5~8 日目 ――不破海音②――
一言で言えば限界だった。
デジタルデトックスは、海音が想像した以上の拷問であった。
当初の予定では、野球の三連戦を見た後は北海道観光にあて、10日目に飛行機で帰る手はずであった。
しかし、5日目以降考えるのはLaplaceのことばかりで、自分がログインできない間、友人達になんと言われているのか気になり夜も眠れない。
湯上谷先生から許可が出たので、なけなしの勇気を振り絞りホテルの従業員に最寄りのネットカフェを探してもらい、そこそこの交通費を払って行ってみたが、結果は散々だった。
まずLaplaceはパソコンのOSに対応していないため、そもそも正規の方法ではネットカフェのパソコンにインストールすらできない。
それでも執念が功を奏し、非正規の方法で何とかインストールまでこぎつけたが、やはりそこでつまずいた。
ログインできないのだ。
ログインには当然IDとパスワードが必要で、IDは自分の電話番号なのでまだ良かったが、パスワードは全く覚えていなかった。
意味の無い大文字小文字を交えた英数字の羅列なのだから、それも当然だろう。
ネットの話を真に受けてそんなパスワードにした過去の自分を恨む。
スマホには念のため保存していたが、脳内のメモリーには影も形もなかった。
パスワードを忘れた場合の救済策もあったが、それはスマホで認証しなければできない。
簡単にパスワードを調べられたらセキュリティの意味はないのだから。
海音は貧弱な脳内のメモリーからパスワードの残骸を漁り、うろ覚えとすら呼べない記憶で何度も打ち込むが、当然Laplaceにログインはできない。
結局湯上谷先生との約束を破り、閉店時間までネットカフェにいた。
そこは24時間営業ではないため、一日中いる事は出来なかった。
ネットカフェから放り出された海音は、タクシーも捕まえることが出来ず、結局歩いてホテルまで帰る羽目になった。
ネットカフェからホテルまでは距離にして10キロ以上離れていた。
まだ雪が降る季節ではないため凍死することはなかったが、朝までにホテルに戻り、湯上谷先生に定時連絡をしなければならない。
それが出来なければ、旅費を全額支払わされるどころか、大学を退学させられるかもしれない。
海音は必死で歩き続けた。
元から体力がないため途中何度も止まったが、使命感ではなく恐怖心がそのたびに脚を前に進めた
そして靴の中を血だらけにし、意識が朦朧とし始めた頃、ようやく海音はホテルに到着した。
時刻はもう早朝になっていた。
ホテルに入ると公衆電話で自分でもなんと言ったか分からない話を湯上谷先生にし、部屋に戻ってからは泥のようにベッドで眠った。
皮肉にも無茶をしたおかげで、久しぶりに熟睡することができた。
けれど起きてしまえば悪夢は続く。
海音が目を覚ましたのは深夜だった。
ベッドに倒れてから半日以上眠っていたのだ。
海音は反射的にスマホを探す。
「ない……ない……ない……!」
没収されていることも忘れ室内で暴れだし、旅行用鞄どころか、押し入れ迄ひっくり返してあるはずのないスマホを探した。
やがて熱が引き、ようやくスマホが元から無い事を思い出す。l
その瞬間涙が出た。
まるで自分がこの世界で最も重い罰を受けている囚人のような気さえした。
「俺が何したってんだよ……」
泣きながら自らの不遇を憐れむ。
「どうしようどうしよう……」
目は血走り、肌は土気色。
昨日から何も食べていない。
Laplaceに繋がる事のみに神経を集中し、食事を完全に忘れていた。
もっとも、たとえ食事を思い出したとしても、慢性的な腹痛に苦しめられているこの状況では、何も口には入らなかっただろうが。
そんな状況で強行軍をしたのものだからこれだけ寝ても体調は悪いままで、頭の回転もどんどん鈍くなっていく。
「今頃みんな俺のことを馬鹿にしてるんだ……」
次第にここから遠く離れた場所にいる友人達と、同じような妄想に囚われていく。
会話に参加できないというだけで、どんどん自分の株が下がっていくという妄想がとめどもなく沸き起こる。
さらに高校に入るまでいじめられっ子で、その時の恥ずかしい秘密を暴露され、笑いものにされているというよりあり得ない妄想にまで発展していく。
「なんとかしなくちゃなんとかしなくちゃ……」
爪を強く噛みながら、退化した脳みそで現状打破の方針を考える。
まず初めに考えたのが、誰かのスマホを盗んでLaplaceにつなげる方法であった。
最初にこの考えが出るあたり、かなり終わっていると言えよう。
けれど、他人のスマホが使えたとしても自分のIDにログインはできないことに気付き、その考えを却下する。
倫理観は相変わらず死亡したままで、技術的な面だけ冷静さを取り戻しつつあった。
そこから文字通り愚にもつかないアイディアを考え続けていると、次第に夜も明け始め、定時連絡の時間になる。
海音の異常な小心は、このことだけはしっかりと覚えていた。
「結局もう先生に頼むしかない………」
海音はこれ以上の実験の継続は不可能と判断した。
今は大学退学や旅費返済より、これ以上Laplaceに接続できない事の方が耐えられなかった。
大学を退学すれば、彼らと連絡を取る必要など全くなくなるという当たり前の帰結すら頭の片隅にもない。
ただただ友人と思っている他人達と連絡が取りたかった。
そのグループ内で以前のようないじめられっ子ではないという地位を確認したかった。
しかし、今までなら繋がった電話が今日は一向に繋がらない。
それどころか、コール音が続いた後、留守番電話サービスに繋がった。
言うまでもなく湯上谷先生は出張していて、昨日の定時連絡の際に海音にはそれを伝えたのだが、判然としない頭で話を聞いていた海音は、それを全く覚えていなかった。
突然つながらなくなった電話に、強烈な不安に襲われる海音。
実はこの2,3日で予想以上に出費し、飛行機で北海道に帰る交通費は残っているかどうか怪しかった。
そのため、湯上谷先生への電話は実験の中止申請と同時に旅費の工面と言う意味も持っていた。
実験断念が旅費の全額負担になると言っている相手に旅費を借りるというのは本当にばかげた話であるが、本人にはそれがおかしいと感じる冷静はさはまだ失われたままだった。
「ど、どうしよう、どうしよう……」
海音は再び爪を噛む。
あまりに強く噛みすぎたため、爪が割れ、指から少なくない血が流れだした。
それでも本人は全く気にならない。
頭にあるのは東京に帰ることだけだ。
海音は意を決した。
店員にすらまともに話すことができないほど内向的な彼が、ホテルの従業員に頼む。
これから先の宿泊費をキャンセルしてその分の金をくれないかと。
従業員は海音の申し出に唖然とし、すぐにそれは契約上でできないと断った。
海音はさらに血走った眼で、だったら交通費を貸してくれないかと頼むが、当然従業員は断る。
ただその従業員は親切な人間でもあったようで、金は出せないが格安航空会社を使い手持ちの金で東京まで帰れる方法を教えてくれた。
また、サービスとしてホテルのマイクロバスで、空港まで送るとも言った。
海音は狂喜乱舞した。
この際東京に帰れるなら何でもよかった。
それからホテルにチケットを手配してもらい、翌日の深夜には出発できる算段をつけてもらった。
明後日ならそもそも正規のチケットで帰れるというのに、それさえ分からず海音はその申し出を受け入れた。
1日でも遅れれば大変なことになるという妄想に関しては、海音と武人は完全に一致していた。
事が終わったと同時に、海音はその場に倒れ込んだ。
もとから体力のない人間が飯も食べずに無理をしたため、それが形になって出たのだ。
慌てた従業員はすぐに救急車を呼ぼうとしたが、それを海音が口の端に泡を飛ばしながら止める。
東京に帰ったら湯上谷先生から旅費の返却を求められるため、これ以上無駄な金を使いたくなかったのだ。
海音は渾身の力で起き上がり、ずるずると足を引きずりながら、自分の部屋へと戻って行った。
従業員にはその後ろ姿が餓鬼が幽霊のように見えた……。