3.episode A-篠崎由莉の場合-
――何故、こんなことになっているのだろう。
今日もいつも通り、私にとって地獄のような一日が始まるはずだった。
それなのに目の前には転校生の彼女、其原鞠が私の机の前にしゃがみこみ、ニコニコと笑みを浮かべているのだ。
事態を理解することが出来ず、ただただ困惑してしまう。彼女はまだ、私の立ち位置を知らないのだろうか。
教室に入ると、彼女は既に私の机の前にいた。私が座っても尚、動く様子はなくそんな彼女に痺れを切らし、少し怖いけど声をかけてみようとした。
「ねね、名前なんていうの!」
「ぁ、えっ?」
吃驚して、思わず変な声がでてしまった。
恥ずかしさと少しの恐怖で熱くなっていく頬に手をあてながら、返事をした。
学校で人と話すのは久しぶりで、声が上ずっているのを感じた。
「昨日、自己紹介の時目があったよねー? 声かけようかなって思ったんだけど、タイミングが掴めなくってさ!」
机の前で待ってみた――そう言って彼女はにっこりと笑みを浮かべた。
「あの、でも……」
正直、話しかけてもらえてかなり嬉しい。それと同時に恐怖を感じているのも確かだ。
私の話を、誰かから聞いていないのだろうか?
聞いていないのだとしたら、仲良くなれるなんてぬか喜びしちゃだめだ。彼女もきっと私を独りにするだろうから。
「ん? でも?」
「だ、誰かから、私の話……聞いてない、の?」
彼女の発する言葉一つ一つに、少しだけ期待してしまう自分がいる。
「ん? あ、聞いた聞いた!」
ポカン、と口を開けて言葉を失う。それなら何故、私に声をかけるのだろうか。面白半分で声をかけているのだろうか。
「それがどうかしたの?」
何でもないような顔をしている彼女に、益々意味が分からなくて必死に次の言葉を考える。
「な、なら私に話しかけないほうがいいと思うよ……?」
本当に、何を考えているのだろうか。
どうして? なんて聞いてきた彼女にただただ驚くことしか出来ない。どうして、だなんてこっちが聞きたいくらいだ。
「どうして、ってそりゃ……」
真っ直ぐこちらを見る彼女の視線から逃れるように、俯く。
「確かに話は聞いたけど、でもまだ話したことなかったから!」
鳩に豆鉄砲って、こういうことを言うんだっけ?
普通だったら、誰かから私の話を聞いた時点で絶対に声なんてかけないはずだ。なのに、どうして。
「話してみたいなーって思ったから!」
理解することが出来ない。どこをどう聞いたら、話してみたいなんてそんなこと思うんだ。私が逆の立場なら、こんな浮いている存在絶対に声をかけないし、見ないフリをして居ないものとして扱うだろう。私はそういう卑怯な人間だから。
「鞠ちゃん、なにしてるの?」
「そうだよ、そいつには話しかけちゃだめなんだよ」
視線を上げると、今登校してきたであろう真紀と唯が立っていた。心臓が大きく跳ねる。スカートを握りしめる手に力が入った。
「私はくだらない理由で、簡単に友達を傷つけられる人の話より、由莉ちゃんの話が聞きたい。」
「それに、誰と話すかなんて私の自由だよね?」
唯一分かることは、彼女が私の救世主だということだ。
私は臆病で、自分の都合の良い事以外は見て見ぬフリをする、そんな人間だ。なのに、気づいてほしいだなんて。手を差し伸べてほしいだなんて、あまりにも虫が良すぎる。
「どうして、私なんか……」
「え、直感かな! って、泣かないでよ~!」
――できることなら、彼女と一緒にいたいと思った。泣きじゃくる私に、彼女はわざとらしく咳払いをした後、手を差し伸べてくる。
「改めて、私は其原鞠って言います! 友達になりませんか?」
照れたように笑う彼女の左手をそっと握りしめる。
「篠崎由莉って言います、私なんかでよかったら……!」
不安な感情が、触れ合った手の温度で溶けていくようなそんな気がした。
「なんなの……?! 真紀、行こっ!」
唯達が逃げるように教室を出ていった。不思議ともう怖くはなかった。
「私がいれば、もう大丈夫!」
そう言って鞠はいたずらっぽく笑った。
あの日依頼、人の目が怖くて仕方がない。些細な事で人の態度は変わる、いくら誰かを信じていても独りになるのなんて簡単だ。
あんなに楽しかった学校が、こんなにも苦痛になった。
でも、そんな私に手を差し伸べてくれた彼女がいれば――きっとまた、あの頃みたいに変われる気がする。
「……ふふっ」
「あ、やっと笑った! これからよろしくね、由莉ちゃんっ!」
彼女のかけてくれる言葉、行動、一つ一つが嬉しくてたまらない。
「由莉でいいよ、えっと――」
「っ! ゆ、由莉ーーーーっ!」
抱きついてきた鞠と、顔を見合わせて笑いあった。
「ねえねえ、一緒に帰ろうよー!」
「え、うん……!」
誰かと一緒に帰るなんて久しぶりだ、とても嬉しい。
あの後、唯達は気まずそうにしていて、クラスの女子は何人か声をかけてくれた。
何だか複雑な気持ちだったけれど、私が逆の立場でも同じようなことをするだろう。彼女たちを責めることは、私には出来なかった。
「そうだ、鞠ってどこから引っ越してきたの?」
「楠田市の方だよ!」
楠田市は、一つ隣の市だ。思ったよりも近くから引っ越してきたんだな。
「そうなんだね! 理由とかって聞いても良い?」
「お父さんの仕事の都合だよ! 私だけ残りたいって言ったから、今はおばあちゃんの家で暮らしてるんだ」
「そっか……。寂しくない?」
家族と離れ離れなんて、私なら絶対に耐えられない。家族がいるから今まで学校に来るのだって頑張れた。
「おばあちゃんもいるし、平気だよ! それに、由莉と友達になれたし!」
そんなこと言ってもらえるなんて嬉しい。笑みがこぼれた。
「そういえば、家はどのへん? こっちで大丈夫だった?」
「大丈夫だよ! 由莉の家の手前で曲がるから!」
それなら良かった。他愛のない話をして、連絡先を交換して別れた。
「嬉しかった、な」
スマホが鳴って、ロックを解除する。鞠からのメッセージが来ていた。
何だか恥ずかしくて、鞠にチャットを返すと枕に顔を埋めた。
明日からは、鞠が一緒にいてくれるんだ。嬉しい、嬉しい。もうこんな日来ないって思ってたから。
安心したら眠くなった。今日はこのまま寝よう。
スマホを握りしめたまま、眠りについた。
あの時の私は、状況の変化が嬉しくて、ただただ新しい鞠という友達の存在に胸を躍らせていた。
不安に満ちていた学校生活に、光が見えて目の前の出来事に頭がいっぱいだった。
少し考えれば分かることなのに、私はいつもそうだ。物事を深く捉えないせいで、失敗してしまうのだから。なにも学べていない。だからこんなことになったんだ。
――鞠の言葉の違和感に、気づくことができたらこんなことにならずに済んだのかもしれないのだから。