第二十六話:始まりの朝
朝、窓の外から差し込む柔らかな光が、シリルのまぶたを優しく叩いた。
「……ん」
静かに起き上がり、身支度を整える。
闇蜘蛛に作って貰った服に袖を通し、鏡の前で一息。
彼は慎重に仮面を手に取り、その白い面を顔にかぶせる。
仮面が顔に触れるたび、どこか気が引き締まるような感覚があった。
「おはようシリル……今日は時間もあるし、朝ご飯、食べよっか」
シエルがそう声をかけ、軽く伸びをする。
それに応じて、シリルとアルマも立ち上がり、三人は食堂へと向かう。
「……わあ」
食堂にはすでに朝食が並べられていた。
パンにスープ、香ばしく焼かれた野菜、そして肉の煮込みも添えられている。
「ハドリーさんが……用意してくれたのかな」
そうつぶやくシエル。
シリルの隣で、アルマが嬉しそうに鼻を鳴らした。
『肉だ!』
椅子に腰掛け、シリルは早速フォークを手に取る。
アルマは床の端に設けられた専用皿へ向かい、勢いよく肉をかみしめた。
スープを一口啜ると、シエルは小さく息を吐いた。
温かな味が、静かに体に染みわたっていく。
食事を終えた三人は、連れ立ってギルドの中央ホールへと足を運んだ。
そこは、冒険者たちが日々行き交い、依頼を受けたり情報を交換したりする拠点であり、この街における冒険者の「心臓部」とも呼べる場所だ。
普段なら、この時間帯の中央ホールは多くの冒険者たちでごった返しているはずだった。
だが――今日は様子が違った。
人の数は少なく、どこか静まり返った空気が漂っている。
「……今日は珍しく人が少ないな」
ホールを見渡したシエルが、ぽつりと呟く。
シリルも「ふーん」と短く返しながら、興味深そうに周囲に視線を巡らせていた。
そして、壁際に並ぶ掲示板の一角を指さす。
「あれ、なに?」
「ああ、あれは依頼書が貼られている掲示板だよ」
シエルが即座に答える。
「依頼書? 掲示板?」
首をかしげるシリルに、シエルは思い当たったように微笑む。
彼にとっては、すべてが初めてなのだと改めて気づいた。
「そう。ギルドが受けた依頼を、あそこにランクごとに分けて貼り出してるんだ」
「ふーん。昨日言ってたFランクってやつ?」
「そうだね。基本的には、自分のランク以下の依頼しか受けられないんだ。シリルはFランクだから、Fまでの依頼が対象になると思う。私たちのパーティ――蒼雪月も、いまはそれに合わせる形になるかな。実績を積めば、個人のランクに関係なく、パーティランクが上がって上の依頼も許可されることがあるけど――まあ、まだ組んだばかりだしね」
「なるほど……」
軽く頷くシリルに、シエルが楽しげに提案する。
「せっかくだし、見に行ってみようか」
「うん」
二人の先導に続いて、アルマも軽やかな足取りでついていく。
だが、彼らが掲示板へと近づくと、その前にいた数人の冒険者たちが小さく息をのんだ。
――アルマの姿を目にしたのだ。
既にギルドで一部に知られているのか、無用な騒ぎは起きなかったが、それでも彼の存在感には圧倒されるものがあったのだろう。
冒険者たちは自然と道を開け、三人はそのまま掲示板の前へと進んだ。
シリルの視線が、貼り出された紙の一枚一枚をゆっくりと追っていく。
「……なんか、あんまり貼ってないんだね」
「もう、だいぶ取られちゃったんだろうね」
シエルが少し残念そうに答える。
シリルの目には、粗末な紙に雑に書かれたGランクの依頼がいくつか映る。
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【Gランク依頼一覧】 ※ランク外の受託不可
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■【倉庫内資材の仕分け作業】
依頼主:クアガット物資管理局
内容:倉庫内の木材・石材・雑貨を種類ごとに分類
報酬:80リル(半日作業)
備考:重作業。動きやすい服装推奨
■【荷運び補助(午前)】
依頼主:グリント商会
内容:市場出荷用の荷車押し・荷物の積み下ろし
報酬:50リル(当日払い)
備考:雨天中止。力仕事あり
■【庭園の草むしり】
依頼主:西区・民家(エルナ夫人)
内容:私有庭(約10坪)の雑草除去作業
報酬:60リル
備考:道具貸与。途中放棄不可
■【空樽の洗浄】
依頼主:ギルド食堂
内容:厨房裏にある使用済み樽の洗浄(20樽)
報酬:50リル
備考:水仕事。衛生注意
■【食器の仕分け・拭き上げ】
依頼主:宿屋《三日月亭》
内容:使用済み食器の分類・清拭
報酬:55リル
備考:昼過ぎ~夕方作業。未経験歓迎
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※依頼票の持ち出しは一枚のみ。
※受託はカウンターにて手続きが必要です。
※依頼内容・時間帯にご注意ください。
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簡単だが骨の折れる雑用ばかり。
報酬も安く、決して割に合うとは言いがたい額が並んでいる。
「……なんか、何でも屋さんみたいだね。これって、報酬50リルっていうのがもらえるお金?」
「うん、そうだよ。ここは街の周りが比較的平和だから、高難度の依頼はほとんど来ないんだ。Gランクは、冒険者というよりは、ほぼ一般の人と同じ扱い。内容も簡単な分、報酬もそれなりなんだ。魔法とか使う依頼だと、値も上がるんだけど、多分取られちゃってるかな…」
「へぇ……。50リルって、安いんだね」
シリルの素朴な疑問に、シエルは少し考えてから、言葉を選ぶように続ける。
「あ、そっか。お金も、まだちゃんと使ったことないんだよね。そうだなぁ……今日の朝ごはん、アルマの分も合わせてちょうど50リルくらいかな。ギルドの食堂は安いから、ほんとは30リルくらいなんだけどね」
「そっか。じゃあこの荷運びの仕事をやれば、一日分のごはんが食べられるってことなんだね」
「うん。計算早いね、シリル。そうだよ。ただ、それだけじゃ住む場所とか他の生活費まではまかなえないから、たくさん受けなきゃならないのが現実だけど」
「……大変なんだね」
その言葉に、シエルはどこか遠くを見るような目で、静かに頷いた。
ちょうどそのとき、受付奥の扉が音を立てて開き、一人の職員が近づいてくる。
「おはようございます。シエルさん、シリルさん。何かお困りですか?」
柔らかな声とともに、近づいてきたのはレナだった。
栗色の髪を揺らしながら、穏やかな微笑みを浮かべている。
シエルは軽く会釈を返す。
「レナさん。おはようございます。シリルが依頼を見ていて」
その隣で、シリルも見よう見まねでお辞儀をする。
「おはよう」
「今日はもう、あまりいいのがないでしょう?」
レナは苦笑しながら、肩をすくめた。
「今、近くの恵菜の林を含む、森林や山岳地帯の依頼は受付で止めているんです。なので、街中やその周辺の軽い依頼ばかりになってしまって。Fランク以上の方々もそれを知って遠征に出ていて、人も少ないんですよ」
「ああ、ハドリーさんから昨日聞きました。どおりで、人が少ないと思いました」
アルマとシリルは並んで、掲示板を見つめていた。
その背中を横目に見ながら、シエルが再びレナに話しかける。
「彼に見合うというか、そういう仕事がないかなと思ったのですが……今日は厳しそうですね」
「シリルさんに合うもの……。少々お待ちください」
レナはそう言うと、受付奥へと姿を消した。
その間に、シエルとシリルは近くにいた冒険者たちに軽く声をかけられ、他愛もない会話で笑顔を交わしていた。
ほどなくしてレナが戻ってくる。
その後ろには、金髪で朗らかな雰囲気をまとった青年――マーカスが続いていた。
「おはようございます、みなさん」
穏やかな声に、シリルもシエルも、そして周囲の冒険者たちも一斉に頭を下げる。
「シリルさんに合う依頼を探しているんですよね?今、レナさんから相談を受けました。一度、裏に来てもらえますか?」
マーカスの案内で、三人は受付の奥へと向かう。
事務所へ入ろうとしたそのときだった。
狭い通路の前で、アルマが立ち止まる。
その大きな身体では、棚や扉にぶつかるのは目に見えていた。
『……狭いな。ここは無理だな』
そう呟いた次の瞬間――アルマの姿がふっと影に溶けるように消えた。
そのまま、シリルの足元へと滑るように潜り込んでいく。
「……影潜」
マーカスが低くそう呟いた。
ハドリーから「ただ者ではない」とは聞いていたが――それでも、目の前の現象には驚きを隠せなかった。
レナも小さく息を呑み、周囲にいた受付職員や通りかかった冒険者たちも、思わず目を見開く。
その異質さと威圧感は、声なき存在の証明だった。
そのまま、三人は事務所の中を通り抜けていく。
帳簿や書類が山積みされた事務机が並び、職員たちが静かに業務をこなす空間を抜けると、奥に設けられた一室に案内された。
そこは応接を兼ねた小部屋で、整理された書棚と丸い木製のテーブル、それを囲む椅子がいくつか置かれている。
壁には冒険者ランクに関する掲示や、過去の依頼記録を示す書簡なども並んでいた。
「こちらへどうぞ。今朝、ちょうど届いたばかりの依頼でして――」
レナが机の上に一枚の紙を置く。
それは、他の依頼書と違い、ランクの記載が空白のままだった。
「FかEかで相談していたところでして。シエルさんの実力は把握していますし、シリルさんについても、ハドリーさんから簡単にですが伺っています。特に問題はないと思います。こちら、いかがでしょう?」
シエルが身を乗り出して依頼書を覗き込む。
シリルも隣から顔を覗かせる。
依頼内容の中央に、大きく書かれた魔獣の名があった。
【討伐依頼(ランク未定)】
■魔獣名:獰牙猪
■内容:街西部の農場地帯にて目撃多数。畑や柵への被害が拡大中。
■備考:地元農民による応急対処では制御できず、既に数名の軽傷者が発生。討伐を強く希望。
■報酬:※調整中(想定 500~1000リル)
■依頼主:クアガット農業組合
「これって……なんて読むの?」
シリルが、魔獣名の部分を指さして首をかしげる。
シエルが優しく微笑んで答える。
「それは、《獰牙猪――ドゥルハーン》だよ。
今回の討伐対象になる魔獣の名前」
「獰牙猪……って、なんか聞いたことある……」
眉を寄せて考え込むシリル。
『獰牙猪は、俺らが縄張りにしてた森のもっと外側にいたぞ。まだシリルが弱っちい頃に戦ってる』
アルマの念話が脳裏に響いた瞬間、シリルの顔にぱっと明るさが戻る。
「ああ! あいつか!」
突然の大声に、周囲がぴくりと肩を跳ねさせる。
「シリル、何か思い出したの?」
シエルが尋ねる。
「うん。昔、よく戦った魔獣だったんだ。まだその頃は弱かったから、すごく苦労したなーって思い出してさ」
「そうなんだ。シリルでも苦戦したってことは、だいぶ前なの?」
「うん、そうだねー……まだアルマたちと出会ったばかりの頃だから……7歳? とかかな」
「「「7歳!?」」」
その場の空気が一気に凍りつくように静まり返る。
シエルを含め、マーカスもレナも、目をまんまるに見開いた。
詳しいことを聞きたい気持ちはあったが、ハドリーから「彼について深く詮索しないように」と伝えられていた二人は、ぐっと口を閉ざす。
「7歳で、倒したの……?」
シエルがぽつりと呟く。
「うん。アルマたちに協力してもらって、なんとか倒したよ」
『最初のうちは、ほとんど吹っ飛ばされてケガばっかだったけどな』
念話でそう言われたシリルは、少し恥ずかしそうに頬をかいた。
その照れたような仕草を見て、シエルは小さく笑い、レナとマーカスも彼の肩の力が抜けた様子に安心したようだった。
「……この依頼、引き受けようか」
シエルがそう言って、シリルの方を見た。
「獰牙猪は、私も手こずったけど倒したことがあるから大丈夫。それに、農場に被害が出てるなら、早めに動かないとね」
それを聞いたシリルは、ふっと懐かしむように目を細め、口元にわずかな笑みを浮かべる。
「ほんとあほみたいに突っ込んでくるからなぁ……」
そう言ったシリルに、アルマもふんっと鼻を鳴らした。
『まあ……今のシリルにとっちゃ、あんなのはただの“朝メシ”だろ』
『そうだね。あれくらいなら、もう走ってくる前に終わるかな』
シリルは混乱させないよう念話で、応答した。
その一言に込められた自信は、誇張でも虚勢でもない。
「それに、まだ依頼書にもなってないってことは……この依頼、他の人が受ける予定もないんですよね?」
シエルが確認すると、マーカスが頷く。
「ええ。現場の農民の方が、今朝早くに直接ギルドまで駆け込んできまして」
マーカスは依頼書を軽く叩きながら、説明を続ける。
「ただ、その場で即決できる内容ではなくて……。被害も広がっているようですが、農民が個人で払うには安くない金額です。そのため、現在こちらで農業組合と連絡を取りつつ、報酬や条件を調整しているところです」
シエルは真剣な表情で説明を聞く。
「農民の方ひとりで簡単に払える額ではありませんし、そのうえ何頭いるかも不明で、危険度の判断も難しい。そのため、ランクも報酬額もまだ正式には決められていません。急な事態だったので、今は農民の方には受付で待っていただいていて、こちらで農業組合と連絡を取りながら、条件を調整しているところです」
彼の声には、焦りを抑えた真剣さが滲んでいた。
マーカスの説明を聞き終えたシエルは、ほんのわずかに眉をひそめたあと、真っすぐに顔を上げた。
「……その状況なら、私たちが行ったほうがいいですね。場所もだいたい把握していますし、まずは確認してきます。状況次第で、そのまま討伐も行います」
その言葉に、シリルがきょとんとした顔を向ける。
「すぐに行くの?」
シエルはやさしく笑って答える。
「うん。装備は揃ってるし、問題ないよ。シリルも一緒に来てくれるよね?」
「うん、もちろん!」
シエルはやさしく笑って頷いた。
「ただ、正式な書類や報告はあとで大丈夫です。マーカスさん、現場の細かい地図だけもらえますか?」
「……わかりました」
マーカスは少し驚いた表情を浮かべながらも、すぐに頷いた。
「報酬額の件は、こちらで組合と話を詰めておきます。討伐完了後に、実績と被害状況に応じて調整する形で問題ありませんか?」
「ええ。そちらにお任せします」
そのやりとりを見ていたシリルが、ふと疑問を口にした。
「えっと……お金って、あとから貰えるんだよね?全部?」
「うん、いい質問だね」
シエルが手を止めて、説明を始める。
「ギルドの依頼って、基本的には《依頼人が先にギルドにお金を払っておく》って仕組みなの。今回はちょっと異例だけどね。報酬はギルドが預かって、手数料を引いた分を、依頼完了後に冒険者に渡すんだ」
「へえ……。なんでそんなふうになってるの?」
シエルの代わりに、マーカスが言葉を引き継ぐ。
「理由は二つあります。一つは、冒険者がちゃんと報酬を受け取れるようにするため。……依頼が終わってから“やっぱり払えません”なんて言われたら困るでしょう?」
「うん、それは確かに……」
「もう一つは、ギルドが依頼の中継役として責任を持つためです。記録を残して、評価やランクにも反映できるようにする。信頼を守るための制度なんです」
「なるほど……ギルドって、すごいんだね」
シリルは感心したように何度も頷いた。
「ちなみに手数料は、ランクや依頼の内容によって違うよ。だいたい一割か一割五分くらいかな。まあ、今度また、他のことも詳しく教えるね」
シエルの説明を聞き、シリルは納得したように微笑み頷く。
「それより、急いだほうがいいからね。行こうか!」
シエルは言いながら立つ。
シリルもそれに応じ立ち上がる。
「よーし、じゃあ行こう!」
『ふむ、街を通るならまだ隠れておくか』
アルマが念話でぽそっと呟く。
当然、シリル以外には聞こえていないが、シリルは少しだけ気合の入った顔を見せる。
「レナさん、マーカスさん。行きますね。報告は、討伐後に改めて」
「了解しました」
すると一瞬席を離れていたレナが紙を持ってきた。
「現場周辺の詳細な地図はこちらになります。……お気をつけて」
そうして、二人と一匹はギルドを後にし、街の西部――農場地帯へと向かうために歩き出した。




