第三十四話:帰還の冬、変わる背中
北の街道を歩く三つの影が、遠くにクアガットの石壁と城門を見つけた。
「……街、だ」
シエルの呟きは、どこか懐かしさと緊張が入り混じっている。
もう半年――もともと特訓は三か月の予定だった。
だがシリルとアルマは「まだ足りない」と感じ、一度だけ二人で街に戻り、ギルドの支部長ハドリーへ報告に来ていた。
――書類で提出していた期間よりも長くなること、特訓場所をさらに北へ変更したこと、そして邪牙狼が“なぜ魔獣化したのか”手がかりが見つかりそうだということ。
そのわずかな再訪の後、今度は北へと消えたきり、三か月。
そして今日、ようやくふたたびクアガットの北門へ帰ってきたのだった。
門の向こうには見慣れた街並み。
だが、半年ぶりとなれば、同じ景色もどこかよそよそしく感じる。
『……街の空気、ひさしぶりだな』
シリルの影の中から、アルマが呟く。
「うん。ちょっとしかいなかったのに、懐かしく感じるね」
シリルが小さく肩をすくめて笑うと、シエルも少しだけ照れたように頷いた。
「でも……帰ってきたんだよね、ちゃんと」
「うん。ただいま」
三人は歩き出す。
半年ぶりの街、クアガット。
城門をくぐり、三人が石畳を踏みしめてギルドへ向かうと、街には冷たく乾いた冬の風が吹いていた。
半年前――初夏に出発した頃とは、まるで別の世界のようだ。
ギルドの扉を開けて中へ入る。
ちょうど受付にいたレナは、小包の仕分けをしていたところだった。
布に包まれた荷を棚に移そうとしていた彼女は、扉の音に顔を上げ、そして――目に映った二人の姿に一瞬動きを止めた。
「……えっ。あ……おかえりなさい、二人とも!」
驚きに目を見開き、布包みをそのままに、カウンター越しに身を乗り出す。
「本当に……戻ってきたんですね。半年も……!」
「お久しぶりです、レナさん」
シエルがほっとしたように微笑み、小さく会釈をした。
そのやりとりが引き金になったように、ギルドの中央ホールがざわつき始める。
依頼帰りの冒険者たちがちらちらとこちらを振り返り、声を潜めて話し出す。
「あの子たち……」「ほんとに帰ってきたぞ」「てっきりもう……」
ざわめきが広がる中、事務所の奥から乱暴に扉が開き、顔をしかめたマーカスが姿を現した。
「おい、うるさいぞ! 騒ぐなって、何度言ったら――」
そこまで言いかけて、マーカスの目が中央に立つ二人と一匹をとらえた。
「……えっ、本当に……」
一瞬、息を飲んだように動きを止める。
そしてすぐに表情を整え、静かに歩み寄ってきた。
「……お帰りなさい。ご無事で、何よりです」
その声は、普段の軽口とは違って、どこか慎重で――そして、安堵に満ちていた。
「支部長は部屋におります。報告ですね?ご案内します」
ほんの少しぎこちない笑みを浮かべながらも、丁寧な態度でそう言うと、マーカスはふたりを支部長室へと導いた。
マーカスに案内され、二人と一匹は支部長室の扉をくぐる。
中にいたのは、支部長ハドリーただ一人。
席を立ち、穏やかな表情で二人を迎える。
「……無事に戻ってくれて、本当に良かったです。半年というのは、やはり長い」
シリルとシエルが深く頭を下げると、ハドリーは静かに頷いた。
「グラントは他の調査案件で席を外しております。ですが――」
そう言いながら、懐から一枚の銀の羽根飾りのようなものを取り出す。
わずかに魔力が揺れ、淡く光を灯すそれを、ハドリーは手のひらで軽く撫でた。
「精霊を通じて連絡はしました。すぐに戻ってくるはずです。……それまでに、これまでの経緯を聞かせてもらえますか?」
椅子を勧めるでもなく、あくまで自然に、しかし確かな意図を持って言葉を続ける。
「とくに、訓練の場所を西の山間地帯から、あの――北の山岳地帯、通称、断崖の背骨に変更した理由を。あそこは、もともと依頼が立たないほど危険な地域です」
静かに、だが目は真剣だった。
「それから、邪牙狼の件ですね。……三か月前、シリルくんが一度だけ来た際、確かに“手がかりがあるかもしれない”とは聞きましたが――」
そこまで言って、ハドリーはふっと小さく笑う。
「……そのときは足早に報告だけ済ませて、こちらが何か言う間もなく出て行ってしまいましたからね。もう少し、今回はちゃんと話してもらえると助かります」
口調はあくまで丁寧だが、明らかに皮肉が込められていた。
シリルはバツが悪そうに肩をすくめて、苦笑しながら頷いた。
訓練は、西の山間部から始まった。
魔素は穏やかで、環境も安定しており、シエルにとっては最適な初期訓練地だった。
魔力操作の基本から、魔素を体内に巡らせる感覚、野営時の警戒、気配の感知――本当に基礎から、一つずつ積み重ねていった。
ただし、魔法の使用は禁止されていた。
あくまで魔力の「操作」を鍛えるため。
詠唱や魔方陣に頼ることは許されず、全てを自力でこなすことが求められた。
中でも特に過酷だったのが、魔獣の肉を用いた適応訓練だった。
体に合わぬ魔素を多量に含む肉は、彼女に激しい拒絶反応を引き起こした。
それでも毎晩のように食べさせられ、アルマの誘導とシリルの回復処置でなんとか乗り越えていく。
倒れ、嘔吐し、動けなくなり――自分でも「何度死んだかわからない」と思うほどの苦行だった。
だが、そうして耐性と感覚を培っていく中で、訓練地は徐々に北へと移されていった。
魔素の濃い土地へと進みながら、彼らは魔獣の異常に気づいた。
無軌道な動き、異様な興奮、魔石を持たぬのに魔力を纏う存在。
その異変の源を探り、たどり着いたのが――断崖の背骨。
その奥地にて、彼らは“人工的に設置された、大量の魔素を宿す巨大な魔石”を発見する。
それこそが、周囲の魔獣に異常を引き起こしていた主因と推測された。
だが、シエルの特訓はまだ終わっていなかった。
彼らはあえてその魔石を放置し、極限に近い魔素環境の中で、さらに三か月を過ごす決断をする。
そして、帰還の直前――
すべての訓練を終えたその日、彼らは魔石を破壊した。
異変の源を断ち切り、ようやく、街へ戻るために。
ハドリーは長く目を閉じたまま、黙って話を聞いていた。
静寂がひと呼吸続いたあと、ふ、と細く息を吐く。
「……よく、生きて戻ってきてくれましたね」
それは形式的な言葉ではなかった。
支部長としてではなく、一人の大人としての、心からの言葉だった。
「そこまでの地に入っていたとは……魔石の存在、そしてそれを破壊したという判断も含めて、軽々しく口にできる内容ではありません。断崖の背骨の調査は、ギルドとしても重要事項に指定しておきましょう」
そう言って机の上の記録用紙にさらりと記し、ハドリーは改めて二人を見る。
「それにしても……よく耐えました、シエルさん。貴女の努力は想像を超えています」
シエルはすぐには答えず、少し俯き、ぽつりと呟くように言った。
「……魔獣に襲われても、寒さに死にそうになっても……本当に、死にかけるまでは助けなんてなかった……毎日が命懸けで……。本当に、何度あきらめようかと思ったか……」
それは、ただの訓練の感想ではなかった。
厳冬の山岳地帯――断崖の背での、極寒と魔素の濁流の中での生活。
夜も雪も風も、牙を持つ魔獣のように迫ってきたあの日々を、彼女の言葉が静かに滲ませていた。
そのとき、部屋の片隅――影の中から、ふっと気配が揺れる。
「……逃げ出してたら、食ってやったがな」
その声は低く、地を這うような響きをもっていた。
だが確かに、人の言葉だった。
ハドリーがはっと顔を上げる。
視線が動き、シリルの足元の影を注視する。
「……今、のは……」
「うん。アルマだよ」
シリルが軽くうなずくと、影の中から銀の瞳がひとつ、ゆっくりとこちらを見上げた。
ハドリーの瞳が大きく見開かれた。
「……本当に、喋った……」
その声には、驚きと、わずかな畏れが混じっていた。
この半年で変わったのは、ただシエルだけではない。
アルマもまた、確かな“進化”を遂げていたのだった。
そのとき、部屋の扉がノックもなく開く。
「――おい、戻ったぞ」
重い外套に霜をまとったグラントが現れ、扉を足で器用に閉めながら中へと入ってくる。
「精霊から“何やら帰ってきた”と伝わってきたが……まさか本当に半年ぶりとはな。早く顔を見せに来いっての」
軽口めいた調子だったが、その声色にはどこか安堵がにじんでいた。
そしてふと、グラントの視線がシエルに留まる。
「……随分と顔つきが変わったな。何があったかはこれから聞くとして――生きて戻ってきた。それだけで、上等だ」
その一言に、シエルは静かにうなずく。
「……はい。何とか、無事に帰ってこられました」
言葉こそ淡々としていたが、その声には、確かな重みがあった。
グラントの着席を待つ間、ハドリーが軽く経緯をまとめて説明する。
三か月前に受けた報告、そして今日聞いた詳細を、簡潔にグラントへ伝えた。
西の山間部から始まった訓練、途中で北の断崖の背骨へ移動したこと。
魔法は使わせず、魔力操作と生存術だけで鍛え上げたこと。
その間、シエルが何度も死にかけ、最後は異変の元だった巨大な魔石を壊して戻ってきたこと――
そして、アルマが人語を話せるようになったこと。
「……邪牙狼と同じ。魔石を持たないのに、魔力を持ってた」
シリルの言葉にグラントが静かに息を呑む。
そのとき、影の中からアルマが顔を上げ、グラントをじっと見て低く言う。
「……お前も特訓に来ればよかったんじゃないか?」
「……本当に、喋るようになったのか」
グラントが静かに呟く。
その一言に、部屋の空気が少し和んだ。
その空気を断ち切るように、グラントが椅子から立ち上がる。
「……よし。だったら見せてもらおうか、その半年の成果とやらを」
それは真正面からの申し出だった。
シエルは一瞬だけ間を置き、すっと顔を上げて応じる。
「……はい。お願いします」
迷いのない返事に、グラントが目を細める。
「……ずいぶん変わったな」
隣でハドリーも、深く頷いた。
「以前のシエルさんなら、こんなふうに即答できたでしょうか」
「いや、できなかった」
グラントが静かに答える。
まるで別人のように、真っ直ぐ立つその姿に、ふたりの上官は確かな成長を見ていた。
その横で、シリルが勢いよく口を開く。
「僕もやりたい!」
グラントが眉をひそめる。
「お前は後だ。順番ってもんがあるだろうが」
すねたようなシリルの視線を受け流しながらも、グラントの頬がわずかに緩んだのを、ハドリーは見逃さなかった。




