~序章~
ガタン、ガタン――。
日はとうに傾き、森を照らす夕陽の角度も変わってきた。
軋む車輪の音が、どこまでも耳に響く。
重く湿った空気と、獣のような臭いが籠もった荷馬車の中。
柵のはめられた木の壁に囲まれて、少年は小さく身を縮めていた。
年の頃は十、いや、それよりかなり幼く見える。
痩せた体を粗末なローブが包んでいる。
袖口はほつれ、足元は泥にまみれていた。
手首には鉄の枷。
鎖がぎしりと鳴るたび、少年は表情ひとつ動かさずに目を伏せた。
だが、その瞳の奥には――静かな怒りが燃えていた。
荷台には、彼のほかにも数人が押し込まれていた。
痩せ細った老女、顔に痣を持つ若者、ぐったりとうずくまる少女。
誰もが口を閉ざし、諦めきった目をしていた。
が、少年だけは違った。
耳をすませば、外から男たちの声が聞こえる。
「……なあ、おい。やっぱりこの森、気味悪くねぇか? 獣の気配がやけに濃い」
短髪の男が御者台で手綱を引きながら、周囲を警戒するように呟いた。
「こんな場所で野宿とか、まっぴらごめんだぜ……」
小声ながらも、どこか苛立ちと恐怖の滲む声音。
隣で松明を持っていたハゲ頭の男が、舌打ちを一つ。
「黙って引け。今夜中に抜けりゃ、それで仕事は終わりだ。報酬もたんまり出る」
「……だったら、余計にここで死にたくねぇって話さ」
どちらも腰に武器を下げ、警戒を怠ってはいない。
――そのときだった。
風が止んだ。
鳥も、虫も、木の葉さえ、静寂に息をひそめる。
「……?」
男たちが辺りを見回す。次の瞬間――
「グルルル……ッ!」
森の暗がりから、低く唸る声がいくつも響いた。
次の瞬間、左右の茂みが弾け飛ぶように割れ、数頭の狼が飛び出してきた。
一頭が馬の脚に噛みつき、馬が悲鳴を上げて崩れる。
もう一頭が御者台の男に跳びかかり、その喉に爪を突き立てた。
「ぎゃああああッ!!」
血飛沫が舞い、馬車が横転する。
檻が外れ、鎖が引きちぎれ、少年が転がり落ちた。
泥にまみれた地面に叩きつけられ、肺の中の空気が一気に押し出される。
咳き込みながら、少年は必死に立ち上がった。
鎖が手首から垂れ、錆びた音を立てる。
その耳に、地獄のような悲鳴が響いた。
荷馬車の御者台――
短髪の男が腰の剣を抜く暇もなく、狼に喉笛を噛みちぎられていた。
血飛沫が木々に散り、馬が狂ったように嘶く。
もう一人のハゲ頭の男が、松明を振り回しながら叫ぶ。
「化け物どもがァ! く、来るなッ!」
だがその声は、背後から跳びかかった影によってかき消される。
狼の爪が背筋を裂き、男は地に沈んだ。
車輪が泥に取られ、荷馬車が傾く。
その衝撃で檻の扉が開き、奴隷たちが転がり落ちる。
「いやだ、助けてッ!」
「やめろ、来るなああっ!」
悲鳴と泣き声と、肉が裂ける音。
それは、逃げ場のない地獄だった。
肩で息をしながら、倒れた荷馬車を背にし、牙を剥いた狼たちと対峙する。
獣たちの目には、少年などひと噛みで砕ける肉に過ぎなかった。
だが、なぜか誰も、すぐには飛びかからない。
シリルの視線が、狼たちのひとりひとりに刺さっていた。
体は小さく、傷だらけで、震えてもいた。
けれど――その瞳だけは、燃えていた。
「……来いよ」
少年が口を開いた。
掠れた声。
だが、はっきりとした意志がそこにあった。
傍らに転がっていた、折れた馬車の木片を拾う。
先は尖り、手を握るたびに棘が刺さる。
それでもシリルはそれを握りしめた。
足元がふらついても、目を逸らさない。
倒れても、牙の前に立ち続ける。
命を、差し出す気など、これっぽっちもない。
――生きたい。
それは乞うことでも祈ることでもなかった。
ただ、彼自身の意思だった。
狼たちが唸り声を低くする。
月光を浴びたような光沢を持つ、大きな影が木々の奥から現れる。
群れの上位に立つ獣――白銀の狼。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
蒼い瞳が、少年の姿を見据える。
泥にまみれ、歯を食いしばり、血まみれの木片を振りかざす――その姿に、何かが宿っていた。
それは単なる「抵抗」ではない。
死ぬことに慣れてしまった奴隷の目ではない。
白銀の狼は静かに鼻を鳴らした。
〈――まだそんな目をするか〉
蒼の瞳が細められる。
鋭く、冷たく、だがどこか――面白がるように。
獣の直感が囁く。
こいつは、ただの人間の子ではない。
血の中で、闇の中で、爪を研ぎ、牙を隠している。
……面白い。
少年と狼の目が交差する。
その瞬間――
ひとつ、静かに息を吐いた。
それは拒絶でも、脅威でもなかった。
〈生き延びたければ、ついてこい〉
銀白の獣はちらりと一度だけ後ろを振り返ると、すぐに視線を逸らし、静かに森の奥へと歩き出した。
足取りは迷いなく、だがどこか、少年がついてくることを前提としたような、隙を残す歩みだった。
狼たちはそれに従うように後に続く。
その口には、血にまみれた腕、血の滴る胴体――無残に引き裂かれた人間たちの骸を咥えたまま。
狩りは狩りとして終え、手土産のようにそれらを携えている。
それはただの“処理”ではない。
それは憎しみでも報復でもない。ただの“食事”だ。
彼らにとって人間は、恐れるべき存在でも特別な敵でもない。
――ただの、餌に過ぎない。
だが、一人だけがその場に残っていた。
少年、シリル。
何が起きたのか、まだ完全には理解できていなかった。
ただ、自分が襲われなかったという事実だけが、焼きつくように胸に残っている。
「……あれは、なに……?」
息を殺し、倒れそうな膝を押さえながら、シリルはその背中を見送った。
けれど――次の瞬間には、よろける身体を無理に立たせ、その後を追い始めていた。
生き延びたのではない。
助けられたわけでもない。
ただ、見逃されただけだ。
だが、それで十分だった。
ただ、あの銀の背に、何かを感じた。
希望ではない。光でもない。
だが、抗い続けたその身に、初めて示された「選択肢」。
――だから、進む。
その背中の先に、何があろうとも。