表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/58

~序章~

 ガタン、ガタン――。


 日はとうに傾き、森を照らす夕陽の角度も変わってきた。

 軋む車輪の音が、どこまでも耳に響く。


 重く湿った空気と、獣のような臭いが籠もった荷馬車の中。

 柵のはめられた木の壁に囲まれて、少年は小さく身を縮めていた。

 年の頃は十、いや、それよりかなり幼く見える。

 痩せた体を粗末なローブが包んでいる。

 袖口はほつれ、足元は泥にまみれていた。

 手首には鉄の枷。

 鎖がぎしりと鳴るたび、少年は表情ひとつ動かさずに目を伏せた。

 だが、その瞳の奥には――静かな怒りが燃えていた。


 荷台には、彼のほかにも数人が押し込まれていた。

 痩せ細った老女、顔に痣を持つ若者、ぐったりとうずくまる少女。

 誰もが口を閉ざし、諦めきった目をしていた。

 が、少年だけは違った。


 耳をすませば、外から男たちの声が聞こえる。


 「……なあ、おい。やっぱりこの森、気味悪くねぇか? 獣の気配がやけに濃い」


 短髪の男が御者台で手綱を引きながら、周囲を警戒するように呟いた。


 「こんな場所で野宿とか、まっぴらごめんだぜ……」


 小声ながらも、どこか苛立ちと恐怖の滲む声音。

 隣で松明を持っていたハゲ頭の男が、舌打ちを一つ。


 「黙って引け。今夜中に抜けりゃ、それで仕事は終わりだ。報酬もたんまり出る」


 「……だったら、余計にここで死にたくねぇって話さ」


 どちらも腰に武器を下げ、警戒を怠ってはいない。


 ――そのときだった。


 風が止んだ。

 鳥も、虫も、木の葉さえ、静寂に息をひそめる。


 「……?」


 男たちが辺りを見回す。次の瞬間――


 「グルルル……ッ!」


 森の暗がりから、低く唸る声がいくつも響いた。

 次の瞬間、左右の茂みが弾け飛ぶように割れ、数頭の狼が飛び出してきた。

 一頭が馬の脚に噛みつき、馬が悲鳴を上げて崩れる。

 もう一頭が御者台の男に跳びかかり、その喉に爪を突き立てた。


 「ぎゃああああッ!!」


 血飛沫が舞い、馬車が横転する。

 檻が外れ、鎖が引きちぎれ、少年が転がり落ちた。

 泥にまみれた地面に叩きつけられ、肺の中の空気が一気に押し出される。

 咳き込みながら、少年は必死に立ち上がった。

 鎖が手首から垂れ、錆びた音を立てる。

 その耳に、地獄のような悲鳴が響いた。


 荷馬車の御者台――

 短髪の男が腰の剣を抜く暇もなく、狼に喉笛を噛みちぎられていた。

 血飛沫が木々に散り、馬が狂ったように嘶く。

 もう一人のハゲ頭の男が、松明を振り回しながら叫ぶ。


 「化け物どもがァ! く、来るなッ!」


 だがその声は、背後から跳びかかった影によってかき消される。

 狼の爪が背筋を裂き、男は地に沈んだ。

 車輪が泥に取られ、荷馬車が傾く。

 その衝撃で檻の扉が開き、奴隷たちが転がり落ちる。

 「いやだ、助けてッ!」

 「やめろ、来るなああっ!」

 悲鳴と泣き声と、肉が裂ける音。

 それは、逃げ場のない地獄だった。 


 肩で息をしながら、倒れた荷馬車を背にし、牙を剥いた狼たちと対峙する。

 獣たちの目には、少年などひと噛みで砕ける肉に過ぎなかった。

 だが、なぜか誰も、すぐには飛びかからない。

 シリルの視線が、狼たちのひとりひとりに刺さっていた。

 体は小さく、傷だらけで、震えてもいた。

 けれど――その瞳だけは、燃えていた。

 

「……来いよ」

 

 少年が口を開いた。

 掠れた声。

 だが、はっきりとした意志がそこにあった。

 傍らに転がっていた、折れた馬車の木片を拾う。

 先は尖り、手を握るたびに棘が刺さる。

 それでもシリルはそれを握りしめた。

 足元がふらついても、目を逸らさない。

 倒れても、牙の前に立ち続ける。

 命を、差し出す気など、これっぽっちもない。


 ――生きたい。

 

 それは乞うことでも祈ることでもなかった。

 ただ、彼自身の意思だった。

 狼たちが唸り声を低くする。

 月光を浴びたような光沢を持つ、大きな影が木々の奥から現れる。


 群れの上位に立つ獣――白銀の狼。


 風が吹く。

 木の葉が揺れる。

 蒼い瞳が、少年の姿を見据える。

 泥にまみれ、歯を食いしばり、血まみれの木片を振りかざす――その姿に、何かが宿っていた。

 それは単なる「抵抗」ではない。

 死ぬことに慣れてしまった奴隷の目ではない。

 白銀の狼は静かに鼻を鳴らした。


 〈――まだそんな目をするか〉


 蒼の瞳が細められる。

 鋭く、冷たく、だがどこか――面白がるように。

 獣の直感が囁く。

 こいつは、ただの人間の子ではない。

 血の中で、闇の中で、爪を研ぎ、牙を隠している。

 ……面白い。

 少年と狼の目が交差する。


 その瞬間――


 ひとつ、静かに息を吐いた。

 それは拒絶でも、脅威でもなかった。

 〈生き延びたければ、ついてこい〉

 銀白の獣はちらりと一度だけ後ろを振り返ると、すぐに視線を逸らし、静かに森の奥へと歩き出した。

 足取りは迷いなく、だがどこか、少年がついてくることを前提としたような、隙を残す歩みだった。


 狼たちはそれに従うように後に続く。

 その口には、血にまみれた腕、血の滴る胴体――無残に引き裂かれた人間たちの骸を咥えたまま。

 狩りは狩りとして終え、手土産のようにそれらを携えている。

 それはただの“処理”ではない。

 それは憎しみでも報復でもない。ただの“食事”だ。

 彼らにとって人間は、恐れるべき存在でも特別な敵でもない。

 ――ただの、餌に過ぎない。

 だが、一人だけがその場に残っていた。


 少年、シリル。


 何が起きたのか、まだ完全には理解できていなかった。

 ただ、自分が襲われなかったという事実だけが、焼きつくように胸に残っている。

 「……あれは、なに……?」

 息を殺し、倒れそうな膝を押さえながら、シリルはその背中を見送った。

 けれど――次の瞬間には、よろける身体を無理に立たせ、その後を追い始めていた。

 生き延びたのではない。

 助けられたわけでもない。

 ただ、見逃されただけだ。

 だが、それで十分だった。

 ただ、あの銀の背に、何かを感じた。

 希望ではない。光でもない。

 だが、抗い続けたその身に、初めて示された「選択肢」。


 ――だから、進む。


 その背中の先に、何があろうとも。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ