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第三十一話:穏やかな風の帰り道

 ――気づけば私は、誰かの背で運ばれている感触があった。


 ……たしかにおいしかった。

 香ばしくて、ジューシーで、少し癖はあるけれど、思っていたほど悪くない――

 そう思った瞬間までは、はっきりと覚えている。

 けれど――

 そのあとの記憶が、ふっと途切れていた。


 体を起こそうとしたが、まだ重さが残り、シエルは諦めて再び目を閉じた。




 次に目を覚ました時、シエルはまだアルマの背にいた。

 木陰に隠された草地、街道からは人目につかない場所――銀狼の体温と緩やかな揺れが、まだ彼女の体を支えている。


「あ、シエル……気が付いた? 大丈夫……?」


 すぐそばで声がして、顔を向けると、仮面を頭にあげた心配そうなシリルの姿があった。

 視界は少し霞んでいたが、意識ははっきりしている。


「ああ……なんとか」


 ぼそりと答えると、シリルが申し訳なさそうに視線を伏せた。


「ごめんね……まさか、一口で倒れるとは思わなくて……」


 しょげたような声に、シエルも苦笑を返す。


「こっちこそ……ごめん。迷惑かけたね」


 二人は互いに謝り合い、顔を見合わせて、ふっと笑った。


『やれやれ、情けない奴だな』


 呆れた声を返しながらも、アルマは少しだけ鼻を鳴らして笑っているようだった。

 まだ少しふらつきながらも、アルマの背からそっと地面へと降りた。


「ありがとう、アルマ。もう下がってていいよ」


 シリルの言葉に、銀狼の体がすっと影に溶けて消える。

 ようやく歩けるまでに回復したシエルは、足元を確かめながら小さく礼を言った。


「……本当に、ありがとう。助かったよ」


「ううん。俺がなんとかするって言ったのに、できなかったから……ごめんね。一応、対処はしたんだけど」


「……対処?」


「シエルの魔力の流れを、少しだけ止めたんだ。それと……余分な魔素が回らないように、強制的に外に出しておいた」


「……そんなことまでできるの?」


 驚いたように見つめるシエルに、シリルは小さく頷いた。

 まだ日が傾き始めたばかり。

 二人は静かに歩き出し、農場への帰路についた。




 街道を抜け、小道を辿って戻ってきた頃には、空はまだ淡く明るさを残していた。

 二人はゆっくりと農場の門に向かって歩き、やがて門が見えてくる。


 その前で、老農夫――トラムじいさんが、まるで見張りのように立っていた。

 二人の姿に気づくと、目を見開き、すぐさま駆け寄ってくる。


「おおっ……! お前さんたち、無事だったか! ……こりゃまた……」


 すぐさま視線は、シリルが肩から下げていた大きな荷に移った。

 それは、木の蔦で括られた三体分の証――獰牙猪(ドゥルハーン)の魔石と、鋭く反り返った角だった。


「これは……! まさか、全部……?」


「うん。三体とも倒したよ。蹄の形も、畑にあった痕と一致してた」


 そう答えたシリルの声は、淡々としているが確信に満ちていた。


「……それに、周囲の確認と魔力反応や足跡も確認したよ。特に似たような魔獣の気配はなかった」


「えっ……一人で、それ全――


 シエルが驚きながら問いかけようとしたその瞬間、言葉を遮るようにトラムじいさんが前へ出てきた。


 「なんとまぁ……!」


 目を丸くしたまま、じいさんはシリルとシエルの手をそれぞれ握りしめ、ぶんぶんと振りながら感極まった声を上げる。


「ほんにありがとうよ、あんたたち……命の恩人じゃ。わしらみんな、あんたたちに感謝しとる!」


 感謝の言葉を何度も繰り返す姿に、シリルは少し照れくさそうに笑いながらも、明るい声で応じた。


「いいえー、どういたしまして!」


 その横で、シエルは少し困惑したように目を泳がせつつ、ぎこちなく笑って小さく頷く。


「あ、はい……」


 いつの間にか、後ろにいた農民たちも「助かったよ……」「ほんとありがてぇ……」と、次々に頭を下げ、温かな空気が農場に広がっていた。


「お前さんたちが戻ってこなかったら、わし……どうしたらよかったか……」


 その言葉には、命を預けた者としての重みと、本心からの感謝がにじんでいた。


「本当に、ようやってくれた……! これで、もう畑も安心だ……ありがとう、ほんとうに、ありがとうな……!」


 そう言って、トラムじいさんは再び深々と頭を下げた。

 その背中の丸みに、年老いた農夫の長年の苦労と、今日だけの特別な安堵が滲んでいた。


「役に立てたなら、よかった」


 シリルが小さく頭を下げて言うと、シエルも横に並び、柔らかく微笑んで一礼した。


「お心遣い、ありがとうございます。でも、まだギルドへの報告が残っていますし……農業組合の方々も待っておられるでしょうから」


「そうかい……そうじゃのう。あっちも、ずっと気にしとったからなあ……」


 名残惜しげに見送るトラムじいさんだったが、二人の真剣な眼差しを見て、頷いた。


「……気をつけて帰るんじゃぞ。今日はもう、ゆっくり休めや」


「はい。おじいさんも、もう畑に出るのは明日からにしてくださいね」


「……ふふ、そうさせてもらうよ」


 別れ際、トラムじいさんは満ち足りたように目を細めて見送った。

 空には、まだ斜めに陽が差し込んでいる。


 二人は静かに、再び街道を辿ってクアガットの街へと戻り始めた。




 帰り道、柔らかな風が街道を撫でるなかで、シエルが口を開いた。


「私が倒れている間、一人で……全部、確認したの?」


「うん。アルマにシエルを見守っててもらって、一応念のためにね。魔獣の痕跡も、他にはなかったから、安心していいと思う」


 シリルはあくまで淡々と言うが、それは決して簡単なことではない。

 戦闘を終え、仲間の看病をし、さらに周囲の安全確認まで――それは、熟練の冒険者でも容易にこなせる作業ではなかった。


「……すごい……。本当に、ありがとう」


 呆けたように見つめたあと、シエルはふと目を伏せ、小さく頭を下げる。


「私……まだまだだなって、思っちゃった」


「そんなことないよ。さっきの戦い、すごくかっこよかった」


 肩を軽くすくめながら言うシリルに、シエルはわずかに頬を緩め、照れくさそうに笑った。


『……ふん、褒めすぎだ。だがまあ、あれくらい動けりゃ悪くない』


 その声はシエルには届かない。だが、聞こえたシリルは苦笑しながら小さく頷いた。


 街道には穏やかな風が吹き抜け、どこか肩の力が抜けるような、優しい時間が流れていた。

 視界の先に、西の城門が見えてくる。


「……ちゃんと、帰ってこれたんだね」


「うん。二人とも、無事で」


 その静かな一言が、長く続いた一日を、やさしく締めくくった。

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