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第四十四話:兄の背、弟の道

 討伐班が戦闘の準備を進める中、シリルは少し離れた場所で、その様子をじっと見つめていた。


 実は道中、シリルは「全部まとめて炎で燃やせばいいんじゃないか」と、ごく素朴な提案をしていた。

 しかし、それを聞いたシエルをはじめ、他の冒険者たちはすぐさま首を振った。


「だめだよ、シリル。火を使ったら――」

 シエルが真剣な顔で言ったのは、火の熱で生まれる上昇気流が鱗粉を広く拡散させてしまうこと。

 そして、何より家に火が燃え移れば取り返しがつかない、という理由だった。


「鱗粉をまき散らさないように、一匹ずつ確実に仕留めるしかない」

 経験豊富な冒険者たちは、口々にそう告げた。


 それでもシリルは、なおも考え込んでいた。

 森で見かけた時も、氷羽虫グラキアリス・パピリオは群れを成していた。

 ひとつひとつ潰していては、きりがない気がする。

 かといって、炎以外の広範囲攻撃も、やはり鱗粉を散らしてしまいそうだった。


 ――被害を出さずに、どうやって倒せばいいんだろう。


 森では、自分と狼たちさえ無事ならよかった。

 でも今は、周りの人や家を守らなきゃいけない。

 そんな戦い方、ほとんど経験がないシリルにとって、これは本当に難しい問題だった。


 すぐ隣では、アルマが迫ってきた氷羽虫を前脚で素早く切り裂き、そのたびに体につく鱗粉を鬱陶しそうに振り払っている。


「シリル、どうした。手が止まってるぞ」


 アルマはちらりとシリルを振り返りながら、いつもの調子で声をかける。

 シリルは小さく首をすくめた。


「……どうしようかなって考えてただけ」


「どうせ炎で全部焼くのはダメって言われただろ?」


 アルマの言うとおりだった。


「火を使ったら、鱗粉が風に乗って広がるし、家に燃え移るかもしれないって……。だから、一匹ずつ確実に倒せって」


「ふん……人間の考えは面倒だな」


 アルマは前脚で鱗粉を払いながら、少しだけ不機嫌そうに言う。


「森にいる時は、こんな虫、気にもしたことがない。……でも、人間には毒なんだろう?」


「うん……シエルたちも、鱗粉を吸うと危ないって。だから広げちゃだめだって」


 シリルは氷羽虫の群れを見つめた。

 魔力の流れを感じ取り、どうにか効率よく、でも安全に対処できないかと考えを巡らせる。


「広範囲に風とか雷でも、やっぱり鱗粉が散っちゃうかな……」


 アルマは一瞬だけ考えるような仕草を見せたが、すぐ肩をすくめた。


「お前の魔力操作なら、もう少しうまくできるんじゃないか?空気の流れを変えるとか……鱗粉を逆にどこか一か所に集めるとか」


「うーん……やったことないけど、やってみる」


「無理はするなよ」


 そう言って、アルマはもう一匹の氷羽虫を鮮やかに切り裂いた。

 鱗粉がふわりと舞い上がるたび、アルマは鼻をしかめる。


「森なら、こんなの全部無視するのにな……人間と一緒にいると、色々面倒だ」


「……でも、僕、人間の街とか家も嫌いじゃないよ。だから、できるだけ守りたい」


 シリルが小さくそう言うと、アルマは一瞬だけ目を細めた。


「そうか。ま、好きにやれよ。俺ももうちょっとだけ、付き合ってやる」


 しばらく黙って考え込んでいたシリルだったが、ふと顔を上げた。

 アルマの「どこか一か所に集める」という言葉が、頭の中で繰り返される。


(集める……集める、か。風で……)


 普段、風の魔力を使うのは火の火力を上げる時や、何かを吹き飛ばしたい時だけ。

 でも、それなら――


「……ちょっと試してみる」


 小さくつぶやいて、シリルはアルマの横に立ったまま、前方を漂う氷羽虫を一体じっと見据える。


 空気の流れが乱れないよう、できるだけ静かに、だが素早く魔力だけを前方へ広げていく。

 氷羽虫の周り、そして鱗粉までも包み込むように、魔力を空間に染み渡らせる。


(気づかれないように――)


 シリルは静かに息を整え、次の瞬間、一気に魔力を風へと変換し、自身の手元へ引き寄せた。

 一瞬で氷羽虫とその周囲の鱗粉が、すべてシリルの前へと吸い寄せられていく。


 「……できた、かも」


 アルマは、シリルに引き寄せられた氷羽虫を切り裂くと、


「まあ…悪くはない」と、ぽつりと一言だけ言った。


「……よし!」


 小さくうなずき、シリルはその場を離れた。

 向かった先は、氷羽虫の群れに囲まれているシエルのもとだった。




 シエルの前には、何匹もの氷羽虫が蠢いている。

 だが彼女は、障壁ひとつ張ることもなく、氷羽虫の攻撃も躱し、撃ち落とし、ただ淡々と、氷羽虫を斬り倒していく。


 その動きは無駄がなく、軽やかで、しかも全く怯んでいない。

 よく見れば、シエルの肌のごくわずか上――薄い魔力の膜がふんわりと全身を覆っている。

 だがそれに気づいているのは、シリルだけだった。


「……なあ、どうなってんだ? あれ……」

「障壁も張ってないよな……?」

「なのに鱗粉が……まるで当たってねぇ……?」


 冒険者たちは、それぞれ氷羽虫と格闘しつつも、思わずシエルの方へ視線を向ける。


「くそ、こっちは障壁張っても攻撃とともに、鱗粉が抜けてくるのに……」

「前は、障壁張るだけで精一杯だったのに……いつの間に……?」

「……魔法、使って……る? あんな魔法知らないぞ……」


 誰もが自分の相手に追われながらも、シエルの異様な落ち着きとその成長ぶりに、驚きと戸惑いが交じった声が漏れるのだった。




 シエルの魔力の流れが、以前よりずっと滑らかになっているのに気づき、シリルは内心、驚きと嬉しさが入り混じった気持ちになる。


「部屋に戻ってからも、ちゃんと練習してたんだ!偉いね、シエル」


 思わず顔がほころぶ。その横で、アルマもちらりとシエルを見やる。


「――ま、これなら少しは使えるようになったか。人間にしては、だがな」


 ぶっきらぼうな口調の奥に、どこか満足げな響きが混じる。

 シリルは軽く息を吸い、颯爽とシエルの横へ歩み寄る。


「シリル! どこ行ってたの!? 手伝ってよ、きりないよ!」


 シエルは困った様子ではないものの、押し寄せる氷羽虫を前に苦戦を強いられている様子だった。


「あーちょっと練習?」


「……練習?」


 シリルはこくりと頷き、シエルの前に出る。


「僕の前に立たないで。シエルはそのまま後ろで見てて」


 シリルは深く息を吸い込むと、一気に魔力を前方へ広げた。

 シリルの前方の景色が、ほんのわずかに揺れる。

 シエルはその空気の違い――微妙な違和感を敏感に感じ取った。


 何匹かの氷羽虫が、シリルから離れようとふわりと羽ばたく。

 その瞬間、シリルが両手を前に突き出す。

 ビュッと一気に風が巻き起こり、七匹の氷羽虫が鱗粉ごとシリルの手元へ吸い寄せられた。


 一瞬、シリルの眉がわずかに動く。

 次の瞬間、横からアルマが素早く飛び込み、七匹まとめて切り裂く。

 鱗粉はほとんど舞い上がることなく、七匹の氷羽虫は一度に倒れた。


「すごいじゃない、シリル!」


 シエルが思わず声を上げた。

 だが、シリルはその場に尻もちをついて、苦笑いを浮かべる。


「……うーん、これじゃだめだ。一度くらいなら平気だけど、町全体とか広い場所じゃ、魔力の消費が大きすぎて無理だ……。それに、広げすぎると気づかれやすいし、遠くの魔力を風に変えるのも難しい……」


 シエルには一気に七匹も倒したように見えたが、シリルは納得がいかない様子だった。

 すると、アルマが静かに脚についた鱗粉を払い落とし、ゆっくりとシリルの前に立つ。


「よくやった。……ま、こうなるのは分かってたけどな」


「なんだよ、それ。だったら最初から言ってよ」


 シリルがむっとして言うと、アルマはふっと鼻で笑う。


「昔からそうだろ。手取り足取り教えられた覚えなんて、ないはずだ」


 シリルは少しむくれたが、言い返せない。

 ボスとの訓練――何度も痛い思いをしながら、体で覚えた日々がよみがえる。


「戦闘や狩りの点においては……まあお前の方が上と認めてやる」


 どこか拗ねたような、素直じゃない声音で、アルマはぽつりと続ける。


「けどな、魔力操作も、魔力量も――まだまだ甘い」


 そう言いながら、アルマは氷羽虫達の方へと


「……アルマ?」


 シリルが小さく呟く。

 シエルも、思わず驚いた顔でアルマを見つめた。


「人間のために本気を出すのは、どうにも気が進まんが……」


 アルマは一瞬、遠い目をして、すぐに口元だけで笑う。


「だが、シリル。弟の前だ。たまには兄の威厳というものを、見せてやろう。――よく、見ていろ」


 アルマは前脚を大きく広げ、頭を地面近くまで低く構える。

 背中から腰にかけてしなやかな曲線を描き、後肢は踏ん張るように力強く伸びている。

 四肢の筋肉が静かに張りつめ、体全体がしなやかに緊張していた。

 まるで次の瞬間、地を蹴って獲物へ飛びかかる獣のようだった。

 その瞬間、静けさが場を満たした。


 ――アルマの魔力が、地面を這うように、一帯へと瞬時に駆け抜けていく。

 空気がわずかに震え、風も音も、その場のすべてが一度だけ静寂に飲み込まれる。

 魔力の波紋は夜明け前の湖面のごとく、揺らぎも濁りもなく、静かに、しかしためらいなく大地全体へ広がっていった。


 やがて、広がった魔力の“面”が、まるで呼吸のように一度だけ膨らむ。

 アルマが勢いよく顔を上げた、その瞬間――

 魔力が、風へと姿を変えた。

 同時に、魔力は一気に上空の中心へと収束しはじめる。

 爆ぜるような衝動もなく、ただ鋭い一筋の奔流が、魔力の軌跡をなぞるように走る。


 氷羽虫たち――数十匹が、もがく間もなく、目には見えぬ風に抱かれて中心へと吸い寄せられていく。

 その流れは暴風というより、すべてを逃さぬ静かな渦。

 集められた氷羽虫たちは、鱗粉ごと幾重にも圧縮されていき、やがて塊はみるみる小さく、最後には小石ほどの大きさへと変わっていった。


 あとには、ひとすじの風も、鱗粉の舞い上がりすら残されていない。

 その場に残ったのは、ただ静寂と、圧倒的な力の残響だけだった。


「わるいな」


 そう、にやりと言ったアルマ。

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