38 泥んこ作戦
練兵場に現れたのは、まさかの“あの姿”でした。
張りつめた空気が、一瞬でどこかへ飛んでいきます。
午後。約束の時間、屋敷の裏手にある練兵場には、張り詰めた空気が漂っていた。
クロード様は騎士団の正式な稽古着に身を包み、手には木剣を携えている。その立ち姿は、絵画のように美しい。
傍らで見守るディーン様も、銀髪を風になびかせながら、静かにその時を待っていた。
「……遅いな」
クロード様が呟く。 私は、冷や汗を拭うこともできずに縮こまっていた。
(ど、どうしよう……やりすぎちゃったかしら)
午前中の「大捕物」を思い出して、胃が痛くなる。あそこまで追い詰めなくてもよかったかもしれない。
「来たぞ」
ディーン様の声に、私はビクリと肩を震わせた。 茂みをかき分けて現れたのは、一人の青年――いや。
「……え?」
クロード様の目が点になった。 そこにいたのは、頭のてっぺんから爪先まで、見事なまでに茶色い泥でコーティングされた、泥人形、ゴーレム?
「いやあ、お待たせしやした! 堆肥作りで足を滑らせて、派手に転んじまいまして!」
白い歯だけをニカッと光らせて、泥人形が笑った。
……フェルだ。どう見ても、沼の底から這い上がってきたようにしか見えないけれど。
「……その格好でやるのか?」
さすがのクロード様も、少し引き気味だ。 けれどフェルは、悪びれもせずに胸を張った。
「へい。俺みたいな下っ端は、地べた這いつくばるのがお似合いなんで。……さあ、泥んこ遊びと行きやしょう!」
フェルの軽い挑発に、練兵場の空気が一瞬、張りつめた。
クロード様は小さく息を吐き、木剣を構え直す。
「……念のため聞くが。手加減は必要か?」
その問いに、フェルは肩をすくめた。
「いえ。お構いなく」
「では、始める」
クロード様の声が落ちた瞬間、二人の距離が一気に詰まる。
――早い。
クロード様の踏み込みは、さすが騎士団長。無駄がなく、鋭い。木剣が風を切り、フェルの肩口を狙う。
(あ……!)
思わず目を閉じかけた、その瞬間。
フェルの身体が、ふっと沈んだ。
まるで足元の土に溶け込むように、重心を落とし、最小限の動きで剣筋をやり過ごす。
木剣は、空を切った。
「……?」
クロード様の眉が、わずかに動く。
フェルは反撃しない。ただ、避ける。
一歩、半歩、また半歩。
無様なほど低い姿勢。
けれど、その動きは――不思議なほど合理的だった。
「ずいぶん、変わった身のこなしだな」
クロード様が呟く。
「へい。畑仕事仕込みでして」
軽口を叩きながらも、フェルの視線は一瞬たりともクロード様から逸れない。
私は、はっとした。
(……目が、違う)
いつもの、少しとぼけた庭師の目じゃない。
獲物の動きを測る、冷静で、研ぎ澄まされた目。
その様子を、ディーン様は一言も発さず、ただ静かに見つめていた。
――けれど。
その空色の瞳が、ほんの一瞬だけ、細められたのを、私は見逃さなかった。
格上であるクロード様は派手な打ち込みはしない。フェルもなかなか打ち込んではこなかった。
まさか……互角?
……ううん、そんなはずがない。クロード様は騎士団長だもの。
それでもクロード様が決められないのは様子を見ているからだと思われた。
じりじりと時間だけが過ぎていった。
その均衡を破ったのは、クロード様だった。
「……妙だな」
クロード様が、剣先をわずかに下げた。
その瞳が、探るようにフェルの泥だらけの顔を凝視する。
「防戦一方に見えて、私の剣筋を完全に読んでいる。……その足捌き、どこで習った?」
「いやあ、だから畑仕事だって言ってるじゃありませんか。鍬を振るうのも、腰を入れなきゃ続きやせんので」
フェルはヘラヘラと笑ってみせたけれど、私は見てしまった。そのこめかみを、冷や汗が伝い落ちて泥の跡を作っているのを。
(まずい……クロード様が怪しんでる!)
「畑仕事、か。……ならば」
クロード様の雰囲気が変わった。 空気が凍りつくような、鋭い殺気。
「農夫が騎士の剣を受けられるか、試させてもらおう」
トン、と地面を蹴る音と共に、クロード様の姿が掻き消えた。 速い。さっきまでとは桁違いの踏み込みだ。
狙いは――顔!?
木剣が、フェルの顔を覆う泥を剥がそうとするかのように、鼻先へと突き出される。
(バレる!!)
私が息を呑んだ、その時だった。
「おっとぉ!」
フェルが奇声を上げ、わざとらしく足を滑らせた。 体勢を崩し、背中からぬかるんだ地面に倒れ込む。
――バシャッ!!
盛大な水音が響き、茶色い泥の飛沫が高く舞い上がった。 それはまるで計算された散弾のように、迫りくるクロード様の顔面を直撃した。
「……っ!」
視界を奪われたクロード様が、とっさに動きを止める。 その隙を見逃さず、フェルは地面を転がって距離を取ると、大の字になって両手を上げた。
「こりゃあ敵わねえ! 降参! 降参だ!」
練兵場に、静寂が落ちた。
そこには、泥まみれで転がるフェルと、美しい顔にべっとりと泥を浴びて固まっているクロード様の姿があった。
あ……。 やってしまった。王都の騎士様に、あんな泥をぶつけるなんて。
私は血の気が引く思いだったけれど、沈黙を破ったのは、意外な人物の笑い声だった。
「くくっ……はははは!」
ディーン様が、お腹を抱えて笑っている。 いつも物静かな彼が、こんなふうに声を上げて笑うなんて。
「……勝負あり、だな」
ディーン様は涙を拭うと、泥だらけのクロード様とフェルを交互に見て、楽しげに言った。
「一本取られたな、クロード。まさか最後に『大地』を味方につけるとは」
「……殿下」
クロード様は泥を拭いながら、呆れたようにため息をついたけれど、その表情にはもう殺気はなかった。
「参りました。……確かに、畑仕事で鍛えた足腰には敵いませんな」
フェルは地面に寝転がったまま、泥の下で安堵の息を吐いたのがわかった。
(よかった……!)
私はへなへなとその場に座り込んだ。 心臓がいくつあっても足りないわ。
読んでくださりありがとうございます。
今回は練兵場の空気が少しだけ揺れる回でした。次回は土曜日に投稿予定です。
ゆるく見守っていただけたら嬉しいです。




