8 消えた光
神殿からひとつの小さな光――ココが消えた日。
その静かな夜は、誰も気づかぬまま運命を揺るがし始めていた。
早馬は書類を載せ、月明かりに照らされた街道を駆け抜けて神殿へとやって来た。
時刻はとうに閉門時間を過ぎていた。
門の兵士に封をした書類を手渡すと、騎士は短く礼をして闇に紛れるように去っていく。
「まったく、身請けの書類なんぞ、こんな時刻に持ってきやがって」
門番のひとりがぼやくと、もうひとりがにやりと笑った。
「身請けが決まって、はやる心を抑えられんのだろうよ」
「待たせておけばいいさ。どうせ明日だって変わりゃしない」
門番は肩をすくめ、書類を懐にしまうと仮眠室へ姿を消した。
翌日の午後、神殿長の部屋に届けられた書類の束の中に、
その封筒がようやく紛れ込んでいた。
「ほう、身請けとな。……エルガード公爵も、ついに我が手の中か」
神殿長は機嫌よく鼻を鳴らし、書類に目を通す。
しかしすぐに眉をひそめた。
「……ココ? そんな聖女がいたか?」
隣で控えていた神官長が首をかしげ、紙をのぞき込む。
「ああ、確か下働きの娘にそんな名がありましたな」
「下働き? どういうことだ。聖女長を呼べ」
ほどなくして、慌ただしく聖女長が部屋へ入ってきた。
神殿長の厳しい視線に、彼女は思わず背筋を伸ばす。
「ココという名の者はおるか」
「はい、下働きにおりましたが……」
「おった? では今はどうした」
「……身請けされて、神殿を出ましたが?」
「はあっ!? 誰が許可をした!」
神殿長の声が響く。神官長が静かに机上の書類を指さした。
「許可のサインは、そこにございますな」
神殿長は息を呑み、書類を凝視した。
そこには、紛れもなく自分の署名。
昨夜、誰にも確認されぬままに押された印。
「ば、ばかな……なぜ下働きなど……」
呆然とつぶやく声が、重く沈んだ室内に響く。
エルガード公爵を取り込む算段は水泡に帰した。
だが神殿長はまだ知らない。
自らの手で、どれほどの“光”を手放したのかを。
その夜、神殿の回廊はいつになく静かだった。
風が白い布を揺らし、遠くで鈴の音が微かに響く。
誰も気づかぬうちに、ひとつの小さな光が神殿を離れていた。
♢ ♢ ♢
いつもと変わらず日が昇り、木々の葉が朝の光を受けて輝いていた。
朝日に照らされた神殿の中庭では、聖女見習いたちの噂話に花が咲いていた。
「ビッグニュースよ」
運んでいた聖水を庭石の上に置き、庭掃除をしていた聖女見習いたちに手招きをする。
どこからともなく聖女見習いや下働きたちが集まり、賑やかな声が中庭に響いた。
「昨日、門番から聞いたんだけど、早馬が来たらしいわ」
「あら、あなた、門番と仲がいいの?」
後ろから来た聖女見習いが、もう一人の肩に手を置いた。
「知ってるわ。エルガード公爵の話でしょう? 聞いた?」
「聞いたわよ。下働きを身請けしたとか、信じられないわよね」
神殿の中には、機密なんてあってないようなものだ。
「ねぇねぇ、どんな子? 可愛い子?」
「さぁ? あまり目立たない子だって聞いたけど……」
「私、知ってる。いつも図書室でサボってた子よ。やせっぽちで、みすぼらしい感じ」
「あの子ね! 歌いながらほうき振り回す子じゃない?」
ひとりが手を叩くと、皆が一斉に頷いた。
「そんな変な子、どこがいいのかしら?」
「なんでも、たまたま聖水を届けたとか」
「えーーーっ、たったそれだけ?」
「羨ましすぎるぅ~~~」
「ちょっと、聖女長様がこっちに来るわよ!」
聖女見習いは慌てて石の上の聖水を取り、小声で言う。
「またね」
それが合図のように、
あっという間に見習いたちは自分の仕事に戻っていった。
その様子を、聖女の一人が忌々しげに眺めていた。
「聖女長様、噂など、しばらくの間だけですわ」
聖女長はツンと顔を上げ、聖女に目もくれずに言う。
「たかが、みすぼらしい下働き一人に振り回されるとはね。情けないわ」
周りの聖女たちは、美しい顔をゆがめた。
あの日運び込まれた騎士たちには外傷はなく、聖女たちの出番はなかった。
おまけに、付き添いの背の高い騎士が、彼女たちを部屋に入れなかった。
今さらなことだ。もう彼らは、それぞれの領地に帰っていったのだから。
下働きを身請けするなど、前代未聞の珍事。
――後世に語り継がれることに違いない。
まさかね――。
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次回は明日の朝です。楽しみにして下さいね。




