第三十話:魔獣と焚き火
獰牙猪の死骸から軽く飛び降りると、シリルは仮面越しにシエルを見やり、静かに声をかけた。
「怪我は、ない?」
淡々とした口調の中に、わずかに労りの色が混じっていた。
「……うん。大丈夫」
肩で息をしながらも、シエルはしっかりと頷き、自分の震える指先をぎゅっと握りしめる。
疲労と安堵、そして、ほんの少しの悔しさが残っていた。
「そっか、ならよかった」
『まだまだ弱ぇな。……まあ、昔のシリルよりはマシだがな』
苦笑交じりの念話に、
『いや、さすがにあの頃の俺より強くなきゃ困るよ』
と、シリルも肩をすくめた。
その様子にシエルは首を傾げながら聞く。
「アルマ、なんて言ってたの?」
「昔の俺よりはマシだって」
少し照れたように答えると、シエルはふっと笑った。
「そっか。それは……よかったのかもね」
その笑顔が和らいだところで、シリルは真剣な面持ちで、三頭の獰牙猪の蹄を順に確認し始める。
「うん。間違いない。畑にあった蹄の形と一致してる」
「……ほんとに、よく分かるね……」
もはや呆れるしかない様子のシエルに、シリルは頷いた。
そして、シリルはシエルに問いかけた。
「これで討伐報告すればいいの?」
「ううん。それだけじゃダメなんだ。実際に倒したって証明がいるから、運べるサイズならそのまま持ち帰るし、大きい場合は魔石や角、頭部とか、証拠になる部位を持っていくのが普通かな」
と、シエルがすぐに答える。
「じゃあ、解体して魔石を取ればいいんだね」
シリルの確認に、シエルは少し考えてから微笑んだ。
「うん、そうだね。今回は三体もいるし……それに、シリルは解体上手だしね?」
肩をすくめるように言うシエルに、シリルも小さく笑って頷く。
「もちろん。……ちなみに、食べてもいい?」
その一言に、シエルは少し驚いたように目を瞬かせてから、思い出したように返す。
「ああ、そうだった。シリルも魔獣食べるんだったよね。普通はその場で食べたりしないから、回収が難しい時は、他の魔獣や動物に荒らされないように凍らせておいたりして……」
「なんで荒らされないようにするの?」
シリルが首をかしげて尋ねる。
「素材や食材になるんだよ。皮や肉に、獰牙猪なら角も骨もね。あとで場所を報告すれば、ギルドの回収班が来てくれるの。彼らは大型の魔獣を運ぶのに特化した魔法を使える人たちなんだよ」
「へえ、そんな人たちもいるんだ」
純粋な興味を示すシリルに、シエルは笑顔で続ける。
「そうなんだ。ただ……報酬から手数料が引かれるから、自分で運べる魔法を覚える人も多いの。私も、風魔法の応用でちょっとだけなら浮かせて運べるんだ」
「すごい!」
シリルの新鮮な反応に、少し誇らしげなシエル。
「でも魔力量はそんなに多くないから、今回は一体が限界かな……」
「見せてくれる?」
シリルの目が輝き、シエルは軽く頷いて、倒した獰牙猪へ近づいた。
「【ʃa’reth luun…val’reth】」――風浮陣
低く震えるような詠唱とともに魔方陣が地面に浮かび上がる。
その中心から巻き上がった風が、ゆっくりと死体を宙に持ち上げた。
「うーん……重いね。街までギリギリってとこかな」
その様子を見ていたシリルが、自分の倒した獣のそばに立つ。
何の前触れもなく、腹の下に両手を差し入れる。
「えっ、ちょ……持ち上げるの!?」
シエルが驚いて声を上げた瞬間、集中が途切れ、魔法が解除された。
浮いていた獣がどすんと地面に落ち、近くで食事中だったアルマがちらりと顔を上げる。
シリルは一切気にせず、がっしと腹の肉をつかみ、下に潜り込むように入ると、そのままぎしりと巨体を持ち上げ――頭上に掲げた。
血がぼたぼたと滴り落ちる中、彼は腕をさらに伸ばし、指先から風を押し出すように魔力を流し込む。
すると――
風が渦を巻いて噴き上がり、死体が軽々と宙へ舞い上がった。
その勢いで、草がなびき、木々がざわめき、血飛沫が弧を描いて空へと舞う。
「……こう、かな!」
そう言うシリルを見つめながら、シエルはぽかんと口を開けていた。
「……そうだね……?」
(持ち上げてる……)
(詠唱、してない……)
(魔方陣も、出てない……)
(風の力は……私より強い……)
「……うん……おかしい……」
思わずこぼれたその呟きは、風にさらわれて森の奥へと消えていった。
風に乗せて呟いたシエルの言葉のあと、しばしの沈黙があった。
その沈黙を破ったのは――
「……お腹、空いた」
宙に浮かせたままの獰牙猪を見上げながら、シリルがぽつりと呟く。
「……え?」
シエルが半ば呆れたような目で見返すが、シリルは真剣だった。
「朝から動きっぱなしだったし、そろそろ食べたいなって……」
『当然だろう。戦ったら、腹が減る』
アルマは骨を砕きながら、すでに二頭目の腹に顔を突っ込んでいる。
その姿に思わず視線を逸らしつつ、シエルは肩をすくめる。
「……まあ、素材も取らなきゃだし、早めに処理しないと腐っちゃうからね……」
「よし、じゃあ俺、こっち解体するね」
シリルは宙に浮かせていた獰牙猪の死体をゆっくりと地面に下ろすと、その前にしゃがみ込む。
何か道具を取り出すのかと思いきや――
「……よいしょっと」
両手を前に差し出したその瞬間、彼の手のひらの間に、空気がきゅっと凍りつくような音が響く。
魔力が凝縮し、淡い蒼の光が集まり、刃のような氷のナイフがすうっと生まれた。
「氷……の刃……!?」
目を見開いたシエルが、思わず声を漏らす。
だが、シリルはそれを気にも留めず、そのまま獣の腹の皮を滑らかに裂いていく。
氷の刃は鋭く、肉を切り裂く動きもまるで慣れていた。
「え、ちょっと待って。詠唱も……魔方陣も出てなかったけど、どうやって……?」
シエルの問いに、シリルはふと手を止めて振り返る。
「ん? ああ……魔力を、氷の形に変えてるだけだよ」
さらりと、当たり前のように言ったその一言に、シエルは言葉を失った。
「……えっ、それって……普通は……」
言いかけた言葉を飲み込み、彼女は思わずシリルの手元に視線を戻す。
(変換も、制御も……一切の魔法の補助なしで……?)
魔力を変換して氷にするという行為は、高度な魔力操作を要する。
それも、氷の刃のような精密な形状となれば、なおさらだ。
普通の人間にはまずできない。
それができるのは、生まれながらに魔石を持つ魔獣か、極めて魔力制御に長けた一握りの天才だけ――
「……そんなの、できるんだ……」
ぽつりと漏らしたその声は、半ば呆然とした驚きの色を含んでいた。
それでもシリルは、まるで野菜でも切るかのように冷静に、黙々と解体を進めていく。
魔力を変換して生み出された氷の刃が、静かに肉を裂いていく。
その手際は思いのほか慣れており、鮮やかに皮を裂き、内臓を避け、骨の構造を見極めながら、素早く肉と魔石の位置を探っていく。
「……ほんとに慣れてるね。どこで覚えたの……?」
呟くように尋ねたシエルに、シリルは少しだけ首をかしげながら、当たり前のように答えた。
「森の中にいたとき、よく食べるために。失敗したら食べられないし……あと、アルマが途中で取っちゃうから、急がないと」
『ふん、のろのろしてると、うまい部位から無くなるからな』
血まみれの顔で、得意げに言うアルマに、シエルはくすっと笑う。
――だがその笑みの奥で、彼女の心には、かすかな混乱が残っていた。
あの詠唱なしの氷の刃、無造作な魔力の扱い、まるで魔獣のような……いや、それ以上に洗練された制御。
(あんな芸当……普通は、できないのに……)
思わず自分の手を見下ろす。
冒険者として鍛えてきたつもりだった魔力操作――だが、シリルのそれは、まるで次元が違った。
まるで、呼吸するように当然のように魔力を扱っている。
……けれど、いつまでも驚いてばかりではいられない。
それが、彼の「普通」なのだ。
小さく深呼吸して、感情を整える。
そして、改めてシリルの作業を見つめ直し、思ったことをそのまま口にした。
「……すごいね。ほんとに何でもできるんだ」
「うん?なんでもじゃないよ。できることだけ」
シエルは感心し、そっかと言った。
火をくべるため、二人は手分けして周囲の枝を集めた。
湿っていない細い木の枝を選び、丁寧に並べていく。
シリルはその前にしゃがみ込み、指先に小さく魔力を込めた。
すると、そこから細く伸びる火の柱が現れ、枝先に触れた瞬間、ゆっくりと炎が広がっていく。
「……また、魔力だけで……」
ぽつりと呟いたシエルだったが、もう驚く気力も薄れていたのか、それ以上言葉にはしなかった。
ぱちぱちと小気味よく燃える音が静かな森に溶けていく。
枝に刺した肉が炎に炙られ、じわじわと焼けていくと、香ばしい匂いが周囲に立ち込めた。
その匂いに、思わず顔を近づけて鼻をくんくんと動かすシエル。
その横で、シリルは焼けた肉を一口かじると、満足そうに息を吐いた。
「……おいしそう」
無意識に漏れたシエルの呟きに、シリルは微笑んで振り返る。
「食べる?」
一瞬、「いい?」と口にしそうになったが、シエルはすぐに首を横に振った。
「魔素酔いしちゃうから、大丈夫」
「……ああ、慣れるよ。たくさん食べれば」
当然のように言われ、シエルの表情が曇る。
「俺も最初は毎回具合悪くなってたけど、気づいたら平気になってた」
(慣れるもんなの……?)
聞いたことがない。
魔素酔いは軽くて吐き気、酷いと命に関わることもある。
それが“慣れ”で克服できるというのなら、何かがおかしい。
そう思いながらも、空腹には抗えなかった。
朝、街を出る前に食堂で朝食を摂って以来、何も口にしていない。
一応、携行食は持っているが、保存用に作られた硬い干しパンや乾いた干し肉は、あまりに味気ない。
――それに、目の前でシリルがうまそうにかぶりついているのを見せつけられると、なおさら、である。
しばらく黙って考え込んでいると――
「ぐぅ~……」
静かな森に、間の抜けた音が響く。
自分のお腹の音に、シエルは顔を赤らめて俯いた。
そして、シリルがやさしく口を開く。
「一口、少しだけ食べてみれば? お腹すいたんでしょ?」
「……でも、魔素酔いが……」
「もしなっても、なんとかするから。大丈夫だよ」
“なんとかする”の意味はよく分からなかった。
でも、彼の声はどこか不思議と、安心させてくれる響きをしていた。
「……うん。じゃあ、一口だけ」
そう言って、シエルは枝ごと渡された肉を、恐る恐る口に運んだ――。
――次にシエルが目を覚ました時、自分がアルマの背に揺られていることに気づいたのだった。




