第十話:焚火の向こうに
シリルとアルマは、魔獣の死体を前にしていた。
『ちなみにこれって食えるの?』
『ああ……何か問題があるか?』
『いや、見た目』
『関係ない』
『……そうか』
会話は淡々と進み、シリルは倒れた元動物――邪牙狼の尻尾をひょいとつかむと、まるで大したことではないように、近くの木の枝へと吊るした。
その様子を横目に、銀狼のアルマがずいと割り込み、ためらいもなく魔獣の腹へと牙を突き立てる。
ぷちりと皮が裂け、血と肉の生々しい匂いが一気に周囲へと広がった。
その光景に、後ろにいたシエルの身体がぴくりと強張る――
異形の魔獣が殺された後、仮面をつけた少年が平然と死骸を木に吊るし、次の瞬間には隣にいた銀色の魔獣が腹を喰らい始めた。
何が起きているのか、理解が追いつかない。
――だが、彼らは至って自然に振る舞っていた。
言葉を交わすそぶりすらないのに、まるで意思疎通が取れているかのように動く二人。
突如、短く声を上げたのは仮面の少年だった。
「うわ、あー! 血抜きしてからにしてって言ってんのに……」
静寂を破るその声に、シエルの肩がまたぴくりと震える。
それまでずっと無音だった空気の中、少年の文句が妙に響いた。
彼の視線の先では、満足そうに生肉をむさぼる銀色の魔獣の姿がある。
当の魔獣は、少年の小言など意に介さず、口元を赤く染めながら腹を満たしていた。
少し離れた木陰で様子を見ていたシエルは、足を引くべきか迷っていた。
彼らは自分に対して興味を示していない。
今なら、逃げられるかもしれない。
だが、先ほど耳にしたあの声――少年の、ごく普通の少年のような反応が、シエルの胸に引っかかっていた。
「……助けてくれたんだ。お礼ぐらいは……」
自分でも驚くほど小さな声で呟く。
そして決心したように、恐る恐る、一歩、また一歩と彼らのもとへと近づいていった。
恐る恐る近づいてくる少女の姿に、シリルとアルマがちらりと視線を向けた。
『こっちくるね。アルマ、食べる?』
仮面の奥から、シリルが無言で問いかける。
『いらん。魔力も少ない。体も細い。まずそうだ。』
生肉を咀嚼しながら、アルマが即答する。
外から見れば、二人はただ沈黙を交わしているようにしか見えない。
――そのときだった。
「……あの、あ…ありがとうございます。助けていただいて……」
震える声。
途切れがちな言葉。
全身から、恐怖と緊張が滲み出ていた。
それでも、彼女は逃げずに言葉を紡いだ。
目の前のふたりが、ただの魔獣と少年ではないことを感じていたからだ。
しばしの沈黙ののち、仮面の少年がふいに口を開いた。
「――あげないよ」
「……え?」
思わず漏れたシエルの声が、静かな林に小さく響いた。
夜の林の中。
焚火の明かりだけが、三人をぼんやりと照らしていた。
シリルは火を起こし、木から削った棒に肉を刺して焼いている。
じゅう、と脂が落ちる音とともに、香ばしい煙が立ちのぼった。
その隣では、アルマが無造作に切り取った邪牙狼の肉塊に食らいついている。
生のまま、嬉しそうに。
向かい側には、あの少女――シエルが座っていた。
肩を小さく揺らし、緊張を隠しきれないまま。
しばらくの沈黙の後、彼女はおずおずと口を開いた。
「改めて……本当に、助けてくださってありがとうございました」
その声は小さいながらも、しっかりとした響きを持っていた。
アルマは気にする様子もなく、肉に夢中になっている。
シリルは視線を上げず、ぽつりと答えた。
「ん、別に。お腹すいてたから。気にしなくていいよ」
「おなか……? え? あ、はい。あ、いえ! でも、事実助けていただいたので!」
「そう」
淡々とした返事。
火のゆらめきが、三人の影を不規則に揺らした。
また沈黙。
やがて、シリルが不意に声を上げた。
「よし、焼けた!」
その声に、シエルの肩がまたぴくりと跳ねる。
――しばらくの間、少年と魔獣は黙々と肉を食べていた。
その静けさの中で、シエルは何度も言葉を飲み込んだ。
帰るべきか、留まるべきか。
ふと視線の先で、少年が仮面に手をかけるのが見えた。
装着していた仮面を頭の上にずらし、手元の肉を見つめながら一口、かじる。
――その顔に、シエルは目を見張った。
金色の髪が火の明かりにきらめき、さらりと頬にかかる。
長いまつ毛の奥、琥珀色の瞳が一瞬だけ炎を映した。
どこか人間離れした整い方をした顔立ち。
そして、年齢以上に幼く見える表情。
(……こんな顔、してたんだ)
思わず息を呑む。
自分よりも若いかもしれない――そう思っていたが、仮面を外した姿は、想像以上に幼く、そして不思議なほど綺麗だった。
そんな事を考えていると、少年が不意に問いかける。
「ねえ、街……帰らないの?」
――その一言に、胸が詰まった。
本当は帰りたかった。
けれど、身体が動かなかった。
怖くて、息をするだけでも精一杯だった。
普段なら日が暮れても問題ないはずの場所で、突然あんな魔獣が現れ、仲間を殺された。
その現実が、いまだに信じられなかった。
夢の中にいるみたいで――足に力が入らなかった。
何か言わなければ、と思った。
でも、喉の奥がつかえて、声が出ない。
それでもようやく、震える唇を開いて、搾り出すように言った。
「……朝までいて、いいですか」
少年と魔獣が、顔を見合わせた。
ほんの少しだけ、驚いたように。
「……いいよ」
肉を噛みしめるくぐもった音が、焚火の爆ぜる音に重なって耳に届く。
立ちのぼる煙は、香ばしい匂いをほんのりと夜気に溶かしていた。
自分だけが、こうして生き残っている――そのことが、胸に重くのしかかる。
この静けさが優しいほど、失ったものの大きさがはっきりしてくる気がした。
……もう、誰も戻ってこない。
遅れてきたその実感が、じわりと胸に沁みていく。
込み上げるものを、シエルはきつく唇を結んでこらえた。
泣き出せば、きっと止まらなくなってしまうと思った。
無言の時間が流れる。
火の音だけが、静かに夜を染めていた。
静寂の夜の中、シエルが口を開く。
「あの、そういえば――まだ名前、聞いてなかったですよね?」
焚火の向こうから、おずおずとした声が届いた。
シリルは、少し驚いたように目を瞬かせてから、ふっと笑う。
「あ、そうだね。僕はシリル。……で、こっちは相棒のアルマ」
『命の恩人でもあるけどな』
『それはボス。アルマは俺のこと食べようとしてたでしょ』
そんな会話が、シエルに聞こえないところで交わされる。
焚火の灯りの中、アルマ少し口角をあげながら尻尾をゆるく揺らし、骨をバリバリと噛み砕いていた。
「シリルさんと……アルマ…さん……」
シエルは一瞬視線を泳がせ、それでもしっかりと頭を下げる。
「改めて、ありがとうございます。私は、シエルです。Eランクの冒険者で……一応、剣士です」
「……冒険者? Eランクってなんだ?」
シリルの素朴な疑問に、シエルは「え?」と一瞬まばたきする。
しかしすぐに、自分たちの常識が通じない相手であることを悟ったのか、少し焦りながらも言葉をつなぐ。
「あ、えっと……冒険者っていうのは、ギルドに登録された依頼を受けて報酬をもらう職業のことです。Eランクはその中での……うーん、自分の強さというか、経験を表す目安です。Gから始まって、F、E、Dって上がっていって……私はその三段階目、みたいな感じです」
『……ああ、確かにそういうのは聞いたことがある』
隣で静かにしていたアルマが、意思の波を送ってくる。
それに対し、シリルは短く息を吐いた。
「ふーん。そんなのがあるのか」
特に否定も肯定もなく、ただ受け入れるような反応だった。
だがその一言に、なぜかシエルは少し肩の力を抜いた。
ようやく、"会話"が始まった気がした。
緊張をにじませつつも、彼女の顔には、わずかに安堵の色が混じっていた。
命を救われた相手と、こうして少しずつ言葉を交わせている――それだけで、ほんの少し、心が軽くなる気がした。
「……そういえば、なんだか名前、ちょっと似てますね。シリルさんと、シエルって」
ふと漏れた言葉に、シリルが焚火越しに目を瞬かせる。
「あ、確かに。一文字違いだ」
「……はい。それだけなんですけど」
自分でも何を言いたかったのか、うまく説明できない。
けれど、シエルはそのまま小さく笑った。
シリルも、それには答えず、にこりと少し笑った。
それだけのやり取りだったが、焚火のはぜる音がどこか柔らかくなったように思えた。
「よろしくね、シエル」
焼けた肉を平らげた後、シリルは立ち上がって周囲の木々を見渡した。
やがて一本の大きな木の幹に手をかけ、ひょいと枝に跳び乗る。
「僕たちは、上で寝るよ」
見上げると、すでにアルマも別の枝の上に器用に身体を丸めている。
銀色の尾がふわりと揺れた。
シエルは少し戸惑いながらも頷いた。
「……はい。私は、ここで休みます。地面のほうが落ち着くので」
シリルは何かを言いかけたが、それ以上は言わなかった。
ただ一度だけ、視線を下ろして優しく笑う。
「じゃあ、おやすみ」
「……おやすみなさい」
返事の代わりに、上の枝から小さく尾が振られた。
風が枝葉を揺らし、火の粉がふっと舞う。
シエルは火のそばに腰を下ろし、膝を抱えて夜空を見上げた。
星々は静かに瞬き、彼女の小さな吐息を受け止めているようだった。




