9日目 ――湯上谷宗助⑤――
出張は日帰りだったため、昨晩の深夜には宗助は東京に戻っていた。
しかし、Laplaceが見られるノートパソコンは大学の備品にあるため外部に持ち出すことはできず、昨日は一回も確認をしていなかった。
そのため、いつもより早めに家を出て大学に向かう。
普段ならそこまで早く大学に行けば、人もまばらで静かなはずであったが、その日は妙に人が多く、またざわついていた。
中には到底学生と思えない人間もいた。
不審に思いながら教授室までいくと、まだ若い准教授が宗助に話しかけてきた。
「湯上谷先生、すごいことになりましたね」
「すまないが、出張で昨日一日東京にいなかったのでね。いったい何があったのかね?」
「ああ、知らなかったんですね。昨日うちの学生が一斉に街中で集団ヒステリーを起こし、警察が出動する事態になったんですよ」
「集団ヒステリー……」
宗助の頭の中で、すぐに事件と実験が結びつく。
だが未だ確証はないため、その場では適当に相槌を打つだけで別れ、すぐにパソコンで昨日Laplaceで何があったのかを確認した。
(これはひどいな)
そこでようやく宗助は、学生達の間で何が起こっていたのかを知る。
まるでカルト集団の会話だなと、彼らのやり取りを評した。
科学的な根拠は欠片もなく、ただ妄想を事実と認識し、その事実に基づいて行動を決めている。
しかも、それを先導している教祖的存在は明らかに毛受であった。
宗助はようやく、自分の実験が学生達の精神状態を滅茶苦茶にしたことを理解する。
そこまで評価していない教え子達であったが、まさかここまで愚かだとは想像だにしていなかった。
宗助は顎に手を当て、大学当局に事情を説明し、実験の中止を真剣に考える。
ここまで事態が暴走し、果たしてまともなデータが回収できるのか。
(……継続だな)
妄想で殺された人間は自分も含め何人か出たが、幸いにも実際の死人はいない。
病院に担ぎ込まれた学生も、そこであらゆる意味で目を覚ますだろう。
そこから平常時に回復するまでの経緯も、貴重なデータになるかもしれない。
倫理観に目をつぶれば、止める理由は乏しかった。
ただし、予定より早めに終了させなければ、制御できなくなることは明白だ。
そう判断した宗助は不破の泊まっているホテルに連絡を入れる。
この実験に終止符を打てるのは不破の存在だけだ。
だが、連絡がつかない。
ホテルの従業員の話によれば、いる事はいるのだが、今は疲労か病気かで寝ているらしい。
さらに、予定より1日早く今夜の便で東京に戻ることも教えられた。
宗助もそう言われれば無理に起こすわけにもいかない。
人情からそうしたのではなく、どうせ起こしたところで出発できなければ意味がないという合理的な判断からだった。
皮肉にも不破はあそこまで惨めな思いをする必要もなく、予定より1日早く帰れたのだ。
むしろホテルでじっとしていれば今寝込む必要もなかったので、さらに早く帰れただろう。
そんな状況とはかほども知らない宗助は、不破が戻るまでの間に事態をより正確に分析する。
病院に入院した学生達は現時点では問題はない。
しっかりした治療を受ければ、いずれLaplaceで受けた洗脳も溶けるだろう。
問題は所在が分からない学生達だ。
Laplace内の発言が一気に減ったため、彼らの消息を追えなくなった。
煽動者の毛受に関しては、事件の直後"自分がすべて解決する"と書いてから一切書き込みはなかった。
他の学生達も、事態の深刻化を恐れたのかそれともその余裕がなかったのか、書き込みは100分の1程度まで減った。
その代わり、誰でも見られるオープン型のSNSで今回の件とは完全に無関係な人間達の、「不破の声を聞いた友達がいる」、「不破と思った人間が目の前から消えた友達がいる」といった発言が激増していた。
付随的な資料でざっと目を通しているSNSであるが、やり取りが乏しくなったLaplaceより今はこちらの方が重要になった。
書き込んでいる人間はほぼ全員不破とは面識がない。
それにも拘らず見た、声を聴いたなどと言う。
この一週間足らずの間で、不破は一部の人間にだけ該当する怨霊すら通り越して、流行の都市伝説にまで昇華していた。
リアルタイムで次々に更新されていく書き込みには、フリーメイソンの一員だの、将門の再来で日本の全てを憎んでいるなど、出鱈目なものが増えていく。
影が薄いのが幸いし、勝手に顔写真をアップロードされることまではなかったが、宗助の実験のために不破は望まぬ形で有名人になってしまった。
(いくらなんでも噂の伝達が速すぎる、これは本当にただLaplaceによるやり取りが原因だったのか?)
宗助の胸に初めてわずかな恐怖心と多大な疑問が芽生える。
現状の経緯を簡潔にまとめれば、1週間SNSと隔絶された人間は、周囲の人間によって都市伝説になる、ということになる。
だがそれは、客観的に見てあまりに荒唐無稽すぎた。
事ここに至って、宗助には全てのピースがそうなるよう何者かの手によって、意図的に配置されているように思えてならなかった。
(だが始めてしまった以上、終わりまで見届ける責任が私にはある)
宗助はとめどもない書き込みを見るのを止め、これまでの事を包み隠さずレポートにしたためる。
この後は、深夜で北海道を発つ不破とすぐに合流できるように、空港に向かう予定だ。
時間に追われるように急ぎながらキーボードを叩いていると、不意に教授室のドアが叩かれた。
宗助はノートパソコンのモニタから顔を外さず、「どうぞ」と言って入室を促す。
「失礼します」
――そう言って入ってきたのは、どこかで見たことがある顔の学生だった。
「実は――」
そう言って、その学生は背後に持ってきた物を宗助に差し出すのだった――。