1 誰も知らない光
誰にも知られない光が、誰にも知られずに、そっと世界に舞い降りた。
世界の片隅で、小さな光が静かに息づきはじめる。
その光は、まだ自分の力に気づかぬ少女の胸の奥にだけ届く――。
小さな物語が、今、静かに動き出すーー。
「ココ、聖水を持ってきなさい。急いで!」
神官様は私を呼び止めると、足早に廊下の向こうへ消えていった。
聖水がいるということは――瘴気で怪我をした人がいるということだ。
急がないと命にかかわる。私は女神様の泉の間へ走っていった。
泉の間では、下働きの聖女見習いたちが水を汲んでいた。
「アマリ様、神官様から聖水を持ってくるよう言いつかりました」
一礼して泉の間に入ると、白い衣をまとった聖女様が、銀のお盆に聖水を並べてくださった。
「聞いています。気をつけて持っていきなさい」
受け取ったお盆を両手で抱えて、慎重に運んでいく。
治療の塔は、中庭を挟んだ向こう側。
出入り口では次々とけが人が運び込まれていた。
私はまっすぐ奥の間へ向かった。
入り口には、背の高い騎士様が部屋を守るように立っている。
黒い騎士服には金の飾り。
マントの隙間から、青い宝石のついた剣の柄がのぞいていた。
――よほど身分の高い方なんだわ。
一礼して部屋に入ると、三人の患者が運び込まれていた。
いずれも意識はなく、顔色は土のようにくすんでいる。
神官様に聖水を渡すと、すぐに声をかけられた。
「ココ、手が足りない。手伝えるか?」
私は黙ってうなずいた。
いつも助手として聖女様のお手伝いをしている。
聖水を手に取り、患者の体にまいていく。
瘴気を払うためだ。
実は、私には特別な癒やしの術が使えた。
怪我を治すよりも、瘴気を払うことに特化した力。
この場では、それが一番役に立つ。
……けれど、神官様は知らない。
彼の中で私は、ただの下働きにすぎなかった。
癒やしの魔法が使えない者は、力があっても「無い」と同じ。
私は小さく息を吸い、歌うように呪文を唱えた。
――ふわり。
星が降るような光が部屋に満ちていく。
瘴気の強いところに光が集まり、やがて淡く溶けていく。
唱えている私が言うのも変だけれど、いつ見ても綺麗だった。
こんなに綺麗なのに、誰にも見えないなんて不思議。
瘴気を払うのは、聖水の力だと思われている。
本当は違うの。
三人の患者から瘴気が消え、眉間のしわがゆるみ、安らかな寝顔に変わっていく。
ここまで来れば、あとは聖女様が癒やせる範囲だ。
「ココ、もう十分だ。仕事に戻りなさい」
神官様の言葉にうなずいて、そっと部屋を出る。
入り口の騎士様が、部屋の中を見つめたまま、驚いたように立ち尽くしていた。
私とすれ違う瞬間、慌てたように深く頭を下げる。
そんなことをされるのは初めてで、少し戸惑った。
部屋の中では、騎士様が神官様に何かを尋ねている。
「……あの方は?」
「ただの下働きです。お気になさらずに」
「はぁ?!」
そんなやり取りを背に、私は小さくため息をついた。
――いつものことだわ。
誰も、私の癒やしを見ていない。
いえ、見ることができないのだ。
目を覚ました時には、優しい笑顔の聖女様がそばにいる。
瘴気を払った人間のことなど、誰も覚えていないのだ。
私はココ。十歳。
この神殿に来て、もう三年が経とうとしていた。
グレーのお仕着せの裾を翻し、神殿の中を歩いていく。
夕闇が迫った空では、雲が色とりどりに染まっていた。
この時期にひときわ輝くのは――金星。
誰も知らない光の中で、
今日も私は、名もない見習いとして生きている。
急に風が吹き、木々を揺らした。
顔を上げると、月が輝きを増したように見える。
月の光が揺れ、そっと私を照らした。
まるで、気づいていると告げるように。
今日は夜にもう一話投稿予定です。楽しみにして下さいね!




