第三十九話:夜の雪、沈黙の帰路
シエルは膝をついたまま、震える手で地面を掴んだ。
目の前に広がる、血と死体の光景。
吐き気がこみ上げる。
けれど、今だけは目を背けたくなかった。
「やめて、シリル! もうやりすぎだよ……!」
必死に声を絞り出し、シリルを睨む。
シリルは首をかしげ、きょとんとした顔で言い返した。
「ん?なにが?」
「だから、そこまでやる必要ないよ……」
「なんで?だって、今回は調べるのが目的だってハドリーさん言ってたよ?」
「そうじゃなくて!……そうじゃなくて……」
シエルはうまく言葉が続かない。
シリルは変わらずきょとんとした顔で首をかしげている。
それでも、シエルは必死に口を開く。
「それ以上やる必要はないよ!それに、シリルとアルマなら――殺さずに止めることだって、できたはずだよ……!」
シリルはシエルの問いかけに、淡々と返す。
「なんで殺さないで止める必要があるの?」
シリルは、本当にわからない様子だった。
アルマがさらに続ける。
「殺さずに止めても、力が残っていればまた襲ってくるかもしれない。だから、息の根を止めるのが一番確実だ」
シリルも、小さくうなずいた。
シエルは唇を強く噛み、声を震わせて叫ぶ。
「……どうして、そんなに簡単に人を――!」
言葉が詰まり、喉が痛くなる。
シリルはきょとんと目を瞬かせて、無垢な声で答える。
「ん?でも、向こうが先に襲ってきたよ?だから仕方ないんじゃないの?」
シエルは頭を振る。
「……人だよ?人間を、だよ……!」
シリルは少しだけ考えるような顔をしてから、首をかしげる。
「人だから?襲ってきたら止めないといけないでしょ?人だと何か理由があるの?」
シエルは何か言いたげに口を開くが、言葉が出てこない。
ただ、自分の中で「当たり前」だったものが、シリルには伝わらないのだと知り、息苦しさだけが残った。
沈黙が、二人の間に重く降りた。
シリルはしばらくシエルの顔を見つめ、それでもやはりわからないというように、そっと問いかけた。
「ねえ、シエル。魔獣が襲ってきたときは……こんなこと、言ってなかったよね?」
シエルははっと息を呑む。
「……それは、魔獣は――」
言いかけて、シエルは言葉を失った。
シリルは無垢な声で、ぽつりと続ける。
「アルマも魔獣だよ?でも、アルマは俺の兄弟だ」
その素直な言葉に、シエルは膝の上で拳を握りしめ、うつむいた。
“人と魔獣の間にあるべき一線”。
それが、シリルの中には、存在しないのかもしれない――。
シエルは、胸の奥が痛くなるのを感じていた。
沈黙が重く落ちる。
シリルはなおも首をかしげたまま、シエルを見ている。
その無垢な視線に、シエルはうつむいたまま、しばらく何も言えなかった。
――私は、やっぱり……。
小さく息を吐き、シエルは震える手を静かに握りしめる。
目の前の“人間”から目をそらすことなく、膝をついたまま、ゆっくりと近づいていく。
「教えてほしい。あなた、本当に何も知らないの?」
できるだけ穏やかな声で、傷ついた男にそっと問いかける。
男は苦痛に顔をゆがめながらも、シエルの声にだけはほんの少し反応を示した。
「……ほんとうだ……俺たちは、人工魔石を設置しろって命令されて……。でも壊されたから、今度は回収と、まわりの調査をしろって……それだけなんだ……」
「命令してきたのは誰?」
シエルが優しく問うと、男はかすかに首を横に振る。
「黒いローブを着てた。顔も声も……何もわからなかった。けど……たしか、頬に傷があった……ように見えた」
男の声はどこか遠く、意識ももう薄れていくようだった。
シエルはそっとその手を取り、静かにまぶたを閉じる。
後ろで、シリルは黙ったまま、ふたりを見つめていた。
その瞳に宿るものは、ただ「不思議そうなまなざし」だけだった。
男の右腕と左足は、氷で固く封じられていた。
鮮血こそ広がらないが、命の火は今にも消えそうに揺れている。
シエルは男の傍らに膝をつき、魔法言語を唱えながら氷を丁寧に溶かしていく。
断面が露わになると、すぐさま両手を傷口に重ね、回復魔法を送り込んだ。
淡い光が男の体を包み、血は止まり、最低限の治癒が施される。
男は意識を失ったまま動かない。
シエルは小さく息を吐き、男の体を抱えるようにしながら振り返った。
「……私が運ぶ。ギルドまで連れていくから」
シリルはその姿を見つめていた。
――どうして、そこまでして助けるんだろう。
さっきまで自分たちを殺そうとした相手なのに。
人間なら、情けをかけるべきなのか。
でも、もしこれが魔獣だったら……きっと誰も迷わず止めを刺していたはず。
自分のやり方が“冷たく見える”のだと、今のシエルの背中を見て、少しだけ思う。
シリルは、どこか納得のいかない様子で口を開いた。
「もう何も知らないって言ってたよね?だったら、無理して助けなくてもいいんじゃない?」
アルマも静かに続ける。
「捨て置けばいい」
アルマもまた、シエルの行動はあまり理解はできなかった。
――人間同士だからこそ、情をかけ合うのはアルマには分かる。
同種同士が助け合うのは、魔獣であろうとあることだ。
だが、それでも敵にまで手を差し伸べるのは、やはり普通ではない。
むしろ、この少女のほうが“異質”なのではないか。
アルマはそんな思いを心の奥で静かに転がしていた。
シエルは二人の言葉に目を伏せ、けれど揺らがずに首を振った。
「それでも……助けたいんだ」
短く答えると、魔法言語をもう一度紡ぐ。
風の魔法が男の体をそっと浮かせ、シエルは彼を支えながら歩き出した。
その背中を、シリルとアルマはしばらく黙って見つめていた。
やがて、静かに三人と一匹は森を後にする。
その道すがら、誰も余計な言葉を発することはなかった。
ふと、山頂の方を振り返ると、夜空にかすかに白いものが舞っているのが見えた。
静かな闇の中、山頂には雪が降り始めていた。
夜の山道は長く、冷たかった。
男を浮かせ続ける魔法は、シエルの体力も魔力もじわじわと奪っていく。
石の多い下り坂で何度も足を取られそうになりながら、シエルは必死に踏みとどまっていた。
そのとき、不意にシリルがシエルの隣に並ぶ。
無言で手を差し出すと、男の身体をそっと風で支える。
魔力が二人分重なったことで、負荷が軽くなり、男の体はより安定して浮かび上がる。
シエルは驚いてシリルを見る。
「……ありがとう、シリル」
シリルは、ただ静かに答えた。
「……シエルが疲れてるから」
それだけを言い、再び無表情に男を支え続ける。
アルマはそんな二人の様子を横目に、わずかに口元を緩める。
ふっと小さく息を吐き、夜の空気にまぎれるように、影へと身を溶かしていった。
そこからは早かった。
山を下りきるころには、街の灯りがいくつも瞬きはじめていた。
夜の帳がすっかり降りた静かな通りを、三人と一匹は足早に進んでいく。
シエルの魔力はほとんど尽きかけていたが、シリルの魔力の支えもあって、最後まで男を浮かせて運ぶことができた。
ようやくギルドの扉の前にたどり着く。
深く息を吐きながら、シエルは男をしっかりと支え、扉を押し開けた。
室内には温かな灯りがともり、静かな夜の空気とは対照的に、受付のレナが驚いた声を上げる。
「あ、シエルさんシリーーえっ……怪我人!? すぐ医療班を!」
シエルはかすれた声で叫ぶ。
「一応回復魔法は施していますが、重傷です……」
ギルドの職員たちが慌ただしく集まり、男を担架へと移していく。
その様子を見届けながら、シエルはその場にへたり込んだ。
シリルは静かにそれを見ていた。
夜の街には、まだ冷たい風が吹いていた。




