42 静かな午後が走り出す
小さな町に、ひとしずくの波紋が落ちた。
「随分と過保護だな。他国に軍事力を持つ公爵がホイホイと入ってくる気か?」
「国賓としての正式な訪問だと言っている」
ディーンとフェルの睨み合いが限界に達しようとした、その時。
「――まあ、話し合いなんて最初からする気はなかったがな」
フェルが不敵に笑う。
次の瞬間、ソファーを蹴って立ち上がると、ココの腰を長い腕でひょいと抱え上げた。
「えっ!? ひゃっ……ちょ、ちょっと!?」
「なっ、フェリクス貴様!」
驚くディーンとクロードを尻目に、フェルは執務室の窓枠にひらりと飛び乗った。その身のこなしは、とても庭師のものとは思えない。
「親父殿が死んだら寝覚めが悪いんでね。こいつは先にもらっていくぜ――十五歳の公爵殿」
「待て、この誘拐犯!!」
ディーンの怒声が響く中、フェルはココを抱えたまま、二階の窓から中庭へと躊躇なく飛び降りた。
「きゃあああああ! 落ちる〜〜!」
ココの悲鳴が風に攫われる。だがフェルは音もなく着地すると、鋭い指笛を鳴らした。
ヒヒーン! と高いいななきと共に、一頭の立派な駿馬が駆け寄ってくる。フェルが身分を隠して乗ってきた愛馬だ。
「さあ、急ぎの旅だ。舌を噛むなよ、ココ!」
「ちょっと、む、無理です! 私、馬は苦手――心臓が……っ、無理無理無理!!」
フェルはココを馬の背に座らせると、自らも軽やかに飛び乗り、手綱を握った。あっという間に馬は駆け出し、屋敷の門を風のようにすり抜けていく。
開け放たれた窓の縁に、ディーンは無意識のうちに拳を打ち付けた。
「あの野郎……絶対に許さん!!」
ディーンは振り返り、廊下に控えていた護衛騎士に向かって怒鳴った。
「バルドゥ!! 馬を出せ! 一番速い馬だ!!」
「は、はいっ!? 閣下、一体何事――」
「いいから急げ!! ココがさらわれた!!」
普段の冷静沈着な辺境公爵の面影はどこへやら。十五歳の少年らしい焦りと怒りを爆発させ、ディーンはマントを翻して部屋を飛び出していった。
残されたクロードは、開いた窓から吹き込む秋風を受けながら、静かに胃の辺りを押さえた。
「はぁ、……だから言ったでしょう。あれはただ者ではないと」
♢ ♢ ♢
こうして、ココを強奪したフェル。
激怒してそれを追うディーン。
そして巻き込まれたバルドゥ。
国境へ向けた猛烈な追跡劇が、いま幕を開けた。
「フェル! 急に出てきちゃって大丈夫なの?」
「気になる?」
「もちろんよ。私はディーン様達にお世話になっているんですもの」
馬の歩みを緩め、フェルはココの顔を可笑しそうにのぞき込んだ。
「そのうち追ってくるさ。国境にある宿場町で待とう。あいつも待ちぼうけているからな」
「えっ? あいつって誰?」
「さっ、急ぐぞ。舌を噛まないようにな」
フェルはそう言うとまた馬の速度を上げた。
「や、やめて〜〜! いくらなんでも速すぎるってば〜〜!」
ココの絶叫が街道にむなしく響き渡った。
♢ ♢ ♢
「ジル様、本当にフェリクス殿下はこちらに寄るんですか? まっすぐ帰られるんじゃ……」
「お前、俺が何年殿下に仕えてると思っているんだ。大体のことはお見通しさ」
ジルはイライラを隠すようにビールをあおる。
付き人の二人はナッツをつまみながら、半ば呆れたように言った。
「信じられないよなぁ」
「お見通しなら、王都へ行くのも嘘だってわかったはずだしな」
(鬱陶しいやつらだ。俺が一番振り回されてるんだぞ……)
ジルは肩をすくめた。
もう半月もこんな田舎町に滞在している。そろそろ殿下が姿を見せてもいい頃だ。
ドアのベルがチャリンと鳴り、風とともに新しい客が入ってきた。
何気なく視線を向けたジルは、マントのフードを外した青年を見て二度見した。
金髪がランプの灯りにきらめいた。
「フェリクス殿下!」
三人の声が食堂に響き渡った。
まさにその時だ。
バンッ!!
勢いよく食堂の扉が蹴り開けられた。
「ココ!!」
そこに立っていたのは、血相を変え、肩で息をするディーンだった。背後には、長時間の猛烈な乗馬で疲労困憊のバルドゥが、今にも倒れそうな青い顔をしてへたり込んでいる。
「お、来た来た。遅いぞ?」
つかつかとフェルに歩み寄るディーン。
「貴様っ、どの口が言う」
このままでは喧嘩になってしまうと、ココは半ばパニックになりながら間に飛び込んだ。
「ディーン様! お、お迎えありがとうございます! ご一緒できて嬉しいです……!」
不器用な平和主義者の精一杯のフォローに、フェルの胸ぐらをつかもうと伸ばされた手が、毒気を抜かれたようにココの腕をつかんだ。
今にも飛びかかりそうなディーンに、ジルたちは目をむいた。「フェリクス殿下、一体何をしでかしたんですか」と言いたげに非難の目を向け、頭を抱えた。
第二王子と辺境公爵。ココと付き人たちは呆然としていた。
小さな宿場町の食堂に――役者が揃ってしまった。
ジルは固唾をのむ。
穏やかな午後の小さな宿場町。……のはずだった。




