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   Ⅰ

「あぁ、」

 またバイトをクビになった。もう何度目になるか…。アパートの家賃も滞納しているというのにどうしてこうなる。

 生まれたときから不遇であり、周りに不幸をまき散らしてきた。僕が生まれたとき不思議な現象が立て続けにあり、近所のじじいが忌み子などと言っていたらしい。

 望まれない幼少時代、町から離れた小さな村で友達と呼べる存在はいなかった。ひねくれた性格は町の高校に進学しても変わらず、いつしかポケットには意味もなくナイフを入れていた。

 それでも、家族には出来るだけ迷惑をかけたくなくて、高校の卒業を機に、アルバイトで貯めたお金を元手にして一人暮らしを始めた。高校時代は電車で通学していた町だ。一人暮らしを始めた当初はやっと手に入れた自由だと思っていた。

 僕は甘かった。

 自由がこんなにも息苦しいなんて知らなかった。何をするにしても、ただそこにいるだけでも税金はかかるし、生きていくには衣食住は必要だし。ストレスが溜まれば息抜きだって必要だ。自由って何だ?

 人間社会で生きるってのは自由を放棄するってことだ。本当に自由になりたかったら人間のいないところに行って一人で自給自足をするしかない。それができる場所は地球上にはもう存在しない。僕が勝手にそれを始めたとしても法律がそれを許さないし、勝手に住める土地もないだろう。生きるため、また仕事を探さないといけない。

 親には頼れない。

 別に喧嘩別れしてきたわけじゃないけれど、こんなみすぼらしい今の自分では合わせる顔など無い。

 どん底だ。

 学生時代に貯めた貯金など一人暮らしを始めてすぐに無くなってしまった。

 僕のイメージではアルバイトで安定的に収入があり、少しずつお金を貯めて何か新しいことを誰も知らない場所で始めたかった。就職して手に職をつけるとか、何かの学校に入って何かの専門職に就くとか、何でもいいから誰にも恥ずかしくない人生を送りたかった。家族が自慢できるような、そんな人間になりたかった。

 どうしてうまくいかないんだろう。とにかく人と関わるのが下手すぎる。失敗してばかりだ。ヘコみきって窪んでいる。値にしたらマイナスだ。

 そんなことを頭の中で堂々巡りさせながら町を彷徨っていた。

 まだ明るい昼過ぎの時間帯、桜の花びらが道路の縁石に茶色くなって溜まっている。去年の今頃もアルバイトを探すところからスタートだったが、今よりもっと視界が広かった気がする。

 僕はその縁石に座り、人も車も気にせず下を向き、茶色くなった桜を拾い上げた。

「僕みたいだ…」

 萎れた桜の花びらは今の僕のよう。このまま風に吹かれてどこかに行ってしまうのか、清掃のボランティアにでも集められて捨てられて燃やされるのか…、どのみち存在そのものがなくなってしまう。。

 僕には、五年後とか十年後とかあるんだろうか。明日死ぬかもしれないし、こんな苦しい日常がずっと続くかもしれない。

 生きる意味って何だろう?

 そんなもの本当は無くて、自分の中で勝手に作って自己満足するための指標に出来る人があるって言ってるだけ。

 今の僕には無いし、これからもきっと意味なんてずっと無い。明日を生きるために履歴書を買って面接に行って…、何もやることが無ければ意味も無く町を徘徊したり古本屋で立ち読みをして、それでもアパートには帰りたくなくて、公園なんかでぼうっと時間を過ごす。

 空気に溶けていなくなりたい。

 生まれてからのすべての軌跡がすべて無かったことになればいいのに、この世界がすべて嘘ならいいのに。

 思考が闇に落ちていく、今まで生きてきて楽しかったこと、幸せだったこともあったはずなのに。これからだって良いことがあるかもしれないのに、頭が、重い。まるで脳を深海の圧力で圧迫しているかのように苦しい。

 思考だけがぐるぐると同じところを回り続ける。昔、近所で飼われていた犬がロープでつながれた範囲をぐるぐる回って吠えていたことを思い出す。当時は何も思わず、うるさいとしか思わなかったが、今思えばあの犬も苦しかったのかもしれない。

 気付いたとき、僕はまだ道路脇の縁石に座っていた。眠っていたわけでは無いが、ずいぶんと長い時間ここにいたようだった。気温も少し下がり日も落ちかけていて、何よりお尻が冷たくなっていて少し感覚が無くなっていた。立ち上がり周りを見渡すと、人通りも車通りも少なく。自分を不審がるような人もいなかった。

 帰っても何もやる気にならないだろう。まずは求人誌を手に入れるところからだが、一週間後になるかもしれない。

 社会から取り残されたようで寂しさを感じる。会社員も学生も主婦も老人も、きっと自分の生活空間があって、それぞれ不自由はあっても日常的に幸せが近くにあるんだろう。

 ふと気付くと、少し離れたところに占い師がいた。小さなテーブルに椅子を置き、外套と薄い布で顔を隠していたが、僕よりは背が大きい女性のようだった。テーブルの上には水晶が置いてあったが、手相や占術などと手書きの紙がテーブルに貼り付けてあるので少し胡散臭さも感じる。

 占い師は僕のほうを向き、手招きをしていた。人に目を向けられるとは思っていなかったし、財布の中のお金まで取られると思い、無視して前を通り過ぎようとすると、

「座りなさい、お金は取らないよ」

 声を掛けられるとは思わなかった。

 その声には今まで感じたことの無い、不思議で繊細な魅力のようなものを感じた。

 占い師は掌で正面の椅子に座れと促し、そして僕はなんのこっちゃと思いながらも座ってみた。

「私の仕事を手伝ってくれませんか?」

 何を言っているんだ?そりゃあ仕事は探さないといけないが、顔に書いた覚えまでは無い。そんな雰囲気が出ていただろうか?

 占い師の布で覆われていない目元を見ると、見たことの無い澄んだ色をしていた。青いような緑色のような、総じて綺麗な瞳だと思った。僕は、その瞳に吸い込まれるような感覚を覚えた。

 それでも、何かの怪しい勧誘という線もありえるし、何より何故僕?という思考が自制させた。

「なぜなんです?」

 僕は率直に尋ねた。僕みたいな失敗ばかりの人間に声を掛け、なぜ仕事の勧誘をしてきたのか。

 占い師は微笑んだままだった。

「確かに僕は今、仕事もクビになり家賃の支払いをどうしようか悩んでいます。けど、自分の働き口ぐらいは自分で探します」

 本当は、内心この怪しい占い師の話ぐらいは聞いてもいいと思っている。占いなんて出来ないけど、仕事の内容が普通の事務員って訳がない。

 占い師は変わらず聴く態勢のまま、目元は微笑んでいる。身の上話が聞きたいだけなんだろうか。

「何なんですか?バカにしてるんですか?」

 僕はイライラしつつも、この人が何なのか、この人の言う仕事は何なのか知りたくなっていた。

「あなたは先ほど家賃も払えないと言っていましたね。丁度いいです」

「何がですか?」

 何が丁度いいのかさっぱり分からず、僕はイライラしたまま問い返した。

「私のところは住み込み可ですよ」

「結局のところ何の仕事なんですか?占いなんて出来ませんよ?」

 その人はクスッと笑った。

「私のことを知らないということは、この町に来て日が浅いようですね。ついてきてください」

 その人はテーブルや荷物はそのままに、すぐ後ろの車一台がやっと通れるほどの細い道へ僕の手を引いていった。

 その道はこじんまりとした飲み屋なんかが数軒並んでいる、昔ながらの町の風景だった。その道の一番奥が目的地だった。

 正面には大きく看板が掲げられていて、白地に赤いペンキで”KTなんでも相談室‼“と手書きされていた。

 きっと頑張って自分で書いたんだろう。意外と努力家で頑張り屋さんなのかもしれない。最後の‼がなんだかこの人の純粋さを表しているような気がした。

「なんでも相談室?何をするところなんですか?占いって訳じゃ無いですよね…」  

「そのままです。なんでもやります。私の勝手な基準で受けられるものは全て」

 基準があるってことはどうなんだろう?エロいのは無しってことかななどと考えてしまった。

 僕は手を引かれたまま店内に入っていく。 店の正面は昔ながらの作りで、古いガラス戸を横に開くと一階は応接間になっていた。仕切りが立てられ、入り口からは中が見えないようになっていた。コンクリートの床に簡素なソファがあり、お茶を入れるスペースと事務机があるだけだった。

 さらに奥に進む。靴を脱いで上がると、そこからが生活空間になっていた。居間がありキッチンがある。階段を上がると寝室や書斎、荷物置きのような部屋があった。そんな二階の一室に案内され、

「この部屋が空いています。ここに住むといいですよ」

と言いながら、占い師は外套とマスクをとった。

「私はケイトと言います。町の何でも屋さんです」

 背は僕より高く、すらりとしたモデル体型、綺麗な金色のショートヘアに綺麗に澄んだ瞳。 僕は死んで二次元の世界に転生したのかと思うほど、綺麗で整った外見の人だった。異国の雰囲気を醸し出すケイトさんに見蕩れた。ゾクゾクして、気が狂いそうになり叫び出しそうになった。





























   Ⅱ

 目を覚ますと、まだ見慣れない天井。

 住んでいた部屋を引き払い、ここに引っ越してからまだ日が浅い。何より隣の部屋はケイトさんの寝室になっている。雇用してくれた相手にドギマギしてもしょうがないが、してしまうものはどうしようもない。

 兎に角、今日も仕事だ。廊下にある洗面所で顔を洗い、歯磨きを済ませ、支給されたダサい緑色のジャージに着替え一階に降りる。

 朝からラーメンスープのいい匂いがしてくる。

「おはようございます。マキオ。丁度朝ご飯が出来上がりました。座ってください」

「おはようございます。ケイトさん。ありがとうございます」

 ケイトは袋麺をゆでていた鍋に卵を一つ落とし、そのまま僕が座った場所に置いた。

 きっと合理主義なんだろう。こんな綺麗な瞳の女性がずぼらな訳がない。

 僕は出されたものは残さず食べる。朝からエネルギー満タンだ。

「マキオ、食べ終わったら車で待っていてください。私も準備しますから」

 ケイトさんはパジャマのまま朝食の準備をしてくれていた。住み込みで食事の準備までしてくれて負担にならないだろうか?僕は、出来るだけケイトさんの迷惑にならないようにしないといけないと考えながら了承した。 ラーメンを食べ終わり、自分の使った鍋を洗った後、建物の脇にある狭い駐車スペースにあるハイエースに向かった。今日使用する道具は、昨日のうちに積み込みが終わっている。と言ってもたいした量の荷物ではない。

 今日の午前中は、近所に住む地主の秋山さん家の草刈り。午後はケイトさんの知り合いの会社移転の手伝い。夕方には次日の準備をする。僕がここで働くようになってから大体同じように毎日仕事がある。ケイトさんの人徳なのだろうか。なんでも相談室というだけあって、仕事内容は多岐にわたる。肉体労働の日もあればPCに向き合う日もある。ケイトさんはその都度、僕に手順を丁寧に教えてくれた。分からないことも聞けば教えてくれた。理想の上司とは彼女のことだと思った。

 ケイトさんの驚くべきところは指導力にとどまらず、一日の仕事が終わった後、この間のように占い師の仕事もしているところだ。毎日では無いようだが、僕が肉体労働でぐったりしていても、同じ仕事をしていたケイトさんはピンピンしていた。一体いくつなんだろうか?

 そんな疑問をそのままに、準備を終えたケイトとともにハイエースに乗り込んだ。おそろいの緑色のジャージを身につけて。










   Ⅲ

 ある日のこと、ケイトさんが応接間の事務机で仕事をしているので手持ち無沙汰な僕は、とりあえず掃き掃除や拭き掃除に精を出すことにした。仕事を自分で探すというスタンスもケイトさんから学んだことの一つだ。

 僕が入り口の前も掃いておくかと考え、外に出ると、僕より少し年下ぐらいの青年がこちらを見ていた。

「どうかしました?」

 僕の問いかけに驚いたのか、少し挙動不審に見えた青年は口を開いた。

「あのぉ、ここって何でも依頼を聞いてくれるんですか?」

「えぇ、店長がOKすれば、と言っても断ることはほとんど無いみたいですけど」

 僕は、ケイトさんのことを店長と言ったが

肩書きは店長で合っているのだろうか?社長といった方が良かっただろうか?普段から僕は敬意をもって接せていただろうか?などと的外れなことを考えてしまった。目の前の青年からは僕が挙動不審に見えたかもしれない。「依頼したいことがあるんですけど…」

「ちょっとお待ちください」

 僕は中にいるケイトさんに依頼人が来たことを伝えに行った。

「ケイトさん、今大丈夫ですか?」

「何です?マキオ」

「僕はケイトさんのこと社長って呼んだ方がいいですか?」

「ふふっ、今までどおりケイトと呼んでくれてかまいませんよ」

 ケイトさんの不適な笑みに魅了されてしまった。しかし、今はそんな話がしたいのではなかった。

「すいません、ケイトさん。そうじゃなくて、依頼人が来たんです。通しても大丈夫ですか?」

「そうなんですか?通してください。あとお茶もお願いします」

「分かりました。呼んできます」

 僕は青年を応接間のソファに案内し、お茶の準備をした。

「ただいま社長がまいります」

 僕がそう言うと、青年はえっ?という顔をした。偉い人が出てくるとでも思ったのだろう。部屋の端の小さい机に座ったジャージの女性が正面に座ったとき、青年はさらに挙動不審に見えた。

「こんにちは、私がケイトです。簡単に言うと町の何でも屋さんです。お名前を伺ってもよろしいですか?」

「あ、はい。三塚哲也です。よろしくお願いします」

「三塚さん。早速ですが、ご依頼というのは?」

「あぁ、依頼したいことなんですが、うちで飼っている猫がいなくなってしまって、一緒に探してもらいたいんです。お金は少しはあります」

 基本的に値段はケイトが決めている。法外な値段でないことは確かだが、この場合、前払いでいくらとか、成功報酬とかあるんだろうか?

「学割もありますから、値段はそれほど高くはならないと思いますよ。それにうちでは、人捜しや、いなくなったペットの捜索は成功時のみ料金をいただくことにしています。期間はこちらで決めさせていただきますが」

 ケイトさんには、不思議と相手を安心させる雰囲気がある。三塚君も少しずつ緊張がほぐれてきたようで、「分かりました」と落ち着いた口調で答えた。

「それで、探してほしい猫の写真や、何か身につけていたものはお持ちですか?なければ後日持ってきていただくでもいいですけど」

「写真はスマホにたくさんあります。データを送ります。身につけていたものはあるか分かりませんけど、家に帰れば遊び道具はあります。けどそういうのでもいいんですか?」

「お願いします。いなくなった状況などもお聞かせ願えますか?」

 僕がここで働き始めてから、探偵のような依頼は初めてだったが、ケイトさんは以外と慣れた様子でヒアリングをしていく。

「いなくなったのは一週間ほど前です。もともと家の中で飼っていたので、こんなことは今までありませんでした」

 三塚君は今にも泣きそうな顔で俯きながら話を続けた。

「両親にも、猫がどこに行ったのか聞きましたが、分からないと言っていました。両親はもともと猫を飼うことに反対していたんです。僕が近所に捨てられているのを連れて帰り、わがままを言って、最終的には飼ってくれました」

「ご両親はなぜ反対していたんですか?」

「多分、お金もかかるし、何より猫を家に閉じ込めておくのが可哀想だと思っていたんです」

「確かに、その考え方は否定できませんね。狭い世界に閉じ込めておくのは猫の自由を奪ってしまう。けれど、外の世界では危険が多いし、家に戻らないことにもなるでしょう」  

 ケイトさんも悲しげな表情をしていた。似たような経験があるのかもしれない。

「どこかで知らない人に飼われていてもいい。生きていてほしいだけなんです。どうか、見つけ出してください。お願いします」

 三塚君は明日にでも猫の遊び道具を持ってくることを約束して帰って行った。

「虱潰しに探すんですか?」

 僕は、こんな依頼受けて大丈夫かと不安だった。飼い主が見つけられないのに、探す当てがあるんだろうか。

「まずは、猫が集まりそうな場所なんかを探すところからですね。スケジュールの空いている時間は手分けして探しましょう。」

「分かりました」

 僕はケイトさんの指示に従うだけだ。








   Ⅳ

 翌日から本格的に猫を探し始めた。とは言っても今日のところは僕だけだ。ケイトさんは別な仕事をしている。

 手始めに、僕は三塚君の家の近所で聞き込みを行っていた。それと、ついでに猫の遊び道具を受け取るつもりだった。

「すみません。この猫見たことないですか?」

「分からんねぇ。この辺には野良も多いから」

 僕はコピー用紙にカラーで印刷した紙を見せながら、何件も尋ねて回ったが、今のところ手がかりは一つも無かった。

 ありがとうございます。と言って僕は頭を下げた。

 手がかりは無かったが、僕は意外と充実感で満たされていた。少し前まで無職で自信喪失していたのに、こんな僕でもやれば出来るんだという充実感があった。これで結果が出ればいうことないんだけれど。

 そうこうしていると、三塚君からメールが入っていた。学校から帰ったので猫の遊び道具を渡すという内容だった。事前に僕が聞き込みをしていることを伝えていたので、近所のファーストフードで落ち合うことにした。

 

「やぁ、早かったね」

 先に店に入っていた僕は、小さく手を上げて三塚君に挨拶をした。

「こんにちは…」

 三塚君は昨日と同じように少し挙動不審に挨拶をかえしてくれた。同年代の僕に対して、まだ警戒心を持っているのかもしれない。まぁ、当たり前の反応だろう。

「それが猫の遊び道具?」

「そうです…。とりあえず手がかりになりそうなものは全部入れてきました」

 三塚君はそう言って紙袋を手渡してきた。

「はい、受け取りました。社長に渡しておきます」

「じゃ、僕はこれで…」

 三塚君はそう言ってさっさと店を出て行ってしまった。

「お茶ぐらい飲んでけばいいのに。ズズッ」

 僕も飲んでいたコーラが無くなったので荷物を持って一度事務所に帰ることにした。

 その後も数日間、一人で聞き込みや猫の集まる場所を探して回ったが、手がかりは得られなかった。

「はぁ…」

「マキオ、功を焦ってはいけませんよ。さぁ、これを食べて明日も頑張りましょう!」

 ケイトさんが夕飯の食卓に、自信たっぷりに出してきたのは炊飯器で完結する炊き込みご飯だった。おかずは無い。まぁ、住ませてもらって贅沢を言うつもりは無いが、何というか男の一人暮らしのようだった。

「いただきます。」

「私もそろそろ仕事が落ち着きますから。明日の午後には猫ちゃんを探すのに合流します」

 ケイトさんは”にゃん”と効果音がつきそうな手を丸くする仕草で「にゃん」と言った。

 かわいい…。けど、この人いくつなんだ?

 僕は、そんな疑問は脇に置き”好きだ”といって抱きついて押し倒したい衝動にかられた。

 もちろんそんなことが出来るはずも無く。

 ただただそんな自分に自己嫌悪するのである。


 ケイトさんとは、翌日の正午きっかりに合流することになった。僕たちは、先日三塚君と待ち合わせをしたファーストフードで落ち合うことにした。

 三塚君との待ちあわせの時とは違い、僕はケイトさんを外で待つことにした。雇用主より先に入って飯を食うわけにはいかない。

「マキオ、お待たせしましたっ!」

 ケイトさんは僕が外で待っているのが見えて、小走りで駆け寄ってきた。車を近くに止めてきたのだろう。

「いえ、僕も今来たところです」

 なんか初デートの決まり文句みたいになってしまった。

 僕たちはオーダーを済ませ、空いている席に着きハンバーガーにかぶりついた。

「おいしいですっ!マキオ、私、今までこういったお店って入ったこと無くて、付き合いで居酒屋とかはあるんですけど…」

 意外だった、普段の食事も時間を掛けずに済ませている印象だったが、ファーストフードは利用しないのか。

「喜んでくれて良かったです」

 料金をすべてケイトさんが払ったのでなければ、少しは格好良かったかもしれないが、自然と支払いを任せてしまった。大分この人に寄りかかった生活が身についてしまっている。よくないよくない。

 食事もそこそこに、僕は今のところの調査結果を報告した。といっても手がかりは無い。聞き込みを行ったエリアや、野良猫の多いエリアなどを共有しただけだ。

「分かりました。食事が終わったら車に戻りましょう。三塚さんから預かった荷物が積んでありますから、ヒントが得られるはずです。」

 得られるかなぁ、ヒント。僕も一通りものは見たが、何か得られるものがあるとは思えなかった。それでも、ケイトさんにはケイトさんの考えがあるのだろうと思い、僕は反論しなかった。

 ハンバーガーとドリンクを食べ終えた僕たちは、近くのコインパーキングへ移動し、少し古びた白いハイエースに乗り込んだ。

「これがいいですね」

 ケイトさんはそう言いながら紙袋からバスタオルのような布を取りだした。猫が愛用していたものと思われる。

「どうするんですか?確かに匂いは残っている気がしますけど」

「私は、普通の人が持っていない感覚を持っています。いわゆる超能力です」

 えっ?僕はケイトさんが変なことを言い始めたと思った。普段から少し世間ずれしているとは思っていたが。まさか、中二病まで煩っていたのか?確かに見た目は金髪にエメラルドグリーンの瞳、浮世離れしていて、耳が長ければまるで二次元のエルフに思えた。けれど、今日も上下緑のジャージ姿おそろいで超能力とか言われても…。

「まぁ、見ていてください」

 ケイトはそう言うと布に手をかざした。

 すると、かざした手が少し発光しているように見える。

「えっ?」

 ケイトさんの顔を見ると目を固く閉じ、集中している。

 僕は今まで見たことも無い、不思議な力を目の当たりにしていると感じた。ケイトさんは決して中二病などでは無かった。僕にはケイトさんが今何をしているのか分からないが、何かの情報を得ているのは確かだろう。

 ケイトさんが目を開けたのは3分ほどたってからだった。

「ケイトさん、今のは…」

「マキオ、猫の手がかりは掴めました。移動します」

 ケイトさんはそう言うと車のエンジンをかけた。僕は集中していたケイトさんの顔が脳裏に焼き付いて黙ってしまった。

 車で少し移動したところに、登山道に入る駐車場があった。ケイトさんはそこに車を止め、山に入りますと言った。

「ケイトさん、さっきのは何だったんですか?」

 僕はまだ半信半疑でケイトさんに質問をした。

「情報を読み取りました。詳しいことは後日お話ししましょう」

 それから僕たちは昼下がりの山道を登っていき、少し開けた場所にたどり着いた。

「どうやらここまでのようです」

「この近くにいるんでしょうか?」

「いえ、猫の命はここで終わっています」

「えっ?」

 ケイトさんの視線の先をみると、確かに写真と同じ三毛猫が横たわっていた。

 僕はしばらく呆然としてしまった。

「足を骨折して、そのまま弱ってしまったようです。もう少し早く来ていれば助けられたかもしれません。残念です」

 ケイトさんは、持ってきた手提げ鞄から小さなショベルを取り出し、猫のお墓を作った。情報を読み取ったときには猫の死が分かっていたのだろうか?

「三塚君には事実を伝えるんですか?」

「いえ、捜索は失敗したと伝えます。猫が亡くなったことは言いません。どこかで生きているはずと思えた方がいいでしょう」

「そうですね」

 僕には三塚君になんと伝えればいいのか分からない。

「それに、やはりこの山に猫を捨てたのは彼のお母さんです。いえ、逃がしたと言うべきでしょうか」

「確かに、猫が死んだことと親が猫を逃がしたことを結びつけてしまっては親を恨みますね…」

「えぇ、それは避けるべきでしょう」

 僕たちは山を下り、ハイエースに乗り込んだ。いつも明るいケイトさんも今日は言葉少なく、笑顔も無かった。


 後日、三塚君に事務所に来てもらい、依頼の失敗を伝えた。

「そうですか。探していただいてありがとうございました。やっぱり、時間を使っていただいたのにお金を払わないわけにはいきません。少しですが」

 三塚君はそう言って封筒を出した。

 ケイトさんはありがとうございますと言って、その封筒を受け取った。

「またご依頼の際はお気軽にお声掛け下さい。お安くさせていただきます」

 三塚君は最後にもう一度ありがとうございましたと言い、事務所を後にした。終始残念そうだった。

 これからも、ふっと目の前に思い出の猫が現れるのを期待し、探してしまうんだろう。

 どこかで生きている、また会えると希望を持っている方がいいはずだ。「彼は勘がいいです。何があったかは大体分かっているでしょう」

 ケイトさんは少し目を細め、もう少し早く行動していれば助けられたことを悔いているようだった。

「けれど、猫の死は私とマキオしか知りません。これからもこういったことがあるでしょう。物事の裏側を知ってしまうこと。人間の本音と建前。権力者の一言で選ばれた選択。知るはずの無かった事実。少しずつ世の中が見えてくるでしょう」

 僕にはケイトさんの言葉の意味は分からなかった。けれど、この人から学び、追いつきたいと思った。

「私があなたを雇ったことにも理由があります」

 ケイトさんの真剣な眼差しは僕を射貫いていた。

「えっ?」

 僕には何のことかさっぱり分からなかった。人員が必要な事態だったのだろうか?事業拡大を目論んでいる?もしくは人生を悲観した人間のモニタリングでもしたかったのだろうか?

「それはマキオが可愛かったからです!一目惚れです」

 真剣な表情から一転、ケイトさんは満面の笑みを見せてくれた。

 どこが?確かに初めて会ったあの日よりは血色がよくなったと思う。少し前まで、僕は明日が来なければいいと思っていたし、日に日に服も肌も薄汚れていって厭な匂いがしていた。捨て猫のように、救いの手が無ければダンボールの中で死んでいただろう。

「ありがとうございます。ケイトさんに拾っていただいて感謝しています。冗談でもうれしいですよ」

「冗談ではないのですが…、確かにあのときのマキオは苦しそうな顔をしていました。身体も心も少しずつ健康になってくれて良かったです」

 僕はこの人が好きだ。微笑みかけてくれる表情を見てあらためて思う。僕みたいな若造は恋愛対象にならないだろうけど、僕はこの人の人生に尽くしていきたい。感謝の気持ちを返していきたいと思う。いくつ年上かは知らんけど。

「ケイトさん、僕はクビにならないように仕事頑張ります」

「そんな気張らなくても大丈夫ですよ?マキオには居てもらわないと困ります。雇ったことに理由があるというのは本当ですよ?」

 僕はケイトさんの言葉が冗談のような、そうでないような、分からなくなってきた。

「いずれ分かるときが来ます」

 ケイトさんは蠱惑的な表情で話を締めくくり事務仕事を始めてしまった。

 僕を雇った理由とは?いったい何をやらされるんだろう?ケイトさんは何をもとめているんだろう?僕の心はゾクゾクしていた。

































   Ⅴ

 その日、ケイトさんは体調を崩して仕事を休みにした。

 二階の廊下で倒れているところを僕が見つけ、抱き起こすと意識はあり単にお腹が痛いと言っていた。救急車を呼ぼうとしたが、ケイトさんはいらないと言ってトイレに這っていった。最近通販で冷凍のレバー(加熱用)を買っていたので、それを生で食べての食あたりだろう。

 何というか、先日は僕が健康になって良かったと言ってくれたのに、酒のつまみはいろいろ拘って失敗する。もう少し、リスクの無い食生活を送ってほしい。

 僕はクライアントにキャンセルの電話を入れるようトイレから指示をもらった。

 ケイトさんがいないとたいしたことは出来ないが、掃除や車の洗車、電話番ぐらいは出来る。たまに二階のケイトさんの様子を見に行ったが、変わらずトイレで唸っているようなので大丈夫?見なかったことにした。 そうこうしているうちに昼下がり、細い路地の飲み屋街に似つかわしくない格好の来客があった。この店に来るのは大抵地元のお年寄りや祭りの主催者なんかが多い。メールで済む依頼なら事務所に来ない依頼人もいるくらいだ。立地も悪く飲み屋街の一番奥、サラリーマンより地元民が飲みに来る場所だった。

 その男は痩身で背が高くタイトなスーツを纏っていた。黒髪だったが整った洋風の顔をしていて、ケイトさんのようにエルフを思わせた。西洋の血が入っているのかもしれない。逆光でも輝く瞳はアメジストを思わせた。

「こんにちは」

 男性がコンサルティングなら、さぞ説得力がありそうな低めの声で挨拶をして、にっこりと僕に笑いかけた。

「こんにちは、なにかご用ですか?」

 僕は気後れしないよう、出来るだけ普段どおり振る舞った。

「仕事の依頼に来たのですが、ご主人は留守ですか?」

 ケイトさんの知り合いだろうか?

「いえ、いるにはいるんですが、少し体調を崩してまして…」

「そうですか、久しぶりに会いたかったのですが、またの機会にしましょう」

「社長の知り合いの方でしたか、体調が良くなったら連絡するように伝えますよ」

 ケイトさんの何なんだろう?会いたかった?親しいんだろうか。

「ありがとう。私はこういう者です。ケイトとは昔なじみで、同じ戦場に出たりもしたんですよ」

 男性はビジネスマンらしく名刺を取り出し、両手で僕に差し出してきた。僕は社会人のマナーは勉強中だが、たしか名刺は両手で受け取るんだよな。

 ていうか、戦場出てたって?ケイトさん何者なんだ?自分の雇用主のことは未だに分からないことばかりだ。

 貰った名刺に会社名などは無く、黒い紙に黄色い花、真ん中に”R”とだけ印刷されていた。よく分からないが、こういう名刺もあるんだなぁ、と大した感想も持たなかった。受け取る際、少しだけ手が触れた。

「っっ!」

 なぜかは分からない。静電気でも走ったんだろうか?Rさんはひどく驚いた表情をした。

「そういうことですか…、あなたも大変だったでしょう?」

「何のことですか?まぁ、社長は結構ズボラなところありますけど」

 今日も腹痛の原因はケイトさんにある。ケイトさんはたまに自業自得なことをするのだ。

「いえ、ケイトのことではありません。君の生い立ちのことを言ったのですよ」

 生い立ち?この人に何が分かるというのだろうか?ケイトさんと同じように超能力でも使えるのか?

「何か見えるんですか?」

「何も見えていませんよ、ただ漠然と君の中にある大きな力を感じただけです」

「力?僕には何もありませんよ。あるとすれば…」

 あるとすれば、かっこいいことを言いたかったが何も思いつかなかった。

 けれど、Rさんの言うことに心当たりが無いわけでも無かった。それでも、自分でも分からないものは無いのと一緒だろう。

「ケイトがなぜ君を置いているのかは分からないが…、そろそろ死にたいとでも思っているのかな?」

「死にたい?ケイトさんがですか?」

 そんなことあるはずが無い、毎日一生懸命仕事をして、僕みたいな人間を育てようとしてくれている。ケイトさんが自殺願望なんて持っているわけが無い。

「そう、君は命に関わる力を秘めている。私やケイトのように、いつ死ぬか分からない存在を終わらせる、強い力だ」

 この人が何を言っているか分からない。理解できない情報が多すぎる。僕の中に命に関わる力?それで、ケイトさんとこの人がいつ死ぬか分からない存在?危ない仕事をして明日があるか分からないと言うことか?

「すいません、ちょっと何言ってるか分かりません」

「ケイトは自分のことを何も話していないんですね。いつまで続くか分かりませんが、平穏な生活を望んでいるんでしょう」

「そうなんですかね」

 僕は馬鹿なふりをすることにした、この人がしゃべることを一旦、全部聞いてみようと思ったからだ。

「私はケイトと違っておしゃべりですから、いろいろと口を滑らせることがあります」

「はぁ、そうですか」

「私もケイトも人間ではありません」

 Rさんは重大なことをさもあっさりと発した。

「えっ?」

 初めて会う人間にそんなことを言われても信憑性皆無だが、それでもこの男の言葉が嘘には聞こえなかった。

「どういうことかって?やっと話に乗ってきてくれましたかね、厳密に身体の検査をしたところで大して違いはないでしょう。少しだけ違う進化をした種族というだけです。まぁ、私とケイトも同じ種族ではありませんし、世の中には意外といるんですよ。人間とは少し違う存在が」

 ケイトさんが人間じゃ無い?そんなわけが無い。同じように生活して同じように食事をして、同じ言葉をしゃべって、何が違うって言うんだ?そんなはずが無い。そんな存在になんて会ったことが無い。そもそも違いが無いなら同じじゃ無いか。僕は完全に混乱し、Rさんの言葉に動揺していた。ケイトさんが自分とは違う生き物なのか?そんなはずが無い。

「何が違うって言うんですか?」

 僕は内心の焦燥感を抑え、平静を装った。

「さっき言ったとおりですよ、いつ死ぬか分かりません。不老不死のようなものです」

「のような…ですか」

「えぇ、もちろん事故に遭えば死にますし、僕のように体調すら崩さない種族もいれば、ケイトのように普通に風邪を引く種族もいます」

「そうなんですか…」

 ケイトさん、風邪じゃ無いけどな。

「君は信じますか?私の言葉を…」

 僕は以前ケイトの不思議な力を見ている。普通の人間な訳がない。けれど、不老不死というのはまだ信じられなかった。僕の知っているケイトさんは年上に違いは無いにしても、肌も髪も若々しく年齢を重ねているようには見えなかった。そもそもいくつなんだ?

「どうでしょう。分かりません」

 ケイトさんもこの人も普通じゃ無いのは分かる。けど、SF小説や映画の中の話をされているようで現実味が無かった。

「君は今の話で何をイメージしますか?バンパイア?それともエルフ?妖精、悪魔?」

 Rさんが何を知りたいのか、それとも教えたいのか、分からない。

「君たちの日常のすぐそばに僕たちはいる。どこにでもいるとは言わない、人の温かさを知って関わり続けている者もいれば、人の汚い内側を知って山奥に引きこもっている者もいる」

 Rさんは僕の瞳をのぞき込んで続けた。

「君は近いうちに君の中に眠っているその力を使うことになるだろう」

 なんでそんなことを言うんだろう。

 そのとき、僕のポケットのスマホが震えた。スマホに気を取られ画面に視線を落とすと「ケイトさん」と表示されていた。、Rさんは僕の仕草に興ざめしたのか「どうぞ」とだけ言った。

「もしもし、どうしました?」

 僕は、もしかすると救急車が必要になったのかと心拍数が上がった。

「そいつは客じゃない、帰らせて」

 ケイトさんは普段聞いたことの無い怒気のこもった声だった。おそらくスマホから店内のカメラを見たのだろう。

「依頼があるみたいですけど…」

「いいから!帰らせて」

「分かりました」

 ケイトさん、腹痛だから怒ってたわけじゃ無いよな。じゃないとしたら元彼とかじゃないよな…。

「ケイトですか、怒っているようでしたね」

「そうみたいですね」

 二人の関係に何があったのかまでは踏み込めない。

「今日は帰ります。また会いましょう」

「またのご来店をお待ちしております」

 僕は慣れない文句で片言のようになってしまった。

「あぁ、それと…、君は過去に力を使ったことがあるはずです。昔のことを思い出してみるといい。使い方が分かるかもしれませんよ?」

 Rさんはそう言って店を出て行った。

 そんな力知らない、過去なんて思い出したくもない。


 二階に上がると、再びケイトさんが廊下に倒れていた。

「ケイトさん!」

 僕が近づくと遠い目をしているが意識はあるようだった。

「あいつには関わらないで」

 ケイトさんは語気を強めて言った。その後、「あっ」と言うと同時に「ブリッ」という大音声が廊下に響いた。ケイトさんはさらに顔色を悪くして廊下を這い、トイレに帰っていった。

 ドアを開けたままでジャージを脱ぎ、便器に座ったケイトさんは俯きながら顔を両手で覆い、「殺して」と呟いた。

 僕はそれを無視した。ケイトさんがRさんのことを、「あいつ」と呼んだのが僕の想像を逞しくさせた。

 廊下に佇む僕と、ケイトさんの排泄臭だけが世界に取り残された。


















   Ⅵ

 まだ小学校に上がる前、漠然と自分にも死が来ることが怖くて、よく泣いていた。小さい頃は病弱で生命力が弱く、死を身近に感じていたんだと思う。そのころはまだ母が生きていて、怖い夢を見ては母を起こしていた。

 僕が生まれてすぐの頃、僕の周りで不思議なことがあった。父から聞いた話だが、赤子の僕が寝ていると、近くに虫の死骸が沢山転がっていることがあった。最初はたまたまだと思ったそうだが、それが続き、さらにはネズミや猫が死んでいるのを見て、流石に何かあると思った父は方々に相談したらしい。この子は病気なのか?それとも誰かの嫌がらせなのか?いろいろ調べたが結局何も分からず。今思えばRさんのいっていた力を意識せずに使っていたんだ。

 僕が住んでいた小さな町、「あの家に忌み子が生まれた」「死神だ」という人もいた。

 当然、小中高と学生時代の殆どは孤独だった。話しかけてくれる同年代の子もいたが、どこからか噂を聞いて離れていった。いじめられることも無かったのが救いかもしれない。

 両親は気苦労も多かっただろう。迷惑を掛けてしまった。母は僕が十歳の頃病気で死んだ。死ぬ前の母は精神が壊れていた。やさしいときもあったが、家事もせず一人で泣いていることもあった。時には暴力的になることもあった。そんなとき、僕と三つ下の妹は襖の裏側で帰りが遅い父を待った。小さな町の大人の世界で何があったかなんて分からない。けれど、僕のことで嫌なことを言われることはあったはずだ。

 僕自身も、胸のあたりに使っていない器官があるような不思議な違和感があった。使っているのか使っていないのかも分からない。力んだところで感覚は無い。いつしかそんなことを考えるのも忘れていた。困ることも無い。

 僕は他人とは違う。死を望まれているのかもしれない。けれど死ぬ勇気も無いし、死にたくない。だから家を出ることにした。

 父とも最低限生活のことしか話さない。親の義務で面倒を見てくれたが、僕がここに居続けることで迷惑をかけ続けてしまう。この町を離れた方がいい。

 妹だけは最後まで心配そうに僕を見ていた。唯一気を許せる相手だった。一緒の時間、同じ場所で過ごしただけで会話自体は少なかった。もっと可愛がってやれば良かった。妹も、僕と同じように友人と呼べる相手は見たことが無かった。僕のせいで嫌がらせを受けていなければいいのだけど。


 仕事終わり自室で一人、昔のことを思い出して気が沈んだ。

 Rさんが言っていた、僕には命を終わらせる力がある。今思い出しても信じられないし、どの道使うことは無い。

 そのとき、殆ど鳴らない僕のスマホに一件の通知が入った。

 ”近いうちにまた会いに行く。私のところに来てくれたら、今よりいい給料と待遇を保証するよ“とあった。

 あいつだ。どうやって僕の番号を知った?そんなことはどうでもいい。いまさらそんなことを知ってもどうにもならない。Rさんがまた来る。

 あのひとはケイトさんの敵なんだろうか?僕の力が必要な何かがあるのか?どの道行くわけが無い。ケイトさんは僕を受け入れてくれている。居心地がいいのだ。行くわけが無い。

 僕は明日の仕事に備え、早めにベッドに入った。けれど、寝つけなかった。不安なことがあると寝つけない。昔からだ。






































   Ⅶ

 Rさんからのメッセージが入ってから早一週間。来たらどうやって断るか、イメージばかり膨らませていた。

 僕は一階の事務所でお客さんから預かったPCのセットアップを行っていた。書類作成ソフトやセキュリティソフトのインストールなどマニュアルどおりにやれば問題ないことだった。ケイトさんは作業を僕に任せて外出してしまった。おそらくパチンコにでも行ったのだろう。店に入っていくのを見たことがあるし、近所で話しかけられる話題もパチンコや競馬のネタがよくある。

 ケイトさんは自営業。どのように時間を使おうがケイトさんの自由だ。僕が何か言うことは無い。

 僕が手元に集中していると、いつの間にか正面に背の高い男が立っていた。Rさんだった。

「今日がどのようなご用件でしょうか?」

 僕は少しぶっきらぼうに言った。内心吃驚しすぎて心臓が痛くなった。

「メッセージはみてくれたかな?君を僕のところで雇用したいんだ」

 Rさんはあらためて用件を口にした。

「僕はここで、ケイトさんの元で働いています。スカウトしてくれるのはありがたいですが、お断りします」

「今の給料の5倍は出そう。待遇も悪いようにはしない。ヘッドハンティングさ」

 Rさんはにこやかにそう言ったが、僕にはその張り付いた笑顔にものすごく厭らしさを感じた。

「何度も言わせないで下さい。僕はここでの生活が気に入っています。評価してくれるのはありがたいんですが、僕はこないだまで無職でスカウトされるような人間じゃありません」

「君の力が必要なんだ」

「力なんて分かりません」

「いや、君は知っているはずだ」

「知りません」

「君の身辺も調べさせてもらった」

 Rさんは最初よりも厭らしい顔になっていた。もう話したくない。一刻も早く帰ってほしい。

「君は地元では大分苦労したようだね」

「そんなことはありません。普通です。何を根拠にそんなことを」

「君はお母さんを殺している」

 Rさんの顔から笑顔が消え、その瞳は紫色に艶めいていた。

「何を言うんですか、そんなことあるはずない」

「君はその力を使ったんですよ、」

「そんなことありえません。力なんてありません。母は病気で亡くなったんです」

「いや、違う。少しずつ狂っていくお母さんから真綿で首を絞めるように命を奪った。そう、君だ。辛かったんだろう?」

「そんな…そんな力、僕は知らない、」

「悪気は無かったんだろうけど、君はお母さんの死を願った。君に睡っている力はそれを叶えた」

 僕は脳味噌の血管が切れたようにフッと意識が途絶えた。

 最後の瞬間、何か懐かしい花のいい匂いがした。


 どれくらいの時間がたったのだろう?気づくと暗い場所で手足を縛られていた。口には何もされていなかったけれど言葉を発せない。立ち上がれない狭い場所。

 エンジン音が聞こえる。車のトランクにいるみたいだ。けれど、外の音は殆ど聞こえてこない。今が夜なのか、それともよっぽど静かな場所を走っているのか?状況は見えてこない。

 頭が痛い。どこに向かっているんだ?

 目が覚めてから暫く、まとまらない考えが堂々巡りしていた。どこに行くんだ?どうなるんだ?ケイトさんにはもう会えないかもしれない。どうしてこうなった?少しだけ涙が出そうになった。

 五分だったか、三十分だったか、分からなくなっていたが、車が動かなくなり、エンジン音が消えた。

「気分はどうだい?起きてる?」

 少しくぐもった声でRさんが声を掛けてくる。運転席にいるようだ。

 僕は何もしゃべらなかった。

 するとRさんは車から降りて僕の詰め込まれたトランクを開けた。

「さぁ、降りて」と言って僕の足の拘束を解いた。

 ここがどこなのかは分からない、けれど建物にそのまま上がれる地下駐車場だった。

 僕はそのままエレベーターに乗せられた。降りた先はマンションの一室。ドアを開け、中に入るとかなりの高層階のようで見晴らしがいい。部屋の数も多くかなりの広さだった。

「一人で住んでるんですか?」

 僕は状況を把握するため、Rさんの背中に声を掛けた。

「そうですよ。最近引っ越してきたんです。この間も引っ越しの挨拶と簡単な依頼でもと思ったんですが、ケイトには嫌われているみたいですね」

「ケイトさんと何かあったんですか?」

「まぁいろいろですよ。味方だったときもあれば敵だったこともある。ケイトが許せないことを私は沢山してきた。自分では間違っていなかったという信念があるけれど、それがケイトの信念とは違っていた。そういうことです」

 はぐらかされているような気もするが、それ以上は聞いてもしょうが無いと思ってしまった。きっと、僕なら決断すら出来ない状況があったんだろう。

「そうなんですか…」

「まぁ、とりあえず飲み物でも用意しましょう。そこに座って」

 Rさんはリビングにある大きなソファを勧め、僕が座ると手の拘束も解いてキッチンの方へ行ってしまった。部屋の中を見ると家具は少なくモデルルームのようだった。ベランダも広く、テレビも50インチ以上のサイズがスピーカーと供に壁に埋まっている。

 手の拘束を解かれたことで逃げることも頭をよぎったが、ここがどこか分からない。引っ越しの挨拶と言っていたからケイト相談室からそこまで遠くはないだろうけど、入室の際やエレベーターにパスワードが必要だったことから簡単に出られそうにない。

 状況把握と言えば聞こえはいいが、Rさんが戻るまで、結局僕は何できなかった。

「どうぞ」

 そう言って出されたのは紅茶だった。僕は疑いつつも口をつけた。今まで飲んだことのない上品な味がして、暖かいものを飲み込むことで少しだけ気持ちが落ち着いた。

「ありがとうございます、というのも違うんでしょうか。ここはどこですか?帰して下さい」

「まぁ時間はありますから、ゆっくり話しましょう」

 Rさんはそう言って僕の隣に腰を下ろし、テレビで映画を流し始めた。「僕は力なんてありませんし、母を殺してなんていません」

「君には特別な力があります。使いようによっては時代が変わりますよ。世界を裏から支配している奴らを根絶やしに出来ます」

 そう言うRさんはテレビの画面を見続けている。字幕の洋画で僕にはよく分からなかった。ストーリーも登場人物も知らない世界の日常だった。

「僕は誰も殺しませんし、世界を変える力なんてありません」

「確かに君の力は不特定多数には使いづらいでしょう。けれど、一人の相手に対してなら確実に命を終わらせることが出来る」

「なぜそう思うんですか?」

「君のことを調べたと言ったでしょう。君の幼少の頃の不思議な出来事、お母さんの死、そして君が生まれ育った場所」

「場所?」

 思い当たるフシが無かった。

「そう、場所。あの土地には昔、君と同じ力を持った人間がいた。その力が何の因果か君に宿った。隔世遺伝かもしれないね」

「そんな話、聞いたことが無いですけど…」

 心当たりは全くなかった。それに、そんな人がいたなんて噂でも聞いたことが無い。

「かなり昔のことだからね。それに調べなくたって、私にもケイトと同じように感じる力がある。君の中には間違いなく力が宿っている。お母さんを殺したときに閉じ込めてしまったんだろう?本当は殺したくないのに。不安定なお母さんから妹を守るために仕方なかったのかい?」

「何を言うんですか?母は僕と妹を大事にしてくれていました。知った風なことを言わないで下さい!」

「いや、君は日常的に暴力を振るわれていたんだ。私には分かるよ?見えるんだ。過去にどんなことがあって、どんな感情を持っていたか」

 嫌な奴だ。誰にも知られたくないのに。もしかしたらケイトさんにも同じように僕の過去が見えたのかな。

 僕は優しかった母に戻ってほしくて毎日願ったことがあった。けれど、殺したいなんて願ってないし、力なんてやっぱり分からない。

 分からない。

「あぁあっ!もういいじゃないですか!」

 僕は紅茶が置かれたダイニングテーブルを叩き、その衝撃でテーブルからカップが落ちて割れた。そして、僕の頬から涙が流れた。

「怒らせてしまってすまない。僕は君の味方だ」

 Rさんは割れたカップを片付けるためキッチンに行った。

 僕は悔しかった。感情を揺さぶられて涙が出たことに。それに感情を揺さぶられては奴の思うつぼだ。冷静になれ。落ち着け。母さんは優しかったんだ。僕も妹も母さんが大好きだった。母さんが死ぬ前、入退院の繰り返しが続いて。なんとなく終わりが近づいているって子供ながらに分かって…。でも妹は小さくてそんなことは想像できるはず無くて。

 生きていてほしかったのに…、たとえ不安定な精神状態でも、生きていてほしかった。母さんは死にたかったのかな。抑えきれない感情を人にぶつけて後悔して、やり直しなんて出来なくて。

 僕のせいなら僕が死ねば良かったんだ。僕さえ生まれてこなければ、母は精神を壊すことも無かったかもしれない。妹だってもっと明るく活発な女の子になっていたはずだし、友達だって沢山出来ていたはずだ。

 僕がいけない。僕が生きているだけで周りの人間が不幸になる。

 何も出来ない。何も成し遂げられない。僕が生きている意味なんてあるのか?人間が生きる意味なんて無い。死んでも何も変わらない。僕一人が死んでも日常は変わらない。同じように時間が過ぎていくだけ。

 生まれる時代が違えばもっと違う人生があったのか?そんなことを考えても仕方がない。死ぬ勇気も無い僕は死ぬまで死んだように生きていくしか無いんだ。目的も目標も何も無く。ただ彷徨うように日銭を稼いで、住む場所が無ければ路上で生活をすればいい。それでもすぐには死ねないんだ。

 母は最後の入院をしたときには既に置物のようになっていた。何か言いたそうな目をしていたが、何も言わない。僕が母を殺したんだろうか?思い出そうとしても思い出せない。そもそもそんな力が本当にあるんだろうか?真綿で首を絞めるように、僕が母の命を奪った。もし、本当にそんなことがあったんだとしたら、その力は使いようによっては有益かもしれない。けれど、仮に僕が殺し屋になったとして、要人に近づく対人スキルは全くない。殺せる人間も限られている。僕はそんな専門職に就くことは出来そうに無いな。とにかくケイトさんのところに帰らなくては。

 そこへRさんがキッチンから戻ってきた。手には缶ビールを持っていた。

「今日は疲れただろう。僕も疲れたよ。とりあえず寝たくなったらこのソファを使ってくれ。この家に来客の備えは無いんだ」

 Rさんは僕の隣に座り、流しっぱなしの映画の続きを見ながらビールを飲み続けた。Rさんはその後も映画を流しながら500の缶ビールを20本近く飲み続けた。僕は酒臭い部屋のソファの隅で睡ろうと目を瞑り続けた。

 結局、Rさんが自室へ入っていったのは完全に朝だった。僕が少しだけ睡れたのもそれからだった。


 次の日も、その次の日も僕はソファから殆ど動いていない。テレビのワイドショーやニュースを見ていても、僕が行方不明になったところで取り上げられるわけも無い。世の中には家出した少年少女が山ほどいる。 食事はRさんが用意してくれた。それに、シャワーも浴びれたし寝る時間もあった。Rさんは自室に籠もったり少しだけ外出したりもした。その隙にいろいろ調べたかったが、Rさんの部屋も外に出るのも鍵が掛かっていて行動は限られていた。そして、夜は同じように内容が入ってこない洋画を流しながらぽつりぽつりと話をした。

「気分はどうだい?」

 Rさんは毎日同じように会話を始める。相手が若造だと思って簡単に丸め込めると思っているのだろう。気分が悪い。

「別に…」

「まぁ、暫くのんびりと過ごすといい。最低限の生活は保障するよ」

 Rさんは一気にビールを一缶空けた。

「帰りたいんですけど。仕事もあるし」

「ケイトのところですか、大丈夫ですよ。元々彼女は一人でやっていたんです。君は要りません」

「そうかもしれないですけど、いろいろ出来ることも増えて…、ケイトさんを助けていきたいんです」

「これからは私の仕事を助けて下さい」

 Rさんは画面から僕の方へ向き直り、紫色にギラつく瞳で僕をのぞき込んだ。僕はとっさに目を逸らしてしまった。

「確かにお金は欲しいですけど、ケイトさんがいなかったら僕は今頃どうなっていたか分からないんです」

「だから恩返しがしたいと?そんな必要はありません。長く生きているといろんなことに寛容になります。君のこともすぐに忘れてしまいますよ」

 Rさんはテレビ画面に視線を戻した。その目は画面よりもっと遠いところを見ているようだった。

「そうかもしれません。けれど、僕がケイトさんのところに居たいんです」

「なんど言ったら分かるんですか?ケイトは君を必要としていない。私の方が君を良い方向へ導ける。たとえ君に罪があっても罰は与えない。私は君の命を肯定する」

 Rさんは画面を向いたまま僕への言葉を口にする。

 僕の罪?母さんを殺したのは僕?命を終わらせる力。そんなもの要らない。僕が母さんを殺した?僕は優しかった母さんに戻ってほしかった。父と母、そして妹。僕が普通の子供だったら母さんは傷つかなかった?

小さな町で穏やかに暮らせていた?妹はもっと活発な女の子になっていた?父は家族と距離を取ることもなかった?

「君が罪の意識をもっていたとしても、それはそれ。誰も証明することは出来ない。自分の中で勝手に懺悔すればいい。君が生きる意味は私のところにある」

 黙った僕に対して、Rさんは優しく囁いた。

「Rさん、僕にもお酒を下さい」

「なんだい?美味しそうに見えたのかい?」

「いや、なんだかどうでも良くなってきました」

 それは僕の本心だったかは分からない。けれど、僕の弱さであることは間違いなかった。

「お酒は良いよ。嫌なことを忘れさせてくれる」

 僕もRさんと同じ缶ビールを開け、喉の奥に流し込んだ。今まで殆ど飲んだことは無かったが、存外悪くない。脳がぐらぐらする。

 その後も僕とRさんは朝まで酒を飲み続けた。明日の心配は必要ない。話したことの殆どが記憶に残らなかった。

「すべて私の言うとおりにすれば、それが生きる意味になります」

 Rさんの言葉だけが耳に残っていた。































   Ⅷ

「ふっふふーん、ケイトさんが帰りましたよ~!マキオ~!どこです~?」

 ケイトはパチンコの景品が入った大きな袋を下げ、もう片方の手にはカップ酒が握られていた。

「マキオ~、臨時収入で外食にしますよ~、どこですー?」

 家の中をざっと探してみたが、返事も無く見つからない。マキオのスマホに電話をしてみたが、掛けた相手が出ることは無かった。

「もぅ、まったくどこにいったのっ」 

 ふと、厭な残り香を感じた。帰ってきたときは自分の酒臭さで分からなかったが、事務所のあたりに金木犀の匂いを感じる。

「まさか、あいつが来たの?」

 一気に目の前が真っ暗になり、胃の中のものを全部廊下に嘔吐した。

「ウッフッ、なに?どうして?何がおこっているの?」

 ふと、事務所のドアに何かが挟まっているのが見えた。

 それは、小さな紙切れだった。何かが起こったのは明白だった。そこには「新しい仕事が見つかったので辞めます。ありがとうございました。」と書かれていた。

 なぜ?どうして?奴について行ったの?

 自分の吐瀉物をトイレットペーパーで拭き取りビニール袋に詰め込みながら、まとまらない考えに焦っていた。

 奴は昔から人を欺すのが上手かった。けれど、マキオがただ奴について行くわけが無い。

 その後、監視カメラの映像を確認したが、何も写っていない。あからさまなダミーの映像が続いていた。

 とにかく、探しに行く。

 顔と口の中を洗い、着替えをすませ、探す準備を整えた。集中してマキオの痕跡を辿る。ケイトにはマキオが辿った道筋が光りの線で見えている。歩いて光の線を辿っていく。こんな日に限ってパチンコをして酒を飲んでいた自分が情けない。

 ケイトの頬を涙が流れた。マキオは奴を選んだのか?感情的になっているのは酒のせいだけではないだろう。マキオは私にとって大事な存在。ずっと一緒に居てくれると思っていたのに。奴を許さない。焦る気持ちを抑え、一歩一歩光の線を辿って行く。

 けれど、光の線は商店街の端で消えていた。歩いていた時間は30分程度、大した距離では無い。奴も私の力を知っている。対策を取られているのは当たり前だった。

 ここを通ったのは確かだ。これ以上どうやって探すか、足を使って周辺の人に聞き込みをするしかない。

 ケイトは一度事務所へもどり、奴が先日店にやってきたときの監視カメラの映像から、Rが一番鮮明に分かる部分をプリントアウトした。

 その後、また同じ道を辿り周辺のお店に聞き込みを行った。

「あぁ、この人ね。最近よく見るよ。平日なのに大量のお酒を買っていくし、スラッとしてかっこいいのに上下スウェットだから変に目立つのよね」

 情報はあっさりと出てきた。一発目で聞いた肉屋の女性店主は店じまいをしながら話してくれた。

 やはりこの辺が奴の行動範囲らしい。あっさりしすぎて罠とも思える。「ありがとうございます。助かりました」

「いやいや、良いってことよ、それより売れ残り買ってってくれない?お姉さん綺麗だし、格安にしとくよ?」

 正直食欲は無かったが、胃の中身は全部吐いてしまっていた。何か食べなければ体力が持たなくなる。でも、揚げ物は重いなぁと思いながらも親切に答えたい気持ちが勝った。

「ご親切にありがとうございます。いただきます」

 女性店主は売れ残りをパックに詰め込み、全部で500円で良いよと言ったので会計を済ませた。まさか売れ残り全部だとは思わなかった。

 詰め込む作業を見ていて不安に思ったが、パックは5つビニール袋に入っていた。格安だが一人で食い切れるだろうか?

 ケイトは近くのベンチに座り、次の作戦を練りながら大量の揚げ物を食べることにした。

「さて、どうしようか」

 今後の作戦のこともそうだが、この大量の揚げ物。売れ残りと言っていたが不思議と油臭さは無かった。ひとまずコロッケを一つ。ソースも付けてくれたが、一つ目はそのままかぶりついた。

「おいしー!」

 思わず大きい声が出てしまった。

 ケイトは一つ目の勢いそのままに5パックを全て平らげ、そしてまた吐き気を催していた。ベンチで横になっても暫く動けそうに無い。

 今頃、マキオはどうしているだろう。奴に連れ去られたのは間違いない、それに、奴に何かを吹き込まれているのも間違いない。

 あの置き手紙は本心ではないんでしょう?私はマキオを信じています。 今後の作戦としては、張り込みを行う。奴は定期的に買い物には来ているようだ。見つけたら尾行する。建物まで分かればマキオの痕跡もあるかもしれない。その後は外から中の状況を確認して、奴が外出中にでも侵入する。

 仕事はまたキャンセルすることになる。それでも、マキオを助け出す。マキオは私と生きて死ぬ。それは運命だから。

 

「ククッ、ケイトは馬鹿ですね。相変わらず」

 Rは自室に6面のモニターを並べてケイトの行動を監視していた。

 モニターの内容はRの意のままに切り替わる。ケイト相談室の監視カメラもRには筒抜けだった。さらに商店街の定点カメラはもちろんドローンも駆使していた。

「彼を探しに来たのに、大量の揚げ物を買わされて動けなくなったと思ったら、その後も隠れているつもりかゴミ箱に入ってみたり、コンビニで立ち読みのフリをするつもりだったのだろうが、雑誌に見入ってしまったり。能力がある人間はあまり集中力がありませんね」

 Rはマキオの隠れた能力を手に入れたいというのも本心だが、ケイトの心が折れるのを楽しんでいるのもまた本心だった。

「滑稽な姿を見ながら飲む酒はとても美味い」

 Rの部屋には空き缶だけが詰め込まれたゴミ袋が積み上がっていった。

 マキオはリビングでTVを見ながらぼうっとして過ごしていた。ここに来て数日。今のところ特にやることはない。

 何かしなければダメになる。せっかく真面目に働いて自信をつけていたのに、また振り出しに戻ってしまう。ここから出られないならせめて掃除ぐらいはやって身体を動かしていないと落ち着かない。

 Rさんが外出中、テレビを消して掃除用具を探した。使い捨ての拭き取りモップがあったので、それで自分の生活空間を綺麗にすることにした。Rさんはいつも外出の際には自室に鍵を閉めていくので入ることは出来ない。けれど…

「あれっ?そういえば、今日は鍵を閉める音がしなかった気がする…」

 Rさんの自室のドアをおそるおそる確認すると鍵は開いていた。

「簡単に掃除しておくか、怒られはしないだろ」

 マキオは楽観的に考えていたが、部屋の中は酒の空き缶が詰まったゴミ袋だらけ。見なかったことにした方が良さそうだと思った。

 暗い部屋で、壁際に複数のモニターが暗い部屋を煌々と照らしている。 見覚えのある町並み、監視カメラの映像のようだ。

 その中の一つになぜか見覚えのある顔が写っていた。商店街のベンチで背もたれに寄りかかるようにして寝ているダサいジャージに金髪ショートの女性。

「えっ?あれっ?名前が出てこない。この人を知っている気がする…、この人は…?」

 マキオの記憶からはケイトとの記憶が消えかけていた。Rが行った複数の意識操作でマキオは意識が混濁している状態だった。

 カメラの画面上では、ベンチで寝ている女性の後ろをRさんが通り過ぎている。一瞬Rさんが女性を見て笑った気がした。

 僕は部屋には入っていないことにして、廊下やキッチンの掃除をしてRさんの帰宅を待った。部屋に入ったのがバレたらどうなる?いや、どうもならない?僕が必要と言ってくれているんだし、バレても問題ないだろう。

 それにしても、あの人を知っているのに思い出せない。僕の頭が悪いんだろうか?思い出せないことをずっと考えてしまうクセがある。検索しても辿り着けないことをいつまでも。


 ケイトが不審なドローンの存在に気付いたのは、マキオの捜索を開始して1週間以上が経過してからだった。一瞬光る物体が裏路地に入っていくのが見えた。

「ドローン?」

 誰かがいたずらに無許可で飛ばしているだけとも思えたが、ケイトはマキオの操作に行き詰まっていた。

 ケイトも裏路地に入っていく。湿ったカビ臭さがあったが、今の自分はそれ以上に臭っている。定期的に着替えだけはしているが、シャワーは浴びていなかった。物体の影は縦に長い雑居ビルの3階あたりに消えていった。

「あやしいわね…、あまり使いたくないけど」

 ケイトは俯瞰した景色をさらに透視することが出来る。今のケイトは出来るだけ能力に頼らず、普通の人間として暮らすことを望んでいる。特別な力を使うのはは最小限に留めていた。

「あれは、やはりドローンね。自動で充電しに戻るのかしら」

 ケイトは寂れた雑居ビルの階段を上り、ドローンのある部屋を目指した。目的の部屋の鍵はメーターボックスに隠されていた。

「古い建物だし、セキュリティなんて無いような物ね」

 鍵を開け部屋へ入る。いつから空き部屋なのかは分からないが、壁紙は全て剥がされ、床もコンクリートが剥き出しだった。ケイトは警戒しながら充電中のドローンに近づいた。

「見つけた、やはりRが飛ばしていたのね」

 ドローンに残された痕跡を見つけたケイトは光の道を辿ってく。































   Ⅸ

 ケイトは警戒していた。今までの行動は筒抜けだったと思って良いだろう。私がRのアジトを突き止めたことはバレてはいけない。ケイトは一度態勢を立て直すため事務所に戻り、着替えを済ませ、必要な道具を揃えた。

「気休めかもだけど、一応ね」

 事務所の防犯カメラのリアルタイム映像も自分が映っているダミー映像に差し替えた。

 ドローンの痕跡を辿り、見つけたのは高層マンション。幸い近くに同程度の建物があったため、身を隠しながら望遠レンズで部屋をのぞき込むことが出来た。

 窓が反射して中が見えずらいが、物が少なく、ソファに人が居るのが見える。

「マキオ!無事で良かった」

 ケイトはレンズをのぞき込んだまま囁くようにそう言った。けれど、マキオはただソファに腰掛けているだけ、数時間何もせず、ただぼうっとテレビを眺めているだけだった。もしかすると既に何らかの洗脳をされているのかもしれない。マキオに連絡を取りたいが充電切れか、大分前から不通になっている。

 マキオの居る部屋の状況を確認して数時間が経過した頃、Rが現れた。寸足らずな上下スウェットでだらしなさが滲み出ている。Rが長身だからなおさら残念な仕上がりに見えた。

「相変わらずセンス無いわね」

 Rはマキオに声を掛け、財布など最低限の物を身につけた。一人で外出するようだ。

「あれで外出する気?本気?」

 ケイトも普段着がジャージだが機能性を優先していると周囲に話している。けれど、ケイトは本当にジャージのデザイン(緑色に2本ラインの安物)が良いと思っていた。

「私とは違うわね。やはりあいつとはしっかり決着をつけなくちゃいけないわ」

 Rが商店街の方へ歩いて行くのが眼下に見えた。

 そこからさらに数日、Rの部屋を監視し、行動パターンが見えてきた

「さて、どうしましょう。仕事もいつまでも休むわけにはいかないし、明日…、明日、マキオを取り戻すとしましょう」

 ケイトは自分を鼓舞するように独り言ちた。


 翌日の昼下がり、Rが外出するのを確認したケイトは屋上からの侵入に試みた。目立たないように、何らかのセキュリティがある可能性を考え、細心の注意を払いながらも時間を掛けずに行動し、垂らしたロープで目的の部屋のベランダに降り立った。

「ひゅ~、到着っと」

 室内に居るマキオはこちらに気付かず、相変わらずソファに座りテレビをぼうっと眺めていた。ケイトはマキオに再会できた喜びを抑えつつ、コンコンとガラスをノックした。

「マキオ、マキオッ」

 小声では気付いてもらえず、次第に声が大きくなり、ガラスをバンバン叩いていた。

「マキオ!」

 ケイトはそのとき初めて、マキオが普通の状態ではないことに気付いた。目が虚ろで生気を失っている。肩から手に掛けてだらんと垂れ下がり、まるで人形のようだった。

 時間は掛けられない、ケイトはガラスをぶち破ることにした。

「えいっ」

 ガラスは厚みがあり丈夫だったが、フレームの縁を小型のハンマーで叩くことであっさり割ることが出来た。

「マキオ!」

 中に入ったケイトはマキオの両肩に手を置き、揺さぶるようにした。

 マキオは何も見ていなかった。虚ろな瞳には何も映っていない。

「マキオ、逃げましょう、マキオッ」

「あなたは誰?僕はここで仕事をしなくちゃいけませんので」

 マキオが洗脳状態にあるのは明白だった。

 ケイトはふと、部屋に充満した悪臭に気付いた。

「何の匂い?お香?酒?それとも何かの薬物?」

 部屋に充満した混沌とした悪臭で気分が悪くなる。

「ここにいてはダメよ、おかしくなるわ」

「おかしく?何ですか?それは」

「あなたは既に私との雇用契約があります。帰りますよ!」

 ケイトは内心焦っていた。あまり時間が掛かりすぎると奴が帰ってきてしまう。

「僕はあなたに雇われているんですか?」

「そうよ、あなたは急にいなくなったんです。帰りましょう」

「そうなんですか、急にいなくなってすみません。僕はここでやるべきことがあるそうなので行けないです」

 マキオは会話こそ出来ているが、思考能力が無くなっている。

「あなたは利用されるだけです。あなたがやるべきことは私とともに生きることです。ここで薬漬けにされることではありません!」

 マキオは現状話が通じない。ケイトは強硬手段で連れて行くことを決めた。

 腕を引き上げても立ち上がってくれない。なんとか立ち上がらせても歩こうとしない。ケイトは仕方なくマキオを負ぶっていくことにした。

 負ぶったマキオは何故かケイトのうなじのあたりに鼻を押し当て、匂いを嗅いでいた。そして、ケイトの首筋をペロペロと舐めはじめた。

 暫くシャワーを浴びていないので、汚れているはずの身体を美味しそうに舐めている。

「これがマキオの本性でしょうか…、私のことが本当に好きなんですね。そう信じましょう」

 兎に角、一刻も早くここを出なければいけない。二人は玄関の方へ向かう。

「なにか仕掛けがあったとしても、壊していきましょう」

 ケイトは自分に言い聞かせた。

 案の定、玄関は外へ出るのにもパスワードが必要だった。壊したら壊したで、次の仕掛けがあるに違いない。

「けれど、壊すしかないでしょうね」

 屋上からのルートは一方通行。帰りは建物内を通ることを想定していた。

 そのとき、ケイトは外側に人の気配を感じた。

 ガチャリ

 間に合わなかった。出来れば会いたくなかった。ケイトは瞬時に気持ちを切り替えた。ドアから離れ、マキオを下ろし、両手をフリーにした。

 ドアを開けたRも一瞬驚いた様子だったが、すぐにいやらしい笑みを浮かべた。

「最近見かけませんでしたが、どこに隠れていたんですか?ケイト」

「どうやら出し抜けていたみたいですね。あなたはずっと私を監視していたんでしょう?」

「大分楽しませてもらいましたよ。けれど、途中で見失ってしまいました。お酒を飲みながら出来る相手ではありませんでしたね」

 Rは大量の酒が入った袋を玄関の脇に置き、ケイトと同じように両手を自由にした。

「あなたマキオに何をしたんです!この悪臭も何かの薬物ですか?私はマキオを連れて帰ります!」

「何を怒っているんですか?マキオ君は私と新しい雇用契約を結びました。あなたのところより高い給料を払います。勝手に連れて行かれると困りますねぇ」

 Rは余裕の表情をしているが、身体は臨戦態勢に入っている。

「自我を無くしておいて何を言っているんですか?そんな身勝手なことは許されません!マキオはあなたなんか選びません!」

「それはマキオ君が決めることだ。ケイト、あなたが口を出すことじゃない」

「マキオは私の助手です。あなたのやっていることは拉致監禁です」

「拉致監禁とは言いがかりですよ。ですが、マキオ君が私たち長命の者にとって毒にも薬にもなる貴重な存在というのは認めざるをえません。あなたも分かっているのでしょう?」

「だからって、マキオをこんな状態にするなんて…」

 ケイトは怒りと同時に、自分もマキオを利用していたんじゃないかという疑念を抱いた。

 いや、私には未来が見えた。マキオと一緒に生きて死ぬ。私はマキオを利用するんじゃない。お互い助け合って生きていける。Rとは違う。

Rは裏社会で生きる長命種をマキオに殺させようとしている。利権を根こそぎ奪おうとしている。

「あなたはマキオの力を使って世界の裏側を仕切りたいんでしょう?私たちは私たちの小さい世界で一生懸命仕事をしていくの。邪魔しないで」

「ケイト、あなたの小さな器にマキオ君は収まりません、私に任せて下さい」

「嘘はやめて。昔からあなたは嘘まみれなのよ。信用なんて1ミリも出来ないわ」

「信用されていませんね。ですが、そんなことは関係ありません。ケイト、あなたのやっていることは全て無駄です。彼を救えるのは僕だけ、そして僕を救えるのも彼だけだ。お前は彼の何を知っている?僕は彼の家族構成、生い立ち、身辺のことは一通り調べさせてもらった」

「そんな、人のことを調べて知った気になったってしょうがないじゃない!私は今のマキオを知っている。彼は私の運命。共に生きて共にに死ぬ。自然体で生きていくのよ」

「それは無理だ。お前だって彼に殺してもらわないと死ねない」

 Rはケイトの美辞麗句が偽物だと切って捨てた。



   Ⅹ

 女性の声が聞こえる。聞き慣れた、ずっと聞いていたいような声。けれど、感情的になっている。


「未来のことは分からない、けど、私の所で仕事を始めてから少しずつ笑顔を取り戻していた。これから家族とだって良い関係になっていける。  マキオ!マキオッ!私と帰るのよ。

仕事は沢山リスケしちゃったから、きっと忙しくなるわよ」


 僕を呼んでいる…。女性は感情的になるあまり少し涙声になっている。「マキオ、その女は敵だ!殺せ!力の使い方は分かるだろう!」

 男の声には従わなければならない。マキオはそう感じた。

 マキオは自分の身体の血が全部止まっているような感覚でもなんとか立ち上がり、敵の女性に力なく覆い被さった。

 なんで?どうして、みんな好き勝手なことを言うんだ。

 目の前の二人は僕のことが必要というけれど、僕には何も必要ない。僕はひっそりと死にたい。誰にも知られず。誰とも関係を築かず。いなくなりたい。生きる意味なんて無い。帰る場所なんて無い。家族に会わせる顔なんて無い。自分は失敗作。忌み子。嫌われて生きてきたし、これからもそれは変わらない。みんな僕を排除しようとする。抗ってもしょうがない。人の群れは無感情に人を殺す。僕の一つの命。相対的に減少する一つの数字に過ぎない。命に重いも軽いもなく消えるのに意味なんて無い。見えない水圧に押しつぶされて消える命。僕はそれだ。誰も悪くないし良くもない。僕が勝手に苦しがっているだけ。

 生き方が下手で死んでいくだけ。

「マキオ!ダメ!それ以上思考に飲み込まれては奴の思うつぼ!戻れなくなる。お願い、あなたと私は家族よ、安心していいの。戻ってきて」

 誰かが呼んでいる。目の前の綺麗な女性。なんでこの人に覆い被さってるんだっけ…。

「マキオ!そいつを殺せ!それは意味のあることだ!」

 男の声に反応し、感じたことの無い凶暴な何かが暴れろと言っている

「マキオ、あなたの優しさは私が知ってる!目を覚ましてっ」

 目の前の女性は泣いていた。涙が頬を流れ落ちていく。

 気付くと、僕の目からも涙が流れていた。女性の頬に落ち、彼女の涙と一緒に落ちていく。

 女性の髪を乱暴に掴んだが、その金色に輝く髪がひどく愛しい。涙が止まらない。

 この人は敵じゃない。何でこの人に覆い被さってるんだっけ?

 分からない。なにをすればいいんだっけ?何もしない方がいいかもしれない。わからない。

「マキオ!何してる!早く殺せ!」

 男ががなり立てる。知らない。僕はこの人のことを何も知らない。

 知りたいとも思わない。

「この役立たず!どけっ」

 男は僕の横腹をつま先で蹴り上げた。僕は壁際まで転がり、痛みで立ち上がれなかった。

「ケイト、お前の胴体と首を切り離してあげましょう。お前の命はそれで終わりだ!治癒も出来ないほどにズタズタにしてやるよ!」

 男は猟奇的な笑みを浮かべ、鋭く研ぎ澄まされた両の爪を女性に振り下ろした。


 ブスッ


 僕が男を刺した。Rさんだったっけ。僕はケイトさんを救うため、男の腎臓のあたりを深く、深く刺した。ポケットに忍ばせていたナイフ、忘れかけていた。ずっと前から持ち続けていたナイフ。自分を守るために持っていたナイフを人を守るために使うなんて思わなかった。

 けれど、僕は取り返しのつかないことをした。どれぐらい刑務所に入るんだろう?僕は正気で冷静だった。

「ケイトさん、ごめんなさい。僕は暫く刑務所に入らなくちゃ…」

 僕の両手はRさんの血でどろどろだった。

 ケイトさんは立ち上がり、僕を優しく抱きしめ、「大丈夫。大丈夫。後は私に任せて」そう言った。
























   Ⅺ

 頭が重くて起き上がれない。目を開けると知ってる天井だった。窓が開いていて気持ちのいい涼しげな風が入ってくる。

 僕がRさんを刺した後、ケイトさんに大丈夫と言われた記憶ははっきりしている。けれど、そのあとの記憶が無い。

「ケイトさん…」

 僕はなんとか立ち上がり、よろめきながらも一階に降りた。居間に入ると人とぶつかり、押し倒す格好になってしまった。

「マキオ、起きたんですね。最初にこんなおばさんを求めるなんて…」

 ケイトさんはシャワーを浴びていたのか、身につけていたタオルがはだけている。僕はそのままケイトさんを抱きしめた。

「ケイトさん、無事でよかった」

「マキオ、あなたこそ」

 ケイトさんも僕の背中に腕を回した。

 僕は刺した瞬間のことを思い出した。結局、僕自身は自暴自棄のままだった。けれど、以前と違うのは自分を犠牲にしてもケイトさんを守りたい、尽くしたいという気持ちがあることだ。

「ケイトさんはおばさんじゃないですよ」

 ケイトさんは綺麗だ。食事はズボラで、いつもジャージ。けれど、輝く金色のショートヘアに透き通る白い肌。全体的にスラッとしている。見た目は間違いなく綺麗なお姉さんといった感じだ。年知らんけど。

「ケイトさん、僕、自首します」

「その必要はありません。そんなことをされても困ります。Rは死んでいません。あの程度の傷ではすくに復活します。なので私が両手足切り落とした後、知り合いの専門家に預けました。あなたは何も悪くありません。ここに居てもらわないと困ります」

 ケイトさんはさらっと怖いことを言っていた。おそらく、ケイトさんは過去にもっと残酷なモノを沢山見てきたんだろう。けれど、ひとまず安心した。心につっかえていた問題から解放された。

 僕は久しぶりにケイトさんの匂いを堪能した。

 そのとき、ポケットの中でスマホのバイブが震えた。

「んっ…」

 ケイトさんは艶っぽい声を出し、腰を少し浮かせた。辛うじて張り付いていたタオルも完全にはだけていた。

「ぅっ…、マキオ、そんな…、道具、使って…、バカ…」

 大きな衝動で、気が狂いそうになった。けれど、なんとかスマホを取り出し、通話アイコンを押した。ケイトさんの裸を見ていたい気持ちもあったが、僕は画面に表示された相手の顔を思い出し、立ち上がり背を向けた。

「もしもし…」

 相手は父だった。父も息子との関わりかたに悩んでいるんだろう。話の切り出し方から最後まで、少し緊張が伝わってきた。要点をまとめると、母の命日ぐらい顔を出せということのようだった。

 最初から分かってる。捻くれまくってどうしようもないけど、僕は父も妹も愛しているし、愛されている。死んだ母もそうだった。

 素直になれない、会わせる顔がない。見窄らしい自分が厭になる。少しはマシになったけれど、自信は持てていない。

「ケイトさん、少しお休みをいただきたいです」

 通話を切った僕は、半身に振り返りながら伝えた。

 ケイトさんは既にタオルを身体に巻き直し、手櫛で髪を整えていた。

「えっ?なぜです?」

「実家に帰ります」

 ケイトさんは整えた頭に両手をやり、小声で「ガーン」と言った。放心状態になっている。

「ケイトさん、明日には帰ってきます。母の命日ぐらい帰ってこいと言われまして」

「あぁ…、そうですか。それは大事ですね。ふぅ、びっくりした」

 明日が母の命日、今日実家に帰って、明日の夜にはまたここに帰ってくる。 僕はケイトさんの作った握り飯を一ついただき、少しの荷物をまとめて駅に向かった。

























   Ⅻ

 僕はまた”ケイトなんでも相談室“で働き始め、毎日忙しくしている。 先日、母の命日から戻ると、ケイトさんが珍しく深酒しているようだった。昨日の今日で居間が汚部屋と化している。

「ただいま戻りました」

 僕は深酒しているケイトさんのことも汚部屋になっていることも触れずに挨拶をして自室に戻ろうとした。

「うっ…ひっく…」

 ケイトさんは俯いていた。僕はテーブルに涙がぽたりぽたりと落ちていくのを見て足を止めた。

「…私を捨てないで…、一人にしないで…」

 ケイトさんは突如僕に飛びかかり、口のあたりに舌を這わせた。僕もケイトさんの舌を受け入れ、されるがままだった。

 予定はちゃんと伝えて納得していたと思ったが、やはり僕が帰ってこない可能性も考えていたんだろう。

 僕は冷静で正気だった。押し倒されて打った後頭部が痛いし、ケイトさんは酒臭い。

 けれど、受け入れ、よしよしと頭を撫でてあげると気持ちよさそうにしている。ケイトさんは猫と同じ習性かもしれない。

 大分、年上なんだよなぁ。この人。

 ずっと一人、慣れない土地で頑張ってきたんだろう。無理して押さえていた寂しさとかの感情がお酒で制御不能になったみたいだ。

 その日、僕たちはそのまま床で寝てしまった。


 翌朝、身体が痛い。

 ケイトさんは既に仕事の準備をしていた。

 前日のお酒が残っているようで、だるそうにしながらも食事の準備を終えていた。

 今日は草野球の助っ人。報酬は現物支給、商店街の方々が食料などを用意してくれているらしい。先日、大分仕事のキャンセルをしてしまったケイトなんでも相談室としてはとてもありがたい報酬だった。

 球場まで徒歩で向かい、準備運動やキャッチボールをして試合開始となった。相手は工場勤務の人たちが集まった、見るからに屈強な選手たちだった。

 1回の攻撃、ケイトさんと僕はベンチに座り、仲間の打席を見ていた。商店街の人たちも善戦している。

 ケイトさんは昨日の酒がまだ残っているようで、少しぼうっとしている。

「マキオ、あなたの特別な力、出会った瞬間に分かりました。触れもせずに未来が見えたのも初めてのことです。あなたと一緒に生きて一緒に死ぬ未来」

 僕は隣のケイトさんのエメラルドグリーンの瞳を見つめていた。ケイトさんは不思議な力を使うことがある。本人がそう言うなら、そうなるのかもしれない。

「こんなこと言われても困ると思いますし、話すべきではないかもしれません。けれど、今はそんなことどうでもいいぐらい、大事に思っています」

 ケイトさんは社会になじめなかった僕を受け入れ、許しを与えてくれた。僕も大事に思う。

 とりあえず今の生活が長く続けばいいなって思う。ケイトさんと一生懸命仕事をして沢山いろんな話をして、笑ったり泣いたり。

「僕も大事に思ってますよ」

 少し恥ずかしかったが、口に出してみた。

「そうですか。ありがとう」

「先日実家に帰ったとき、家族と久しぶりにご飯を食べました。もう二度とないと思っていたのに…。生きていれば絶対ないと思っていたことが案外あっさりあるモノですね」

「そうです。生きていれば良いこともあるし、悪いことにも遭遇する。そして必ず死にます。明日はどうなるか分かりません。ですが、私とマキオはずっと一緒です」

 クスッと笑うケイトさんはやっぱり綺麗なお姉さんだった。

「次、ケイトちゃんだよ」

 横から魚屋のオヤジがバットの持ち手をケイトさんに差し出した。

「じゃ、行ってきます」

 ケイトさんはよろけながらもネクストバッターズサークルに向かった。

 打席に立ち、一球目からフルスイングして腰を痛め、その上前日の酒臭いゲロを吐き出したケイトさんははたして助っ人報酬を得ることが出来るのだろうか?


                         了


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