第三話:別れと覚悟
──あたたかい。
目が覚めたとき、まずシリルが感じたのは、
そんな奇妙な感覚だった。
全身が痛むはずなのに、それでもどこか安心できる温もりに包まれていた。
見上げると、そこには白く大きな体、蒼い瞳。
静かに呼吸を繰り返すボスの姿があった。
シリルを守るようにして横たわりながら、
ボスは目を細めていた。
「起きたか、シリル」
低く、優しい声だった。
「ボス……勝ったの、かな……?」
「勝敗など、今となってはどうでもいい。
だが──お前の覚悟、しかと受け取った」
ボスはゆっくりと立ち上がろうとしたが、
まだ足が震えていた。
シリルも同じだった。
体はまだ満足に動かない。
それでも、互いに生きていた。
それだけで十分だった。
「……体、治してくれたんだね」
「最低限の治癒はな。お前の回復力には敵わんが」
「ありがとう、ボス」
しばらくの静寂ののち、
シリルはぽつりと呟いた。
「ねぇ、ボス。お願いって、覚えてる?」
「ああ。約束は守ろう。言ってみろ」
「……アルマを、連れて行きたいんだ。外の世界に」
ボスは黙っていた。
その視線の先には、すぐ近くに座っていた
銀の毛並みの若き狼──アルマがいた。
鋭い目つきとしなやかな体躯。
彼は、シリルと最も共に試練を乗り越え、
時に兄のように、時にライバルのように
接してくれた存在だった。
アルマは黙って立ち上がり、
ゆっくりと二人の前に歩み出る。
その瞳の奥には、深い葛藤があった。
──群れを守る役目。いずれ訪れるであろう世代交代。
──自分が、この群れを導くという責任。
──それでも、あの空の向こうを見てみたいという、
抑えきれぬ想い。
その全てを抱えたまま、アルマはボスへと目を向けた。
「……外に出たいのか、アルマ。
覚悟はあるか?」
低く響くその言葉に、アルマがぴくりと耳を動かす。
返事はない。
ただ、前をまっすぐに見つめたまま、
鼻先で静かに息を吐いた。
最初に動いたのは、次女のライナだった。
細身の体を寄せ、アルマの横腹に鼻先を軽く押し当てる。
「行ってきなさい」──
そんな短いしぐさに、精一杯の想いが込められていた。
三女のエルミナがそれに続き、
小さく尻尾を振ってから、名残惜しげに顔を背ける。
四男のノクスは、前足を一歩踏み出し、
照れくさそうに地面をかいた。
何かを言いたそうで言えず、
ただ、アルマの顔をじっと見ていた。
三男のマウルは、やや乱暴に肩をぶつけると、
低く喉を鳴らして笑ったような声を出す。
「情けない顔すんなよ、兄貴」──
そんな風にも聞こえた。
そして、群れの中で最も冷静で誇り高い
長女のセナが一歩前に出る。
彼女はアルマの前に立つと、短く息をついた。
『……背筋を伸ばしなさい。あなたは、私たちの誇りよ』
そんなふうに、まなざしだけで伝えてくる。
言葉ではなく、態度で支える強さ。
それがセナだった。
最後に、長男のアニマがゆっくりと歩み出る。
彼は何も言わず、何もしない。
ただ、まっすぐアルマを見ていた。
その目に宿るのは、長い時を共に歩んできた者だけが持つ、 深く、静かな想い。
子狼だった日々。
雪の夜を寄り添って越えたこと。
飢えの中で片方の獲物を譲り合ったこと。
言葉にならない数々の記憶が、視線ひとつで通じていた。
やがてアニマは、一度だけうなずいた。
その動きは重く、静かで──何より、優しかった。
「……お前が行くなら、俺たちも止めはせん」
ボスが静かに言った。
「だが、振り返るな。前だけを見ろ。
それが外の流儀だ」
そのときようやく、アルマが首を垂れ、目を閉じた。
そしてゆっくりと、力強くうなずいた。
その仕草だけで、シリルには十分だった。
言葉はいらない。
アルマの中にある想いは、痛いほど伝わってきた。
アルマはシリルに近づき、軽く鼻を触れ合わせた。
それは、この森での“約束”のしるし。
どこまでも、共に行くという誓い。
シリルは、笑った。
その瞳には、どこまでもまっすぐな希望が宿っていた。
「ありがとう、アルマ。……よろしくね」
ボスは、そのやりとりを黙って見守っていた。
どこか懐かしげに、微笑んでいた。
──小さかったアニマとアルマを拾った雪の日のこと。
──仲間を庇って傷だらけになったアルマのまなざし。
──そして、あの日、森の外れで震えていた、人間の子シリル。
すべてが、昨日のことのように思い出される。
「森を離れても、群れの名に恥じぬ行動を忘れるな」
その言葉に、アルマが一度だけ大きく吠えた。
それは、決意の声。
長き眠りから目覚めるような、魂の叫びだった。
こうして──シリルとアルマは、旅立つ覚悟を決めた。
その決意は、森に静かに響き渡っていた。