35 冷たい食卓
温かいはずの食卓で、冷たい言葉が飛び交う。
私の知らないところで、何かが確実に動き始めていた。
食堂に漂うのは、焼きたてのパンと具だくさんのスープのいい香り。本来なら幸せな時間のはずなのに、テーブルを囲む空気はキンキンに冷えていた。
「さあ、ココ様。たくさん食べてください。お腹が鳴るまで空腹を我慢させてしまい、申し訳ございませんでした!」
バルドゥが、これでもかというほど山盛りのサラダと肉料理を私の前に並べる。
その顔は至って真面目だけど、さっきの「きゅるる……」を思い出すと、私の顔は再び火を噴きそうになる。
「あ、ありがとう、バルドゥ。でも、そんなに食べられないよ……」
「遠慮はいけません! 育ち盛りなのですから」
バルドゥの優しさが、今はちょっとした拷問に近い。
私が恐る恐るスプーンを手に取ったその時、カチャリ、と硬い音が向かい側から響いた。
ランツが、冷めた目で私を見ている。
「……神殿育ちの割には、ずいぶんと胃袋が丈夫なようですね。それとも、そうやって『弱っているフリ』をして男の同情を引くのが、神殿の女に共通する手口ですか?」
「……え?」
スープを口に運ぼうとした手が止まる。ランツの言葉は、まるで毒を塗った針みたいに鋭かった。
「ランツ! 言い過ぎだ。ココ様に無礼を働くのはやめろ!」
バルドゥが強い口調でランツを叱責する。その声には、単なる怒りだけではなく、どこか痛々しいものを庇うような響きがあった。
「……ふん。兄貴は甘すぎるんだ」
ランツは吐き捨てるように言うと、乱暴にパンをちぎった。
その様子を、フェルがワイングラスを片手にじっと見つめている。彼がランツの過去を知っているはずはないのに、その横顔は、ランツの過剰な反応の裏にある何かを、すべて見透かしているように見えた。
「へぇ……。君、随分と神殿がお嫌いなようだね。六月に卒業したばかりの学園エリートが、こんな辺境に自ら志願してくるはずもない。何か『鼻につく思い出』でもあったのかな?」
フェルがわざとらしく鼻先を指でなぞりながら、試すような視線をランツに向ける。
「……貴様には関係ない」
「関係なくはないよ。僕は今、ここの丁稚奉公だからね。不機嫌な先輩がいると仕事がしにくいんだ」
フェルの言葉は軽いが、目はまったく笑っていなかった。普段の飄々とした彼とは違う、まるで冷たい氷のような瞳。それが、私に向かってくる悪意から庇うように、一瞬だけランツを射抜いた。
「ランツ、もういい。部屋へ戻って頭を冷やせ」
バルドゥが重苦しい声で告げると、ランツは椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「……忠告しておきますよ、兄貴。そのガキがいつか『化けの皮』を剥がしたとき、後悔しても遅いですからね」
扉が乱暴に閉められ、食堂に沈黙が降りる。 私は、手に持ったスプーンが震えるのを止められなかった。ランツの去り際の目は、私を汚いものでも見るような……それでいて、壊れそうなものを必死に守ろうとする、ひどく歪んだ色をしていた。
「……ココ、気にするな。あいつは、少し疲れているだけだ」
バルドゥのフォローが、かえって痛々しい。
私は内緒の「歓迎会」の相談を切り出すタイミングを完全に失ってしまい、ただ冷めていくスープをじっと見つめることしかできなかった。
あの重苦しい空気から逃げるように、私は自室に戻ろうとした。
でも、階段の踊り場でふと足を止めた。
開け放たれた窓越しに、眼下の中庭から低い、怒ったような声が聞こえてきたからだ。
「――おい、フェリクス。貴様に聞きたいことがある」
バルドゥだ。あんなに怖い声、めったに出さないのに。私は影に隠れて、息を殺して外をのぞき見た。
青白い月明かりが照らす中庭。百八十センチ以上あるバルドゥの大きな背中が、フェルを壁際に追い詰めるように立ちはだかっている。
フェルはいつものように、壁に寄りかかって欠伸なんてしているけれど。
「おや、副団長様。僕みたいな丁稚に、何かご用ですか?」
「白々しい真似はやめろ。……貴様、一体何者だ。馬の扱いも、剣の知識も、ただの放浪者にしては出来すぎている」
バルドゥの手が、腰の剣に置かれた。本気の「お仕事」の時の動きだ。
私は心臓が口から飛び出しそうになる。フェルが怒られたらどうしよう。追い出されちゃったら……。
「……怖いですね。僕はただ、ココと一緒にいたいだけですよ」
「嘘をつけ。貴様が来てから、ランツの様子がおかしい。あいつが何かに怯えているのも、貴様が何かを隠しているのも、私にはわかっているんだ」
フェルがふっと笑った。その笑い方は、いつもの意地悪な時とも違う、冷たくて鋭いものだった。
「『怯えている』ですか。……バルドゥさん、あなたは、弟さんが学園でどんな目に遭ったかを知っているから、そうやって過保護になる。でも、そのせいで周りが見えていないんじゃないですか?」
「……! 貴様、どこまで……」
バルドゥの声が震えた。
私は、壁を背にしてぎゅっと自分を抱きしめた。フェルが言っている「学園のこと」も、ランツが私を嫌う理由も、十歳の私には難しくてよくわからない。
でも、一つだけわかったことがある。
このお屋敷の底で、私にはまだ見えない「真っ黒な塊」のような何かが、じわじわと広がっているということ。
「僕は、ココを守るためなら何でもしますよ。それが、あなたと目的が一緒なら、僕の正体なんてどうでもいいことでしょう?」
フェルの言葉が、夜の風に乗って冷たく響く。
私はバルドゥに見つからないように、音を立てずに階段を駆け上がった。
ディーン様たちがいないお屋敷は、いつもよりずっと広くて、寒く感じた。




