第十六話:安らぎの間
重厚な扉をくぐり抜け、ギルドの中へと足を踏み入れる。
そこは、森の中で暮らしてきたシリルにとって、想像以上に大きく広い空間だった。
天井は高く、梁には彫刻が施されている。
入り口付近には複数の掲示板が並び、依頼書らしき紙が何枚も貼られていた。
奥には受付カウンターがあり、その背後には書類棚と、簡易的な仕切りの奥へと続く扉がいくつも並んでいる。
足元はよく踏みならされた石の床。
多くの冒険者たちがここを歩き、声を上げ、笑い、時には争ってきた、そんな熱の名残が空気に漂っていた。
――けれど、今は誰もいない。
あまりに静まり返っていて、まるで時間が止まってしまったかのようだ。
(これが……街の、冒険者のギルド……)
シリルは無意識に呼吸を整えながら、きょろきょろと辺りを見回した。
ふと視線を向けたシエルは、ここが自分の「帰る場所」であるはずなのに、どこかぎこちない足取りだった。
そんな彼らに、ハドリーが静かに言葉を添える。
「……シエルさんが戻ったと聞けば、みんな押しかけてきたはずです。心配してた人も多いですから。……でも、それは避けたかった」
その理由は、シエルの顔を見れば明らかだった。
気丈に見せようとしていても、全身から疲労と混乱がにじみ出ている。
加えて、仮面をつけた謎の少年――そんな異質な存在に対し、好奇心や警戒心を抱かれれば、それだけで彼らに重荷が増える。
「ですので、先にお話ししました。シエルさんは無事です。今は、静かに休ませてあげてください…と」
そう言って、ハドリーは一同を奥へと案内する。
カウンター脇の通路を抜け、階段を一つ上がった先──そこにある扉の一枚。
その扉の先にあったのは、簡素ながら広い一室だった。
使い込まれたベッドが六台ほど等間隔に並び、壁際には毛布や水差しが置かれている。
明かりは控えめで、窓には厚手のカーテンがかけられていた。
「この部屋は普段は使われていません、いわば“緊急待機室”のようなものです。
災害、急病、身元不明の保護者、あるいは……ギルドが保護対象と判断した者を一時的に匿うための部屋ですね。滅多に使われませんが、こういうときのためにあります」
シリルとシエルは、室内を見渡しながら中へと入った。
「ここには職員以外は立ち入りできません。……ですから、安心してください。少なくとも今夜だけは、誰にも邪魔されません」
彼の声音はいつになく穏やかで、少しだけ疲れも混じっていた。
「……休める時に、休んでください。身体だけでなく、心も、少しだけでも」
それだけ言うと、ハドリーは一礼し、静かに扉を閉めた。
部屋に残された空気はあたたかく、それでいてどこか重たい静寂が広がっていた。
二人は用意された寝台に体を預ける。
アルマがシリルの影からそっと現れ、その隣に寄り添うようにして眠りにつく。
交わされた言葉はわずか――短い会話のあと、室内には静けさが満ちた。
聞こえるのは、微かに重なる呼吸の音だけ。
「……本当に、ありがとうございました」
シエルがぽつりと呟いた。
「今ここにいるのが信じられないくらい……。いえ、むしろ、今日あったこと全部が、まだ夢みたいで……」
それを聞いたシリルは、少しだけ視線を彼女に向けると、小さく笑って言った。
「ん。お礼はいいよ。……大事な仲間だったんでしょ。なら感謝して、しっかり生きないと」
何気ない一言のようだった。
だがその奥に、シリル自身の過去――誰かに守られ、生かされた自分の姿が一瞬よぎった。
その経験があるからこそ、彼は今、そう口にできるのだった。
「……」
シエルは目を丸くして、シリルを見つめた。
(さっきまで幼さの残る雰囲気だったのに……)
不思議な違和感に戸惑いながらも、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……はい。おやすみなさい」
そう言って、彼女はそっと目を閉じた。
シリルも無言で仮面を外し、枕元に置く。
「……おやすみ」
その声は、どこか優しく、そして静かだった。
気づけば、窓の向こうに朝の色が滲んでいた。。
昨夜の静けさが嘘のように、窓の外からは遠くの通りの賑わいが聞こえてくる。
シエルがゆっくりと身を起こすと、視界に信じがたい光景が飛び込んできた。
部屋の中央――銀色の狼の横で、逆立ちの体勢で、しかも片手、それも手のひらではなく指先だけで身体を支え、黙々と腕立てをしている少年だった。
(え……?)
一瞬、見間違いかと思った。
だが顔立ちには見覚えがある。
それでも、昨夜見た少年とはあまりに雰囲気が違っていた。
白銀に近い、柔らかく光を帯びた髪。
そして、左右で色の違う瞳――蒼と緑が、静かにこちらを見ている。
「……あ、おはよう」
少年が逆立ちを解き、さらりと声をかける。
「お……はよう……」
シエルも返すが、言葉に実感がこもらない。
目の前の姿に、頭が追いついていなかった。
(昨日と……髪も、目の色も……違う……。でも、声は――)
彼がシリルだと確信はある。
ただ、目の前のその姿に戸惑いが勝っていた。
「それ、毎朝やっているの……?」
とりあえず、髪や瞳のことは聞けず、別のことを尋ねてみる。
シリルは首をすくめて、軽く笑った。
「ううん。いつもは…ボスと手合わせをしたり、魔法や戦闘の訓練したりしてる。……でも今日は、外に出ない方がいいって言われたから、仕方なく」
「外……?」
「アルマにね、止められた。朝、外に出ようとしたら、“目立つからやめた方がいい”ってさ。たぶん見つかると面倒なんだって」
ああ、とシエルは心の中で頷く。
確かに、彼の姿はあまりにも目を引く。
目立たない方がいい理由は、よくわかる気がした。
ただ、少しだけ引っかかりはあった。
“ボスと手合わせ”という表現と、“アルマがそう言った”という淡々とした言い方。
けれど――昨日から見てきた彼らを思い返すと、不思議と納得できてしまう自分がいた。
言葉の異質さよりも、彼の言葉に宿る確かさのほうが、胸に響いた。
さきほどのやり取りや、シリルの姿に気を取られつつ、それでも、再び昨日の出来事が思い返される。
仲間を失い、そして命を拾った夜。
それは確かにあった出来事なのに、今のこの穏やかな空気が、それすら遠く感じさせる。
そんな中、ふと、誰かが近づいてくる気配がした。
シリルとアルマは同時に視線を扉の方に向ける。
『シリル、仮面を』
声をかけるより早く、シリルは仮面を手に取り、素早く顔へと装着した。
アルマは、シリルの影へと飛び込み隠れる
ノックとともに、ギルドの女性スタッフが姿を見せる。
扉が開かれ、今日という一日が、静かに始まった。




