第五十四話:赤黒き魔石の森
森の奥へと進むにつれて、雪はさらに深くなり、木々の影が濃く沈んでいった。
シリルは、ふと立ち止まった。
「……四枝鹿、……か?」
彼の視線の先――そこにいたのは、かつて森でよく見かけた草食の魔獣、《四枝鹿――クワトリナ》に似ていた。
だが、その姿は記憶の中のものより遥かに大きく、異様だった。
四枝鹿は本来、穏やかな性格で、群れで草を食む平和な魔獣だ。
大きな体に、枝分かれした四本の角を誇りとしている。
しかし今、目の前にいるその個体は――
雪の上に倒れた何かの獣を、血に濡れた口で食いちぎっていた。
角は以前よりさらに禍々しく、黒ずんだ色を帯び、ねじれて天に伸びている。
体も一回り、いや二回りは大きい。
毛並みも荒れ、何よりその目には、獣の理性を感じさせない赤い光が灯っていた。
シエルが小さく息を呑む。
「……あれが、さっきの足跡の主……?」
アルマが、じっと四枝鹿を見つめる。
その目にも、警戒と戸惑いが浮かんでいた。
「俺も、あんなのは見たことがない。四枝鹿が肉食になるなんて……暴走してるな、あれは」
四枝鹿は獲物の肉を引きちぎり、雪の上に血を滴らせていた。
シリルたちは木々の陰に身を潜め、距離を取ったまま、じっと様子をうかがっていた。
――にもかかわらず。
四枝鹿の動きが、ふいに止まった。
荒い呼吸が白く立ち上り、その禍々しい角がわずかに揺れる。
「……気づかれた?」
シエルが息を詰めるより早く、四枝鹿の赤い目がこちらを真っ直ぐに射抜いた。
獣の本能というより、何か異様な魔素に突き動かされるかのように、四枝鹿は地を蹴る。
「来る!」
四枝鹿は雪を切り裂く勢いでまっすぐ突進してくる。
その巨体と禍々しい角が、森の木立さえも薙ぎ倒し、地響きを伴って迫った。
「シエル、避けて!」
シリルの声が凍った空気を裂く。
シエルは咄嗟に身を翻し、四枝鹿の突進をかわしつつ、剣を抜いて間合いを取る。
アルマも素早く反対側へ回り込んだ。
四枝鹿は止まらない。
シリルを目がけて角を振り下ろす。
その瞬間、シリルは一歩も引かず、素手で巨大な角をがっしりと受け止めた。
「アルマ!」
シリルの声よりも早く、アルマはすでに雪を蹴って四枝鹿へ飛びかかっていた。
鋭い爪が首元を狙うが、分厚い魔力の膜に阻まれ、わずかに毛皮を裂く程度しか傷つかない。
「ぐっ! 硬い!」
その瞬間、四枝鹿の角の根元に、不気味な魔力が渦巻き、周囲の空間が歪む。
角に魔力を集中させている証だ。
それを見たシエルが叫ぶ。
「シリル! 危ない!」
だが、シリルは角を掴んだまま、ぐっと腰を落とし、全身の力を爆発させる。
四枝鹿の巨体ごと地面から浮かせ、背中をそらせるようにして、重心を崩す。
そしてそのまま――
シリルは角を支点に、四枝鹿の身体を宙に持ち上げ、巨大な体を自分の背中越しに投げ飛ばした。
四枝鹿の体が雪を巻き上げて激しく沈み込み、角に集まっていた魔力が一瞬四散する。
しかし、すぐさま体勢を立て直し、禍々しい魔力が再び角に渦を巻き、空間が不穏に歪みはじめる。
だが、次の瞬間。
シリルはいつの間にか腰の新しい刀を抜き、音もなく跳躍すると、雪煙の中、四枝鹿の頭上に降り立った。
迷いなく刀を振り下ろし――
四枝鹿の脳天へと、鋭くその刃を突き立てた。
刀が脳天を貫いたまま、四枝鹿は雪の上で大きく痙攣し、やがて動かなくなった。
シリルは刀を引き抜き、しげしげと刃先を見つめる。
「やっぱりこの刀、凄い……! 魔力を込めただけで、アルマが傷つけられなかった魔力壁をぶち抜いたよ!」
アルマは悔しそうに鼻を鳴らし、「ふん」とそっぽを向く。
だが、と小さく呟いた。
「四枝鹿ごとき、本来なら簡単に頭を落とせるはずなのにな……」
シエルが、不安げに足元の雪を踏みしめる。
「やっぱり、人工魔石の影響かな……」
その言葉を聞くや否や、シリルは無造作に刀を持ち替え、四枝鹿の胸元――心臓のあたりに刃を突き立てる。
そのままぐっとえぐるように刃を差し入れると、粘ついた血とともに、禍々しい赤黒い色の魔素が渦を巻く魔石が姿を現した。
今までの調査でも、暴走した魔獣から、魔素が溢れ出る魔石が見つかったことはあった。
だが、これほどはっきりと魔素の異常が魔石に現れているのを目の当たりにするのは、三人とも初めてだった。
シリルは魔石を持ち上げ、まじまじと見つめる。
「……これは凄いね。今までの魔石とは、明らかに違う……」
禍々しい赤黒い光が、血と混じり合い、不穏な輝きを放っていた。
アルマが、低く唸るように言う。
「ここまで禍々しい魔石は、俺も見たことがない……。これはもう、魔獣の魔石じゃないな」
「……一度、持ち帰って調査してもらった方がいいかも。ギルドやエリアマスターに見せるべきだと思う」
シリルは軽く頷き、魔石を布に包む。
「もっと奥に行ってみよう。人工魔石の気配、まだある気がするし、何より異常な魔力を感じる」
シエルは口には出さないが、胸の奥に言い知れぬ不安を感じていた。
深い雪を踏みしめ、彼らは森のさらに奥へと進み始めた。
さらに奥へと進むにつれ、空気の重苦しさは極まっていった。
その中心――雪原の中に、禍々しい気配が渦巻いている。
白い森の一角だけが、何かに蝕まれたように黒ずみ、息苦しいほど魔素が満ちていた。
「……あれ、見て」
シリルが小声で指差す。
倒木と岩が積み重なる窪みの中心――
人工魔石が、根元に半ば埋もれるように鎮座している。
その周囲には、赤黒く濁った光を放つ魔石が、いくつも無造作に転がっていた。
どれも先ほど討伐した四枝鹿の魔石に似ていて、禍々しい光を放っている。
「魔石……こんなに……」
シエルが低く呟いた。
人工魔石を中心に、暴走した魔獣たちが次々と集まり、倒れ、その痕跡を残していったようだった。
そして、赤黒い魔石の残骸が散らばる暗がりの奥――
ひときわ大きな影が、じっと身をひそめている。
その姿は、森の闇に溶け込むような漆黒の巨体だった。
ずんぐりとした四肢は異様なほど太く、全身を荒々しい黒毛が覆っている。
背は木々の中でもひときわ高く、うねるような背中からは黒煙のような魔素が絶え間なく立ち上る。
頭部には湾曲した大きな角がいくつも突き出し、まるで獣と悪夢が混じり合ったかのような異形。
顔の奥、深い闇のなかで、鈍く光るふたつの目だけがぎらりと存在を主張していた。
シリルたちは木立の陰に身をひそめ、息を殺してその様子をうかがう。
気配を消し、慎重に距離を取って観察していた。
「……あれ、なんだ?」
シリルが小さな声で指をさす。
驚きというより、妙な違和感を含んだ声音だった。
強い魔力を隠すそぶりも、身を隠そうとする気配もない。
あまりにも無防備に、魔素を垂れ流したまま、ただそこに存在している。
アルマが低く唸る。
「……あんなの、見たことないな。あれだけの魔力を持っていれば、少しは隠すものだが……全く隠す気がないな」
人工魔石からあふれる魔素を、巨獣はためらいなく吸い込み、さらに禍々しく膨れ上がっていく。
シエルは無意識に手のひらに汗をかいていた。
その圧倒的な威容に、思わず息を呑む。
だが、恐怖に立ちすくむことはない。
全身を引き締め、静かに剣の柄に手を添える。
元の狩場は、すでに蹂躙し尽くし、食い荒らした残骸しか残っていなかった。
新たな狩場と餌を求めて、魔獣は森をさまよっていた。
ある日、森で二本足の弱々しい生き物たちが、奇妙な石を置いているのを見つけた。
奴らの魔力は取るに足らない程度だったが、飢えた魔獣にとっては、それでも悪くない獲物だった。
抵抗はしてきたものの、妙な魔力を使うだけで、殺すのに大した手間はかからなかった。
空腹をしのぐ程度に肉を食べていると、石からあふれ出す魔素に気づく。
それは普通の魔素よりもはるかに濃く、体の奥深くまで染みわたるような心地よさだった。
魔獣はしばらく、その場にとどまることにした。
やがて、石の周りには次々と魔獣や動物が集まり始めた。
かつては逃げていた連中も、狩るのが面倒だったやつらも、みな狂ったように石を目指してやってくる。
どいつもこいつも、魔素を吸いすぎて正気を失い、濃厚な餌へと変わっていった。
食い散らかした獲物からは、時々赤黒い石が転がり出る。
その石もまた、放っておけば魔素を放ち、森の空気はますます濃くなっていった。
ここにいれば、狩りに出る必要すらない。
美味い餌が、勝手に集まってくる。
魔獣は石をわざと残すことで、さらに餌が集まることを知った。
こうして魔獣は、訪れるものを何度も襲い、喰らい続け、次第に巨大化していった。
その数日後、また二本足の生き物が森に現れた。
今度のやつは、前の獲物よりも警戒していた。
きょろきょろと周囲を窺い、石を気にしながら妙な呪を唱えている。
だが、そんなものはどうでもいい。
腹が減っている――ただそれだけだった。
気配に気づき、こちらへ向けて妙な魔力や物を放ってくる。
最初の二本足よりもしぶとかったが、巨体で押し潰し、牙で噛み砕けば、やはり柔らかな肉の塊にすぎなかった。
骨と血の匂いだけが雪の上に残り、もう動かなくなった。
その肉には石はなかったが、腹は満たされ、体の芯がじわりと熱くなる。
溢れんばかりの力――自分こそが最強であるという確信。
気がつけば、頭の中がじんじんと熱を帯び、世界が赤黒い霧に包まれていくようだった。
かつて感じたことのない高揚と、抑えきれない渇き。
理性の底が、ぬるい泥水に溶けていく。
森の奥。
ただ魔石の気配と、己の息づかいだけが満ちていた。
すべてが自分の縄張り――そう信じて疑わなかった。
――不意に、背中に何か重い衝撃が走った。
何かが当たった。
体が大きく揺れるが、不思議と痛みはない。
ただ重い衝撃だけが残る。
魔獣はゆっくりと振り返り、木立の陰に潜む二本足の生き物二匹と、もう一体の魔獣を見つける。
彼らはじっと様子を窺っていた。
巨体は怒りに任せて突進し、渇きと飢えのままに牙をむく。
だが、獲物たちは素早く、まるで空気を縫うように身をかわし、牙も爪も届かない。
攻撃のたびに、獲物たちは紙一重でかわしてゆく。
苛立ちと渇望が、その巨体をさらに荒々しく暴れさせる。
しかし、またしても何かが体に当たり、何度も衝撃が加えられる。
痛みはない。
だが、気づかぬうちに四肢が重くなり、動きも徐々に鈍っていった。
視界の端が赤黒く霞み始める。
思考も、狙いも、すべてが鈍くなり、ただ本能だけで獲物を追い続ける。
いつもなら一撃で屠れていたはずの獲物たちが、なかなか倒れない。
やがて、その異変も、重苦しい霧に包まれていった。
気づけば、片足が雪に沈んでいた。
違う――すでに足はなくなっていた。
立とうとしたときには、片方の前肢も力が入らず、ぐにゃりと雪を汚すだけだった。
それでも獲物を追おうと巨体を振り絞る。
だが、全身を駆け巡る激しい痛みが、とうとう意識を貫いた。
これまで感じたことのない鋭い痛み。
重さも、渇きも、すべてが血の中に溶け出し、思うように体は動かない。
周囲の景色が、じわじわと赤黒い靄に染まり、何も見えなくなっていく。
巨体は雪原に沈みこみ、もがくほどに痛みと恐怖が全身を蝕んだ。
そのまま、もはや何も聞こえず、何も見えない闇が、静かに魔獣を呑み込んでいった。
雪煙の向こう、巨大な魔獣がついに動かなくなる。
しばらく誰も声を出さなかったが、白い息が静かに空にほどけていく。
「……なかなか、しぶとかったね」
シリルが仮面の奥で肩で息をつきながら、魔獣の亡骸を見下ろした。
シエルも鞘に剣を収め、小さく息を吐く。
「でも、ちゃんと倒せた。……今回は、私もちょっとは役に立ったよね?」
「……まあまあだな」
アルマが小さく鼻を鳴らし、ちらりと魔獣の亡骸を見た。
「……狂っていたおかげだな。バカみたいに突っ込んできたから、あれで余計な策も何もなくなった」
雪原に残る巨大な足跡と血痕を眺めながら、三人はゆっくりと肩の力を抜いていった。




