第十三話:森より出でて、街を目指す
「……とにかく、シエルだけでも無事で、本当によかった」
そう言ったのはハドリーだった。
少し疲れた顔をしていたが、その目は温かかった。
隣でうなずいたグラントもまた、安堵の色を浮かべていた。
「改めて礼を言うよ。仲間を助けてくれたこと、感謝してもしきれない」
グラントが、シリルに向き直り改めて深々とお礼をする。
突然のことに戸惑いながらも、シリルは小さくうなずいた。
「このまま森に留まっていてもしょうがない。ひとまず、街へ戻るぞ」
グラントが顔を上げ、提案する。
「……今日のことを思うと、外で眠るのは、さすがに気が休まらないでしょう」
ハドリーが優しい声でシエルに言う。
そして、ウィスがシリル達の方を向き
「あなたたちも是非、街に来てください。夜も遅いので、ギルドで寝床は用意しておきます。シエルの分も用意しておきますよ。家で一人はつらいでしょうから。」
「……ありがとうございます」
シエルがまずそれに深々と頭を下げる。
シリルは、アルマと顔を見合わせ、静かにうなずいた。
「街に行こうと思ってたから、いいよ。ありがとう」
「いいえ。むしろ……」
ウィスは目を細めて言った。
「こちらこそ、あなたたちに改めてお礼がしたいのと、それと、あの魔獣のことも、是非お聞かせ願いたいので、よろしくお願いします。」
それに応えるように、再びシリルは頷く。
さていよいよ行くかと、グラントが気合を入れて立った時、ふとハドリーが再びシリルに問いかける。
「そういえば――シリルさん、《個認札》または《冒印札》はお持ちですか?」
「……何それ?」
「えっ、知らないのか!?」
グラントが目を丸くした。
《個認札――レジスタグ》――世界共通で発行される、個人を証明するための共通識別札。
基本的には出生時に必ず発行され、その情報は国の魔導記録庫に刻まれ、魔術的に保管される。
特にこの国『アルセディア王国』では、すべての国民がこの札を所持しており、身分証明の基本とされている。
札そのものは、特殊な魔術が刻まれた紙製で、硬質加工によって簡単には壊れない。
関所や役所などに設置された魔術水晶にかざすことで、名前・顔・生年月日・出生地・現在の居住地・職業などの個人情報が確認できる仕組みになっている。
なお、個認札は更新は5年ごとに義務付けられており、更新費用として100リルがかかる。
費用は各地の役所にて納付し、更新時に顔写真や居住地、職業情報などが再登録される。
《冒印札――アドベント・カード》――冒険者にのみ発行される、世界共通の職業証明札。
冒険者登録時に必ず発行され、冒険者としての資格と身分を証明するために必要となる。
この札の提示によって、多くの関所での入城料・通行料・関税・武具税・携行許可料などが免除される。
また、人頭税も原則として免除されるが、住居を購入した場合や、一定期間以上その領に滞在した場合(領主の判断による)には課税されることもある。
これは、冒険者ギルドが各国・各領と「一括納税契約」を結んでいるためである。
各ギルド支部は、冒険者の人数・ランク・活動量などに応じて、年間または月間の“ギルド納付金”を領主に一括で支払っている。
アドベント・カードは、ギルド独自の魔術的通信網――魔導情報網と接続されており、ギルド本部や各支部で冒険者のランクや活動履歴、依頼の記録などがリアルタイムで管理されている。
この情報の一部は、協定のもとで各国の魔導記録庫に一時的に提供されることもある。ただし、情報の主な管理・運用権はギルドにあるため、国家権限による閲覧・変更は制限されている。
なお、同様の仕組みは商人ギルドや職人ギルドにも存在しており、各職業ギルドから発行される職業札は、その地位と免税特権を証明するものとなっている。
冒印札はまだしも、個認札はたとえ孤児であっても、村や町で魔導記録庫に正式登録されていれば、必ず発行されるものだ。
だからこそ、シリルのような年齢で「知らない」と言うのは、極めて異例だった。
「失くすことはあっても、知らないって……本当にどこで育ったんだ……」
グラントが困惑気味に呟く。
そして、そのままシリルに説明を続ける。
「ともかく、持っていないと関所は通れないし、街にも入れないことになっている。もし札なしで入るなら、軽犯罪で一度拘束される可能性すらある」
「……犯罪?」
「そう。罰金は300リル。さらに《仮個認札》の発行手数料が200リル。最大で500リルかかる」
シリルはどうにも腑に落ちない表情を浮かべていた。
金銭の話に実感がないのは当然だった。
そもそも彼は――貨幣の流通する世界で育っていないのだ。
日常に金が絡むような環境ではなかった。
物の価値も、金の重さも、まだほとんど理解できていない。
『そういえば、昔、門のところで何かもめていたな》
隣にいたアルマが、ふと呟いた。
シリルは反射的にその方を向いて、つい声に出してしまう。
「ああ、前言ってた旅してた時?」
『おい。声が出てるぞ』
『……まあ、いっか』
唐突なやり取りに、場の空気が一瞬止まった。
ハドリーもグラントも、そしてシエルも、ぽかんとした表情でシリルを見つめる。
「……誰と話しているんだ?」
グラントが眉をひそめ、じりと詰め寄る。
「ああ……いまのは、えっと――独り言?」
「ずいぶんと受け答えのしっかりした独り言だったな」
呆れたように言いつつ、グラントはわずかに口元を緩めた。
シリルは曖昧な笑みでごまかそうとしたが、その反応を見て、ハドリーとグラントはすぐに察する。
――今のやり取りは、誰かと“会話”していたものだ。
精霊を通して意思疎通することに慣れたハドリーにとって、それは直感的な確信だった。
グラントもまた、ハドリーの長年の相棒として、すでに同じ気配を感じ取っていた。
けれど、それ以上を問い詰めることはなかった。
ハドリーが自然な口調で話を戻す。
「……まあ、それはさておき。とりあえず街に向かいましょう」
穏やかな笑みを浮かべながら、落ち着いた声で続ける。
「今回は私たちが口添えしますし、その他の手続きもギルド経由で進めれば問題ないはずです。まずは、一緒に街まで行きましょう」
「……そう? ありがとう」
「いいえ。君が助けてくれた命がある以上、私たちも出来る限りのことはさせてもらいます」
そう言って、ウィスは微笑んだ。
柔らかく、それでいて芯のある優しさを帯びて。
だがその隣で、グラントはわずかに眉を寄せていた。
確かに、シエルの命の恩人ではある。
けれど、形式的に見ればこれは――密入国の手助けだ。
もしこれが明るみに出れば、ギルドだけでなく、城壁でのやり取りに関わった衛兵たちも処罰を受けかねない。
……なぜ、ここまでする?
そんな疑問が、胸の奥で小さく燻る。
だがそれは、あくまで“胸の内”のこと。
彼はそれを決して口には出さなかった。
なぜなら――グラントは、ハドリーを信じているからだ。
その判断には、必ず意味がある。
そう信じられるだけの時間と信頼が、二人の間にはあった。
気持ちを切り替えるように、グラントが声を張った。
「――よし! 行くぞ! のんびりしてたら朝になっちまうぞ。とりあえず、シエル、お前は背中に乗れ!」
「えっ!? いや、いいです! 歩けますから!」
慌てて拒むシエルだったが、グラントは容赦なく言葉をかぶせる。
「バカ言え。そんな満身創痍で何が歩けるだ。のんびり歩いてたら、マジで日が昇っちまうぞ。急ぐためだ、いいから乗れ!」
「え、あ、はいっ……!」
勢いに押され、シエルは渋々ながらもグラントの背中に身を預ける。
その背には、大剣のような巨大な武器が斜めに背負われていたが、グラントはそれを腰へとずらすと、シエルをまるで椅子に座らせるように固定する。
まるで慣れた動作だ。
「シリルは……銀狼もいるし、大丈夫か?」
ちらりと後ろを振り返って、シリルとアルマを一瞥する。
「まあ、俺は全速力で行くから――遅れんなよ?」
挑発じみたその言葉に、シリルが眉をひそめた。
「はあ!?あんたが遅すぎて追い抜かれないように急いでよ!こっちは道知らないんだから!」
ぴしゃりと返すその言葉に、グラントがにやりと笑う。
そして次の瞬間、シエルを背負ったまま――グラントは風を切って駆け出した。
地面を蹴る足が土を跳ね上げ、瞬く間に暗がりへと姿を消す。
その後を追って、シリルとアルマも動き出す。
『乗らないのか?』
肩口に現れたアルマが、ちらりと問う。
『悔しいから、全力で追い抜く!あいつにだけは負けたくない!』
言うが早いか、シリルは加速した。
足元に魔力をわずかに流し、まるで地面を滑るような速度で駆ける。
空ではウィスが、小さくため息をついたように翼をふわりと傾ける。
(やれやれ……)
表情を浮かべたかと思えば、すぐにいつもの精霊の顔へと戻り――次の瞬間、白銀の翼を広げて、一直線に街へと飛び去っていった。




