
ボスはというと、慣れた足取りで糸を避けながら、洞窟の口へと向かっていく。
そして、入口の前でふと立ち止まり、かすかに口の端を持ち上げた。
森の気配とは異なる、じっと背中をなぞるような視線を、ボスは肌で感じていた。
こちらの出方を見定めている──そんな冷ややかで執念深い視線。
「行くぞ。無駄に待たせると、また皮肉の一つも吐かれるからな」
「……そういうとこ、ほんとに嫌いなんだけど」
シリルはぼやきながらも、アルマの背を頼るようにして洞窟へと足を踏み入れていった。