第八話:銀影、仮面の静寂
「逃げろ、シエルッ!!」
「でも、皆が――!」
「いいから! 走れ、行けっ……!」
あの時の声が、まだ耳に残っている。
――それが、ヴィクトの最後の言葉だった。
叫びながら、剣を構えて魔獣へ飛びかかっていった彼の背を、振り返ることすらできなかった。
振り返ったら、足が止まってしまう。
止まったら、死ぬ。
それでも、脳裏には焼きついている。
その場にいた全員の姿が。
仲間だった皆の顔が。
「な……なんだよ、あれ……ッ!」
ノランが叫んだ、その直後だった。
彼の振り上げた大斧が振り下ろされるよりも早く、黒い影が滑るように懐へ入り――喉元を裂いた。
返り血が弧を描き、巨躯が音もなく崩れ落ちる。
苦鳴すらあげる暇もなかった。
ルッカは叫びながら魔法を詠唱しようとして――間に合わなかった。
何かが空気を裂く音の直後、彼女の身体が吹き飛ばされ、木に叩きつけられた。
テオは……最後まで、剣を握っていた。
ルッカに駆け寄ろうとしたその背に、黒い魔獣が襲いかかり、肩から胴までを抉られた。
血の匂いが、濃く、重く、空気に混ざる。
信じられなかった。
あんな魔獣、見たことがない。
犬のような脚と、猫科のしなやかな体躯を併せ持ち、それでいて、どこか爬虫類めいた異質さを孕んでいた。
夜闇に溶け込むような漆黒の体毛に、青白く浮かぶ筋のような模様が走っていて――
それがまるで脈動しているようだった。
牙は長く、裂けた口元から覗くたび、全身が竦んだ。
目は濁った白。
感情の色はない。
ただ、殺すためだけに動く本能の塊。
知らない魔獣だ。
前に見た魔獣の図鑑にも、討伐報告にも載っていなかった。
あれは、なんなんだ……。
(なんで、こんな――)
足を動かす。
息が苦しい。
喉が焼けるほどに走って、逃げて、それでも後ろから迫ってくる気配が消えない。
叫び声が、耳に残る。
ヴィクトの声。
ヴィクトの、優しくて、頼りがいがあって、皆をまとめてくれた――
彼の姿が、今も脳裏に焼きついて離れない。
「逃げろ」と言った。
でも、どうして。
どうして私だけ、生きているの……?
涙が滲んだ視界の先で、枝を払って進む。
あたりは薄暗い林。
木々の間を縫うように、ただ走る。
喉に鉄の味が広がる。
生きなきゃ。
皆の分まで――。
それでも、追ってくる。
あの魔獣が。
仲間の悲鳴も、血の匂いも、振り返らなくてもわかる。
皆、もう……。
「いや……っ」
足がもつれそうになる。
けれど、止まれない。
止まったら、死ぬ。
それでも――
「――あ」
目の前に、黒い影が跳ねた。
ヤツだ。
先回りされた。
地を蹴った魔獣の一撃が、風を裂いて迫る。
咄嗟に身を捻る。
腕に焼けるような痛み。
避けきれなかった。
身体が転がる。
倒れた衝撃で、手から剣がこぼれ落ちた。
視界の隅に転がったそれが映る。
痛む身体を引きずり、必死に手を伸ばす。
指先が、柄にかすかに触れた。
(届いて……!)
力を振り絞って引き寄せる。
魔獣が、喉を狙って飛びかかってくる。
(いやだ、まだ終われない……! 皆が命を懸けて――)
(私だけ、生き延びて……!)
剣を握りしめ、咄嗟に振り上げた――
しかし、軌道がずれた。
刃は魔獣の頬をかすめただけで、止めきれない。
(ダメ……足りない……!)
絶望が、牙を剥いて迫る。
その瞬間――
ごぅっ、と重い風音が響いた。
魔獣の身体が、横薙ぎに吹き飛ぶ。
地面に転がり、木の幹に激突して土煙を巻き上げた。
「……な……に……?」
目を見開く。
そこにいたのは、銀色の獣。
大きな狼――いや、それ以上。
凍てつく気配を纏い、ただそこにいるだけで空気が張りつめる。
恐ろしいほど美しく、そして――圧倒的だった。
その瞬間、宙に、何かが舞っていた。
木々の間をすり抜け、月明かりを遮るように――
小さな、黒い影。
魔獣が呻きながら身を起こそうとした刹那。
銀狼に吹き飛ばされた位置を見計らっていたかのように――
それは音もなく、地面へと落ちてきた。
空から真っ直ぐ、迷いのない軌道で――。
「――っ!」
次の瞬間。
影はすっと手を振り下ろした。
まるで、水のように澄んだ動きだった。
シュン――風を裂く鋭い音。
魔獣の首が、抵抗もなく切断される。
その太い首が転がり落ち、重々しい音を立てて草を濡らした。
……何が起きたのか。理解が追いつかない。
風が止む。
沈黙が訪れる。
少女――シエルは、呼吸を忘れていた。
震える指が、土を必死に掴む。
助かった……?
震える視線で、シエルは見た。
視線の先、魔獣の亡骸の傍に、小柄な影が静かに立っていた。
白い仮面をつけている。
月明かりの下、仄かに淡金の紋が揺れていた。
風に揺れる金色の髪の奥から、琥珀色のような瞳が一瞬だけのぞいた。
その眼差しが、こちらを――見た。
ぞくり、と背筋を何かが這い上がる。
その視線に、怒りも慈悲も、何ひとつ宿っていなかった。
ただ、見る。
それだけ。
まるで感情を持たぬ異質な何かに、意識を掠め取られたようだった。
すぐにその視線は逸れ、彼――仮面の者は、別の何かを見つめた。
その視線の先から、音もなくもう一つの影が歩み寄る。
銀の毛並み。
しなやかな肢体。
狼――けれど、それ以上の存在。
静かで、恐ろしく、そして、美しい。
彼はただ歩く。
何事もなかったかのように。
冷ややかな空気を纏って。
その銀の影が、自分のすぐ傍を通り過ぎる。
息を呑んだ。
肩がすくむ。
目が逸らせない。
一瞬だけ、視線が交錯した――そう感じた。
けれど、それはただの錯覚だったのかもしれない。
見られた。
けれど、そこに意味はなかった。
まるで、枯れ枝か石ころを見るような無関心。
敵意も、興味すらもなかった。
銀の影はそのまま仮面の者のもとへ向かい、何も言わずに立ち止まった。
まるで最初から、そこに戻ることが決まっていたかのように、自然に。
ふたりは何も語らず、何も示さなかった。
ただ、そこに在る。
そうして、何かを終えた者たちの静けさだけが残る。
その姿は、現実に存在するはずのない幻のようで――
それでも確かに、今この命を救った何かだった。
けれど、シエルは知っていた。
あのふたりの眼に、自分は映ってなどいない。
彼らにとって自分は、「ここにいた何か」に過ぎない。
……助けられたのではない。
ただ、通りすがっただけ――それだけだったのだ。




