3話 不思議な子 —花音Side
天気は晴れ。所々に雲が広がっている、昼下がりの午後。
さっき、学園で事務手続きをしてきて、実家に帰る前に少しだけ周辺を散策しようかと、駅の途中で降りてみた。
周辺を見ながら、ふうと息をついた。ここは全く知らない土地。目に映るものが全部新鮮に見えてくる。ここら辺も生活圏になるだろうなって、どんなお店があるのかチェックしようと思った。
緊張、してるなぁ。
明後日から通う星ノ天学園に行ってきて、緊張はさらに増している気がする。
さっき自分の名前の『桜沢花音』とサインをするときも若干手が震えてしまった。
事務の人にも「大丈夫?」って心配されてしまったし。
まさか自分が、あの星ノ天学園に通うことになるとは思っていなかったもの。受験の時にも思ったけど、敷地は広くて校舎も豪華で大きい。案内してくれる人がいないと、きっと迷ってた。シンボルの時計塔は圧巻の一言に限る。
受かるとは思っていなかった。しかも首席だなんて、予想外すぎる。おかげで特待生枠もらえたから、学費が無料になって通えるけども。もし特待生枠に入らなかったら、諦めようとも思っていたし。
星ノ天学園は全国でも有名なエリートが集まっている学園。通っている生徒は政財界の子息子女が多いと聞いている。
つまり、私とは正反対の人たちの集まりだ。
お父さんは普通の会社員だし、お母さんはパートをして生活費を助けている。幼い弟と少し甘えん坊だけど年相応の振る舞いをする妹の、ごく普通の一般家庭。
そんな私が、住む世界が違う人たちと本当にやっていけるのかな。
そもそも受験をするつもりもなかった。地元の高校に通って、就職出来ればいいなとしか思っていなかった。
だけど、中学の進路相談の時に担任の教師に勧められた。星ノ天学園は学力も高いし、将来の道を広げるのにはいいんじゃないかって。特待生枠に入れれば学費も無料になるし、挑戦するだけしてみた方がいいと。
すごく熱心に勧められたので、熱意に負けてしまった感じがある。
友人の蛍と茜には「あの成績だったら、地元の高校じゃ勿体ないのは確かだもんね」って納得されてしまったけど。私より凄い人たちなんて、全国にゴロゴロいると思うんだけどな。特に星ノ天のレベルは高いので有名なんだから。
それで受けてみたら、まさかの首席。驚きの方が圧倒的に多い。お父さんもお母さんも驚いていた。弟と妹は大はしゃぎ。私はどうしようって思いでいっぱいだったんだけど……周りがお金持ちの人たちっていうだけで、気後れしてしまうよ。
辞退しようと思っていたら、両親に止められた。折角の機会だから通ってみればいいって。そういう人達と触れあえる機会も滅多にないし、視野を広げるいい機会だからって。
でもなぁって言ったら、お父さんが苦笑して「もっと好きにしていいんだよ」って言ってきた。
『好きに?』
『勉強嫌いじゃないだろう?』
『まあ、そうだけど……』
『だったら星ノ天で頑張ってみなさい』
確かに勉強は嫌いじゃない。色んなことを知れるから。英語は単語や文法知るのが楽しいし、数学は上手く解けるとスッキリする。物理学は知れば知るほど楽しくなるし、歴史に至っても同じ。
勉強する場所として、星ノ天学園は最高の場所だとは思う。どんな授業をしているのか、純粋に興味は惹かれた。
そのお父さんの一言で私は通ってみようと決心した。もし特待生枠の話が無くなったら、それはその時考えようって。
だけど、さすがは天下の星ノ天学園。学園指定の制服やジャージや靴は高かった。お母さんが「大丈夫」って言ってくれたけど、思わず溜め息が出てしまうほどに高かった。無理して買ってくれたのは目に見えている。これは入学してから死に物狂いで特待生枠死守しなきゃって、思っちゃった。学費はさすがに払えない。
実家からはさすがに遠いから、寮に入ることになった。通えるといえば通えるけど、交通費もバカにならない。それに特待生だと寮費も無料だから喜ばしい。
同室の子はどんな子なんだろう。やっぱりお嬢様なのかなぁ。
期待と不安とで心はゴチャゴチャ。入寮日の明日に初顔合わせ。いい人だったらいいなぁ。話が合えばいいんだけど。
そういえば、妹と弟が寮に入ることを話した時にショックを受けていた。高校に上がっても家から通うと思っていたらしい。休みの日には帰ってくるからって言っても、最近はずっと2人は私にべったり。可愛いからいいんだけど。
でも、明日からはあの子たちとも離れ離れ。泣かないといいんだけどな。
可愛い妹と弟の顔を思い出してたら、急に空がゴロゴロと鳴り出した。
あれ? と思って見上げると、すっかりさっきまでの空模様とは変わっていて、暗くなって今にも雨が降り出しそうな雰囲気。
まさか、天気予報当たった? 出てくるときは快晴だったから、大丈夫かなって思ってたのに。
どうか降りませんようにって願いも虚しく、ポツリポツリと雨粒が落ちてくる。
ああ、最悪。とりあえず、雨宿り出来ないかなって思いながら周辺を見渡すと、誰かが出てきた喫茶店が視界に入った。あそこで少し雨宿り出来そう。
どんどん雨が降ってきた。少し濡れながら、軒先に走り込む。私と一緒に、スーツ姿の若めのお兄さんも入ってきた。
ハアと溜め息をつく。傘持ってこなかったから。しかもここは見知らぬ土地。近くにコンビニがあるのかどうかも分からない。だけど雨はどんどん降ってきた。
濡れてしまった膝元と腕と髪を、ハンカチを取り出して拭っていく。思ったより濡れなかった。でもなぁ、と空を見上げた。雨、強くなってる。止むかな? 止んでほしいんだけど。
左手首につけている時計にチラッと目を向けた。針が指しているのは午後の14時過ぎ。そろそろ帰らないと、家に着くのがかなり遅くなってしまう。今日は最後の夜だから、目一杯、妹と弟を甘やかしてあげようと思ってたのに。こんなことなら、電車降りなければ良かった。
「お兄さん」
どうしようと軽く息を吐いたら、喫茶店の入り口に立っていた人が、一緒に雨宿りのため軒先に入ってきたお兄さんに、私を挟んで声を掛けた。
思わず顔を上げたら、目に入ってきたのは私とあまり年が変わらなそうな女の子。多分だけど。でも……
すごく、綺麗で可愛い子。
眼はパッチリしていて、鼻筋はスッと通っている。茜よりは少し長いとは思うけど、それでも短い髪が似合っていて、大人っぽさも感じるけど、お兄さんに向けるニコニコとした笑顔は子供のようなあどけなさを含んでいた。
こんな、綺麗だけど可愛いって感じの人いるんだな、って茫然としてしまった。世の中は広いなぁ。あ、傘持ってる。
ふいに、彼女が持っている傘に自然と視界に入ってくる。いいな。
彼女はその傘を隣のお兄さんに、ズイっと差し出していた。
「お兄さん、傘ないんでしょ? これ使いなよ」
「え? いやでも?」
お兄さんは私と傘を差しだしている彼女を交互に見てきた。若干慌てているような気がするけど、気のせいかな? けど、お兄さんはきっと今仕事中なんだよね。だから彼女も、傘をお兄さんに貸そうとしているのかも。
なんてことを呑気に考えてたら、彼女はニッコリ笑って「黙っててあげるよ?」ってお兄さんに言い出した。黙っててあげる?
お兄さんは彼女の言葉を聞いて、顔を青褪めさせている。お礼を言って、逃げるようにその傘をさして飛び出して行ってしまったけど……ああ、やっぱり仕事が大変なのかなって勝手に納得した。
「さてと、ちょっとこれ持ってて?」
お兄さんの方を思わず見てたら、目の前の彼女がこっちを向いていて、自分の荷物とリュックを私に差し出してきた。「え? え?」と戸惑っていたら、更に押し付けてきたから、思わず両腕で抱えてしまったよ。
けど、次の行動に更にぎょっとしてしまった。いきなり自分の着ているパーカーを脱ぎだすんだもの。
「ちょ、ちょっと、何を……!?」
いくら春だからって、さすがに寒いんじゃないのかな? 人の事言えないけど。私もただのワンピースだし。実は少し肌寒い。
でも、彼女はお構いなしにそのパーカーを脱いで、Tシャツ姿で何故かそれを差し出してきた。
「はい、これ」
えっと……? 訳が分からず、首を捻って彼女とパーカーを交互に見てしまった。彼女は自分の荷物を私から受け取って、そのパーカーをズイっと差し出してくる。
もしかして……着ろってことかな? でも、どうして?
「えっと……け、結構です?」
「着方、分からないの?」
着る理由がないから断ったら、思いもよらない返事が返ってきてしまった。いや、あの、分かるんだけど……。
「いや、そうじゃなくて! 着る理由がないというか……?」
両手で振って断ったら、一瞬目をパチパチと瞬かせてから、目元を緩ませて微笑んだ。あ、綺麗……と思ったのも束の間、私の胸元を指で差してくる。……え?
「別に着たくないなら止めないけどね。ただ、道すがら色んな人の視線は受けると思うよ。まあ、あなたにそういう趣味があるのなら、これは確かに余計なお節介だよね」
し、視線? 趣味? 言葉の意味を理解しようとするのと、自然と彼女が指を差した方に視線を向けるのとほぼ同じ。そして言葉を失った。
う、嘘!? 透けてる!?
視線の先には、雨で濡れ、透けて見えてしまっている自分の下着。恥ずかしくて、カアアアっと頬が熱くなっていくのを感じる。慌てて自分の腕で胸元を隠してしまった。
でも、彼女はしっかり見てる。あ、もしかしてさっきのお兄さん!? 見られた!? 全然気付かなかった! は、恥ずかしすぎる! クスクス笑っている声が聞こえて、余計恥ずかしくなった。
「どうする? それとも、何か着れるもの持ってる?」
……ないです。けど、かといってこれで電車に乗ったら、大勢の人に見られてしまう。
……ああ、もう。ちゃんと連絡先聞こう。洗って返そう。さっき断ってしまって、すぐひっくり返すのも申し訳ないけど。
スウっと片方の手を彼女のパーカーに伸ばしていた。
「ご……ご厚意に甘えていいですか?」
少し擦れる声で言ったら「どうぞ?」って彼女は二つ返事でパーカーを渡してくれる。
それにしても、知らない人にこんなすんなり服とか傘とか差し出すなんて、この人凄いなぁ。私だったら少し迷ってしまうと思うけど……。
袖を通し終わって、無事に胸元も隠せた。いい香りもしてきて、ホッと自然と息も漏れる。彼女に視線を向けると、右手首につけている腕時計を眺めていた。
「あの、ありがとうございます」
「どういたしまして」
お礼を言うと、ふふって笑って、彼女が返事を返してくれた。名前と連絡先聞かなきゃ。そう思って口を開きかけたら、彼女はまた思いもよらない行動に出た。
自分のリュックから予備の折り畳み傘を取り出して、「はいこれ」って私の手に渡してきたんだから、さすがにびっくりするよ。まだあったの? 用意がいいなぁって感心してしまったけど、これを何故私に? 自分が使うんじゃないの?
思わずポカンと、今度は傘と彼女を交互に見てしまう。
「私もう行かなきゃいけないから。それじゃあね」
「え? ちょ、ちょっと待っ……!?」
呼び止める間もなく踵を返して、雨の中に走り出した彼女。え、え?! なんで自分が濡れるのにこの傘を私に渡してきたの!? ううん、それよりっ……!!
「待ってっ!! 名前まだ聞いてないっ! 連絡先もっ……!」
慌ててその傘を開いて彼女を追いかけようとするも間に合わず、雨の音のせいか私の声に気付かなかったのか、もう一瞬の内に彼女は曲がり角を曲がって、姿も見えなくなってしまった。
パシャパシャと追いかけて周辺をキョロキョロしたんだけど、もう姿は見当たらない。
……これ、どうしよう。
彼女の傘とパーカーに自然と視線を向けてしまった。名前も分からない。住んでいる所も連絡先も分からない。
それに、彼女自身も見える限りでかなり濡れてしまっているように見えた。風邪、引かないといいけど……。
自分のことそっちのけで、知らない人に傘をくれて、気を遣って服まであげるなんて……優しい人なんだな。同じような状況だったら、私は彼女と同じように出来るかな?
少し周辺を歩いてキョロキョロと辺りを見渡したけど、彼女の姿はもう見つからなかったので、諦めて駅に向かった。
さっきの喫茶店に来てたよね。また来るかな? 今度の休みに来てみようか。もしかしたら会えて、服と傘を返せるかもしれない。
帰りの電車に乗って、着ているパーカーをそっと撫でる。知らない香りに包まれているのが不思議な感じ。これ、香水かな? いい香り。それにこれ、とても着心地いいんだけど。肌触りが柔らかい。どこで売ってるもの? あ、ロゴ……
服についてるロゴを見て、一瞬意識が遠くなりかけた。
嘘……これ、前に蛍が見せてくれた雑誌に載っていた高級ブランドのロゴじゃない?! あの雑誌に載っていた服、どれもケタが違う気がしたんだけどな!? ど、どうしよう……ちゃんと返したい!
次の休みに彼女があの喫茶店に現れることを、心の底から祈ってしまった。
だけど不思議と、ずっと緊張していた心がほぐれていた。
お読み下さりありがとうございます。