13 神殿の焦り
魔獣の影響で神殿がざわつく一日。
ミレイユの婚約話が、思わぬ波紋を広げます。
5月21日 夕刻
「聖水が——もう足りない! 急げ!」
「……神官様、聖水は本当にもう尽きました。アマリ様も“もう一滴も”と……」
言いにくそうに、聖女見習いが口を開いた。
今日は朝から患者がひっきりなしに運び込まれていて、皆、疲労で顔色が悪い。
「治療棟はもう限界だ。回復が追いつかない。」
「このままでは、救える命すら取りこぼしてしまう……。」
何でも、魔獣達が隣の領地から一斉に流れ込んできたらしい。
街道の安全は確保されたものの、今度は領地の内部が不穏になってしまったのだ。
横たわった患者を前に、聖水をまいていた神官は呆然と立ちすくんだ。
――無理だ。これでは助けられない。
瘴気を払えなければ怪我の回復も遅れ、精神まで蝕まれる。
ひどい者は、見えない何かに怯え叫び、幻覚や幻聴に追い詰められて錯乱してしまう。
神官は既に限界で、聖女見習いに「明日からはもっと聖水を」と言いつけると、後の治療は神官見習いへ丸投げした。
……これ以上は無理だ。
そう思いながら、重い足取りで神殿長室のドアを叩く。
「入れ」
機嫌の良い声が返ってきた。
外の惨状が耳に入っていないらしい。
機嫌が悪いときは「なんだ」と返すからな。
やれやれ、と思いつつ中へ入る。
——外の混乱など、まるで別世界の出来事のように。
そこには、王都神殿からの使いと、上機嫌な神殿長が和やかに話していた。
「はっはっはっ、聞いたか。ついにご婚約が整うのだ」
——婚約? 今、この状況で……?
神官は、言葉を失った。
「ご婚約……ですか?」
思わず聞き返してしまう。
「そうだとも!」
神殿長は鼻を鳴らし、誇らしげに胸を張った。
「聖女ミレイユ様と、第二王子殿下のご婚約が正式に決まったのだ。王都神殿からの使いが、わざわざ知らせに来てくださった」
その言葉を聞いた瞬間、神官の背筋に冷たいものが走った。
――こんな非常時に、聖女様を婚約させる?
それも、第二王子殿下と?
第二王子殿下には、確かご婚約者がいたはずだ。
王家の事情は詳しくは知らないが、
だが、それよりも神殿長は、神殿の現状を見ようともしないのか?
ただでさえ、神殿の聖水は底をつきかけ、
患者は溢れ、見習いたちは倒れそうになっている。
なのに神殿長は――
「これは神殿にとっても大きな誇りだぞ。ミレイユ様が王家と結ばれるということは、我らの地位も――」
「神殿長様、治療棟が限界です。聖水も尽き――」
「その話は後だ。今は祝いの報せを聞け」
——命の危機より、祝い事を優先するつもりなのか
バサッと手を振り払われ、神官は唖然とした。
(……何を祝えというのだ。人が苦しんでいるのに)
王都からの使いは、満足げに笑っている。
「聖女ミレイユ様は、殿下の后として相応しい――と王都神殿も太鼓判でしてね。ご婚約式の準備は、こちらでも進めていただくことになります」
(無茶を言う……)
治療どころではなくなる。
聖女様達は数日前から顔色が悪かった。
これ以上の負担をかければ皆、立っていられなくなる。
そして――神官の胸に、ひとつの疑問が生まれた。
あの日、治療棟で不可解な力が働いた。
あれが聖水の力だけだったとは、どうしても思えない。
そして――誰も気づいていない。
(……もしや、あの子の力は、“記録に残ってはまずい力”だったのか?)
誰かが意図的に隠している……そんな嫌な予感がした。
胸の奥に重く沈む疑念を抱えたまま、
神官はもう一度、神殿長に言おうとした。
「神殿長様、本当に治療棟は――」
「祝いの酒を取ってこい」
……駄目だ。話にならない。
この人には、苦しむ者の声が一つも届いていない。
……この人の背中に、何人の悲鳴が届いているのだろう
神官は深くため息をつき、部屋を辞した。
扉を閉じた瞬間、廊下の空気がさらに重く感じられた。
(聖女様だけでは、この領地は守れない……)
ふと、中庭に目を向ける。
満ちかけた月が、弱々しく光っている。
月の光は、前からあんなに光はよわよわしかったか?
いや、気のせいだな、疲れで目がかすめるだけか……
神官の脳裏に、星が降るような光景がよみがえった。
夢でも見ていたのだろう。
だが胸の奥に残ったのは、理由のわからぬ喪失感だけだった。
静かな夜風だけが、彼の頬をかすめていった。
ただ弱々しい月だけが、彼の知らぬ真実を照らしていた。
その真実こそが、領地の運命を変えようとしているとも知らず。
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