第二十九話:シエル VS 獰牙猪《ドゥルハーン》
水辺から少し離れた位置――木々の陰に身を潜めた三人。
沈黙の中、シリルがふとシエルの方へ顔を向け、小さな声で尋ねた。
「……ねえ、シエル。一人で仕留められる?」
「――え?」
唐突な問いに、シエルが驚いたように目を丸くする。
その問いには、試すような響きはなかった。
ただ純粋に、問いかけるような眼差し。
「シエルの実力が、ちゃんと見てみたい。俺……まだよくわかってないから」
シリルの声は静かだったが、真剣だった。
その意図に、すぐに続くようにアルマの念話が届く。
『……どうすんだよ。逃げられたら面倒だぞ』
だが、シリルは小さく首を振り、答える。
「でも、これから一緒にいるなら……知っておきたいでしょ?どこまで任せていいのか」
それを聞いて、シエルは一瞬だけ視線を伏せる。
だがすぐに、顔を上げ、はっきりと答えた。
「……一匹なら、問題ないと思う。でも……三匹まとめては、さすがに厳しいかな……」
「うん、それなら……」
シリルは小さく頷き、視線を水辺の向こうに向けた。
「俺とアルマで、小さいのを一匹ずつ狩る。だから……最初に、あの一番大きいのをシエルが仕留めて」
それは、信頼の裏返しでもあった。
戦力として、仲間として、任せるという意志。
シエルは一瞬だけためらうように唇を引き結び――そして、拳をぎゅっと握った。
「……わかった。やってみる」
その言葉に、シリルは安心したように微笑み、視線を戻す。
その間にも、シエルはそっと呼吸を整え、木の陰へと身を寄せた。
獰牙猪はまだ気づいていない。
その姿を見据えながら、シエルは小さく詠唱を始めた。
「【ʃ’a’ven dha’luun…zarh’θek】」――身体活性
異形の響きが、魔力の奔流とともに空気を震わせる。
それは人の言語ではない。
だが確かに意味を持ち、力を呼び起こす魔法の言葉。
彼女の足元に魔方陣が出現し、淡い光が全身を包む。
筋肉が熱を持ち、肺が深く膨らみ、視界が澄んでいく。
――そして、再び息を潜め、距離を詰める。
あと数歩、あと少し。
「【ka’reth nuul shí’zen…vorhak】」――風裂刃
静かに紡がれた第二の魔法が、魔方陣から青白い刃となって前方へ走る。
それと同時に、シエルの足が地を蹴った。
突如、風を裂くような音とともに、風刃が飛ぶ。
その刹那――獰牙猪が耳を震わせ、顔を上げる。
が、その瞬間にはすでに風刃が到達していた。
「グォアッ!」
獰牙猪が咄嗟に三本角の一本で風刃を防ぐ。
その衝撃でよろめいた隙を――
「はああっ!」
シエルが踏み込み、振り抜いた剣が、獣の肩口を斜めに裂いた。
重く鈍い手応えが腕に走る――
斬撃の手応えは、思った以上に重かった。
筋肉を裂いた感触は確かにある――だが、剣は深くは入らない。
「っく……!」
シエルはすぐさま身を引き、斜めに跳ねるように距離を取る。
その直後、獰牙猪の角が唸りを上げて空気を裂いた。
もしそのまま留まっていれば、肩ごと潰されていた。
「硬すぎ……!」
息を整えながら、敵の体を観察する。
以前、一度だけ戦った記憶を呼び起こす。
あのときも、正面からの攻撃は通らなかった――だが。
(背中側、首の下……あのときは、そこに剣が通った)
シエルは姿勢を低く構え直し、円を描くように獣の周囲を回りはじめた。
だがそのとき――
「ッ!?」
獰牙猪の額に突き出た三本の角――その根元から、濁った魔力が立ち昇り始める。
まるで熱気に揺らぐ空気のように、その周囲だけがゆらりと歪み、視界がねじれる。
「……っ、魔力か……!」
シエルが息を呑むのとほぼ同時、角の周囲を包んでいた空間が、圧縮され、変異し、黒い土のような塊となって飛び出す。
咄嗟に身を伏せる。
直後、轟音とともに背後の地面が抉れ、木の幹がえぐられ、皮が剥ぎ取られて散った。
「こんなのまで使えるなんて……!」
思わず唇を噛み、体勢を立て直す。
――けれど、下がるわけにはいかない。
「やっぱり……普通の猪とは、違うっ!」
地を蹴って滑り込みながら、シエルは咄嗟に詠唱へ入った。
「【sha’thel vurn...reshik】」――氷烈風
耳慣れぬ異音の連なりが魔力と共鳴し、足元に魔方陣が浮かび上がる。
そこから吹き上がったのは、刺すように冷たい、霧を孕んだ白い風――。
瞬く間に獰牙猪の前足を包み込み、動きを奪う。
完全に凍結はしなかったが、四肢の一部が霜に覆われ、わずかに動きが鈍る。
――チャンスは、一瞬。
シエルは弾かれるように地を蹴る。
左へ跳ねて角の振るいを避け、姿勢を反転。
そのまま勢いに乗って、獣の背中へ飛び込む。
「はぁぁぁっ!」
渾身の斬撃が、首の付け根を斜めに裂いた。
肉が裂け、刃が骨をかすめて深く食い込む。
「グォオッ!!」
獣が苦悶の咆哮を上げてのけ反った隙を逃さず、肩口から背へ、鋭い二撃目を叩き込む。
刃が魔力の膜を砕き、血飛沫が弧を描いた――。
そして、全身の力が抜けたように、巨体がその場に崩れ落ちる。
――荒い息をつきながら、シエルは剣を構えたまま、しばし動かずにいた。
……だが、もう、獣は動かない。
ようやく肩の力を抜いて構えを解いたシエルが、剣を軽く振って返り血を払いながら周囲を見回す。
視線の先――
その首は切断され、仮面の少年――シリルが、その切り離された胴体の上に、何事もなかったかのように胡坐をかいて座っていた。
まるで、狩りを終えた後の一休みにでも入ったかのように静かに。
さらにもう一頭の方を見やると――
「……うわ……」
頭部がまるごと潰された獣の死骸の腹にかぶりつき、アルマが既に肉をむさぼり始めていた。
その体からは湯気のように魔力が立ち上り、剛力と鋭さを併せ持った爪がまだ濡れている。
シリルがただ静かにこちらを見ていた。
その視線に、シエルは一瞬、肩をすくめるようにして笑う。
「……なんか、悔しいな……」
その呟きは、誰に向けたものでもなく――
けれど、彼女の中で確かな決意の火が、また一つ強くなった。




