33 地下の泉と、二つ目の石
神殿の奥深くに、誰も知らない泉がある。
それは祈りの源であり、忘れられた記憶の入口でもあった。
まるで鍾乳洞のような石の階段を、アマリ様の掲げる魔道具の光を頼りに降りていく。
ところどころ苔が生えていて、つるっと滑りそうだ。
クロエが私を振り返って、気をつけてね、と小声で言う。その声が洞窟の中のように、不気味に響いた。
(三年間神殿にいて、あちこち見て回ったけど、こんなところがあるなんて知らなかったわ)
下へ降りるにつれて日の光は届かなくなり、遠くにせせらぎの音が聞こえてきた。
一番下まで降りると道が三つに分かれていた。
せせらぎは右から聞こえた気がした。けれど、アマリ様は迷わず左へ進んだ。
疑問が頭をよぎる。聞こえてこない方へ?
そのまま真っ直ぐ行くと、前方が明るくなっていく。
しばらくすると、ほのかな光が上から差し込んでいる小さな広場に出た。
日の光に照らされているのは、小さな泉。
「ココ、こちらへ」
アマリ様に連れられて泉の方へ行くと、なんだかモヤがかかっているように霞んで見えた。
「やはり、泉の様子が良く見えませんね。透明度はどうかしら?」
私はそっとおまじないを唱えながら、泉を覗き込む。泉の底にはまあるい石がいくつも転がっていた。
その中に一つ、前に拾ったのと同じ、黒くて艶々した石が見えた。
(ふふふ……二個目ゲットだわ)
“ちちんぷいぷいぷい”
心の中で呟くと、そっと泉に手を入れた。
「ひゃっ! 冷たい!」
「ココ、手を入れたらだめよ」
クロエが注意する。私は急いで石を掴むと、パッと手を引いた。
「冷たいから、びっくりしちゃって」
「そんなに、冷たいの?」
クロエが泉を覗き込んだ。
「アマリ様、透明度は十分じゃないですか? きれいに見えますけど……」
泉の反対側を見ていたアマリ様が、こちらへ回って覗き込む。
「あらっ? さっきは靄で良く見えなかったのかしら?」
不思議そうに首を傾げるアマリ様。
「この透明度なら問題はなさそうですよね」
クロエの問いに、アマリ様は静かに頷いた。
「どこか、途中で詰まっていたりするのかもしれませんね。ここはもう良いでしょう。戻りましょう」
私はさっき拾った石を、そっとポケットに忍ばせた。
この間も拾った石。仲間が増えたわね。ポンポンとスカートのポケットを叩く。お家に帰ればお友達が待っているわよ。
「アマリ様、泉の底には石が敷いてあるのですか?」
「ココ、水源に石はつきものですよ」
アマリ様はニッコリ笑うと付け加えた。
「大小さまざまな石を置くと、水に余分な汚れが付かないのです」
階段を上りきった瞬間、ひんやりした空気がふっと軽くなる。
地下の泉の気配はもう遠いはずなのに、胸の奥にはまだ、あの水の冷たさが残っていた。
ポケットの中で、拾った黒い石がころりと転がる。
ただの石。
前にも拾ったことがある、よくある黒い石。
――そのはずなのに、指先に触れるたび、ほんのり温かい気がする。
まるで、水の冷たさを吸い取ったみたいに。
「ココ、大丈夫?」
クロエが顔を覗き込む。
「うん。ちょっと疲れただけ」
聖水の間に戻ったときには、アマリ様はいつも通りの笑顔を浮かべていた。
地下の泉はもう大丈夫。おまじないをかけたのは、バレていないよね?
そんなことを考えていたとき――
神殿の外から、馬の蹄の音が響いた。
「エルガード公爵様、王都からお戻りです!」
神官の声が境内に広がる。
私の背筋が一気に冷えた。
(……え、ディーン様? なんで今日に限って……!)
心臓が跳ねる。
勝手に神殿に来ている。
しかもフェルと一緒に。
絶対怒られる。
クロード様に見つかるのもヤバい。
「アマリ様、お世話になりました。急用を思い出したので、失礼します!」
慌ててアマリ様にご挨拶を済ませると、何か言いたそうなクロエに「またね」と小さく手を振り、フェルを待たせていた中庭へ急いだ。
「……ディーン様が来たのか」
私を見ると、慌てた様子でフェルが来る。
その声は、いつもの柔らかさとは違っていた。
一瞬で状況を理解したような、鋭い響き。
神殿の奥庭からは、落ち葉を焼く焚き火の煙が立ち上っていた。
ツンと鼻を突く煙の香り……記憶を刺激する香り。いつかどこかで嗅いだような……。
古びた紙と、微かな焚き火の匂い。
(……熱い。本が、焼ける)
焦るようなその気持ち。
唐突に、視界の端が夕焼けのような真っ赤に染まった気がした。
誰かが、大切なものを奪われて泣いている。痣だらけの手で、灰になった「何か」を抱きしめている。
ふらっと体がよろけたときに、逞しい腕に抱きとめられた。
「ココ? 顔色が悪いけど、大丈夫?」
フェルの声で、私は我に返った。
「……ええ、ごめんなさい。なんだか、懐かしくて悲しい匂いがした気がして」
今のは……日本の記憶にはない。
今世の記憶にもない。
なのに、私の魂だけが、その「焼け焦げた絶望」を知っている。
「焚き火の煙だ。心配ないよ。それより、ココ、こっち」
呆然としていた私の手首を、フェルが軽く掴む。
「え、ちょ、フェル……?」
「正面はまずい。裏から出る」
フェルの歩幅が速い。
私は引っ張られるようにして、神殿の脇道へと走った。
正面では、ディーンとクロードが神殿長と挨拶を交わしている声が聞こえた。
ほんの数歩違えば、完全に鉢合わせだった。
そうよまずいわ、ぼうっとしている場合じゃなかった。
(やばいやばいやばい……!)
裏手の通路を抜け、境内の外へ出たところで、ようやくフェルが足を止めた。
「……ふぅ。間に合った」
「ま、間に合ったって……フェル、なんでそんな慣れてるの……?」
フェルは答えない。
ただ、少しだけ視線を逸らした。
その横顔が、隠しきれない“育ちの良さ”を滲ませていた。
「……あとで絶対バレる気がする」
私は胃のあたりを押さえながら呟いた。
フェルは横で、小声で漏らす。
「バレたら終わるのは……俺の方だ」
「えっ? 何か言った?」
聞き返すと、フェルは何でもないよと笑った。




