84話 宝物 ― 一花Side
「それで? 一花ちゃん、あれから体の調子はどうなの?」
答えが分かり切っているだろうニッコニコの笑顔を浮かべている母さんにげんなりしてくる。
「平気だ……」
「それはよかったわね。本当に心配してたのよ?」
「それは知ってるが……」
「優一なんか、心配で心配で、大切に育てているあの研究用植物を何本か枯らせてしまっていたわね」
「それも、申し訳なく思ってはいるがな……というか、いい加減離れろ、このバカ姉が!?」
グイ―っと抱き着いている姉さんの顔を思いっきり手で突き放す。モガモガと何か手の向こうで何やら話しているが、聞き取れないからな!?
「涼花も心配で仕方なかったのよ。それはもう、あなたへの愛が暴走するぐらいに」
「いやいやいや、母さんまで何言ってやがるんだ!? あんたの娘が末の娘に今まさにやろうとしていることを止めろよ!?」
「無理ね」
「即答するなよ!? ああ、もう! だからそれ以上くっついてくるなって言ってるだろうが!!」
実力行使で、いつもどおりの蹴りを姉さんのお腹にヒットさせると、やっと姉さんの体が離れていった。そのままソファから落ちたと思ったのに、グスグスと目に涙を溜めながらそっと顔だけを覗かせてくる。
「酷いわ、一花ちゃん……こんなのいつもの私の愛情表現じゃない」
「それが普通じゃないっていい加減気づけ?!」
「そんなの無理よ! そもそも私がどれだけ一花ちゃんのことを心配してたと思ってるの!? あれから何度もメッセージしてたのに、全っ部スルーしてたじゃない! 仕事が手につかなくて、近藤にどれだけ説教されたか分かる!?」
「知らんわ! あたしはちゃんと大丈夫だって送っただろうが!?」
「一花ちゃんの大丈夫って言葉ほど、信用できないものないから」
「ああ、うん。そうね。それは私も同意見よ」
母さんまでうんうんと頷くなよ!? それでキスを無理やりしてくるのは違うだろうが!?
また姉さんが飛びついてきそうになって、あたしがもう気絶させようとソファから立ち上がろうとした時に、母さんがやっと救いの手を差し伸べてくれた。
「ほら、涼花。もう十分でしょ? さすがに一花ちゃんがそろそろ我慢の限界みたいだから、そろそろ静かに座っておきなさい」
「……母さん、私はね、いついかなる時も一花ちゃんがいる瞬間は激愛するって決めてるのよ。邪魔しないでもらえる?」
「真面目な顔してるところ悪いけど、これ以上一花ちゃんの嫌がることをするなら……もうあなたと一花ちゃんを会わせないことも出来るわよ?」
「ごめんなさい」
さっさと自分の意見を翻して、静かにソファに座り直している姉さんを見ているとドッと疲れてきた。いつまでこんなやり取りをしないといけないんだよ?
いや、まあ、それよりもちゃんと気にしないといけないことがあった。
「涼花様の一花お嬢様への激愛、昔となんら変わりませんね」
ふむふむと静かに無表情のまま頷いて呟いているメイド長。なんでここにいるんだよ?
自然にこの光景に馴染みすぎてて、少し呆れつつメイド長を見ていると、母さんがハアと頬杖をつきながらため息をついていた。
「変わらなすぎて困ってるのよ。いつまでも一花ちゃんのことばかりで。いい加減妹離れしてほしいとは思ってるんだけどね」
「ちょっと、母さん!? いきなり何を不穏なことを言いだしてるのよ! 私が一花ちゃんから離れるなんてこと絶対あるはずがないでしょ!?」
「地方の病院」
「やぁね、母さんったら。私も昔よりは我慢してるでしょ? これって成長だと思わない?」
コロコロと表情を変えすぎだ、バカ姉が。母さんには姉さんも絶対逆らえないんだよな。母さん、絶対やるって言ったら実行する人だから。
そんなことよりと、メイド長の方に視線を向けた。
「それで? メイド長はどうしているんだ?」
「まあ、一花お嬢様。私がここにいることが不思議ですか?」
「そりゃそうだろ。源一郎さんの傍をめったに離れないだろうが」
「そんなことはありませんよ。これまでも何回か葉月お嬢様のお世話なりしにきたではありませんか」
……それはそうだが。去年、何回か葉月の監視をしてほしくてきてもらったことあるしな。でも今は、葉月の状態はいいわけだし、来る理由がないんじゃ?
というか、むしろあの人の傍にいてほしい。葉月が元気になった今、あの人が何やらしでかしそうで怖い。それを止められるのは、美鈴さんたちがいない現状では、メイド長しかいないんだが。
むしろ、源一郎さんから何か言付けでも貰って来たのか? そうなったら、ものすっごくあたしも巻き込まれそうな気がしてならない。
そんな疑問の目をメイド長に向けていたら、軽く肩を竦めたメイド長が母さんに視線を移している。母さんもまた困ったように笑っていて、机の上に置いていた薄い本みたいなものを手に取っていた。全部疑わしいものに思えてくるんだが。
「一花ちゃん、これ」
「……非常に受け取りたくない」
「その気持ちは私も同意見だけど、きっとあなたの考えているようなものじゃないわ」
「旦那様が是非一花お嬢様へと」
「絶対受け取りたくない」
「いいから、ちょっと読んでみなさい」
母さんがその本をメイド長に渡して、受け取ったメイド長が無表情のままあたしの元に届けてくる。……やめろ。その無表情の圧をかけながら渡してくるな。つい受け取ってしまったじゃないか。
一体、何の本だ? 葉月のことに関する無茶ぶりな要望を書いてるとかじゃないよな? 葉月になんて言えばいいんだ――まあ、葉月は全部躱すだろうが。
恐る恐るページを捲ってみると、誰かの手書きの字が見えた。
……これ。
「美鈴様が書いていた日記です」
「あの人の?」
「はい」
メイド長の無表情に似つかわしくない優しい声が頭上から降りてくる。またページに書かれている字を見た。
美鈴さん、日記なんて書いていたのか。どうりで見たことある字だと思った。日記……似合わない。
「実はずっと葉月お嬢様の目に触れないように、私が隠しておりました」
「あの時は葉月ちゃん、全部壊していたからね」
「ええ。ですが、もう葉月お嬢様は大丈夫だと判断しましたので、お嬢様のお部屋の本棚に戻しておきました」
葉月の部屋に? 気づかなかった。確かにこの前久しぶりに葉月たちと一緒に行ったら、元通りに物があったな。
それにしても、美鈴さんの日記って……絶対葉月の事だろ。可愛いとか天使とか、そんなのを延々と書いている気がする。
そんな想像がついて頬が自然と緩んでしまう。
改めて、ページをまた捲ってみる。
『×月×日
あーやば。ウチの子が可愛すぎる。
帰った時のあのニパっとした笑顔。私のところにトテトテと歩いてきて、足にしがみついてきてからのあの見上げてくる顔。あのバカ親父に騙されたことがもう何もかもどうでもよくなってくる。疲れが吹っ飛ぶ。ウチの子って天使の生まれ変わり? もしくは妖精? いえ、違うわ! ちゃんと私と浩司さんの子供よ! 葉月は世界一の子供! 間違いないわね!』
案の定予想したことが書かれていて、母さんたちがいたにも関わらず笑ってしまった。
「葉月お嬢様にはいずれお話するつもりでした。ですがその前に一花お嬢様にと、旦那様が」
「あたしに?」
「ええ。旦那様が久しぶりにその日記を見て」
相も変わらず無表情なのに、その顔がどこか優しく感じる。メイド長がこんな顔をするのは珍しい。
でもどうして源一郎さんがあたしにこれを?
また一ページ捲って、字を辿る。
『〇月〇日
葉月に友達が出来た! もうあの子は天才すぎる! 早くも友達にあだ名をつけているなんて! コミュ力もバッチリね!
それにしても、蘭花の子供の一花は、変な子だわ。ずっとムスッとしたままなんだもの。蘭花は自分の子で一番可愛いとか言ってたけど、どこを見て言ってるのかしらね。確かに優一も涼花も変な方向に育っていってる感じはあるけど、ものすごく蘭花に似てるわよ、あの子たち。
でも、あれは駄目だわ。
生まれたばかりの葉月と同じ目。
どこも見ていない、何も感じていない。
葉月も最近は超絶可愛い笑顔を見せてくれるようになったけど、あの時の葉月より一花は何も見えてないかもしれないわね。
せっかく葉月の友達になったんだから、あんな辛気臭い顔をさせたら駄目じゃない。今度蘭花に会ったら言ってやろ』
うるさいな。仕方ないだろ。あの頃は前世の記憶とごちゃごちゃで、母さんたちが誰かもよく分かってなかったんだから。
でも……美鈴さんは気づいていたのか?
葉月もあたしも、この世界じゃない記憶を持っていることを?
けどそんな話、美鈴さんしてなかった気がするんだが。
また一ページ捲ってみる。
『×月×日。
葉月と一花にまた新しい友達が出来た! 円城家のご令嬢。うん、あの子は格段に変な子ね! 学園長というか、正嗣はどんな育て方してるのかしら? あの脳金男のことだから、きっと娘の教育もままならないでしょうね。なんか間違った考え方してたわ。
ああ、でも……一花は最近いい変化が起きてるわね。葉月のあの可愛さには敵わないけど、表情が前より格段に出るようになった。レイラみたいな子と付き合うのも悪くないのかもしれない。
私の教育方法がどうのこうのってずっと説教してくるけど、もっともっと自由で奔放に遊び回るのが子供ってものよ! 蘭花、きっと悔しがるわね。私の遊ばせ方の方が、一花もいい顔するようになったんだもの。
こうなったら、一花もレイラも、もっともっと葉月みたいにはっちゃけなさい!』
いやいやいや、あんたの教育方針おかしいんだよ。野生の動物に追い掛け回せたり、屋敷中のトラップに挑ませたり、五歳ぐらいの子供にやらせることじゃないだろうが。
昔のことを色々と思い出して、つい苦笑してしまう。
また一ページごとに捲っていく。
どれもこれも、葉月が天才だとか可愛いとか、あたしにツッコまれていることとか、レイラが泣きわめいていることとか、あの時のことが書かれている。源一郎さんへの恨み言も、母さんの説教への愚痴とかも。
懐かしい、懐かしすぎる思い出ばかりが、あたしの頭の中を駆け巡っていく。
あの騒がしく、楽しかった記憶。
忘れたくない思い出で、自然と胸の奥が熱くなっていく。
ふと、あるページのところで手が止まった。
『×月〇日。
葉月ってば、本当優しいわね。一花へのプレゼントだなんて。レーザーを出す眼鏡っていう発想も素敵すぎる! もうその発想が天才ね!
でも残念ながら、その技術は今じゃ無理ね。もしかしたら数年後には葉月自身の手で作り出しちゃうかもしれないけど、さすがに今は我慢してもらいましょう。そんなのを作っちゃったら、戦争大好きな馬鹿な連中がこぞって狙いにくるかもしれないからね』
この眼鏡を作った時のことか?
『レーザーは無理だけど、でも頑丈そうなのは作ってあげましょうか。この前他国に行った砂漠で、目に砂が入って痛そうだったものね。さすがにあれは可哀そうかも』
いやいや、まずその砂漠に連れて行くなとあの時は思っていたんだよ。
『でも、一花も丈夫になったものだわ。初めて会った時のあのこの世の終わりみたいな顔をしていた時が懐かしいわね』
そりゃ、あんたが色んな所に連れ回してくれたからな。
『壊れないでほしいわ。ああ、それだと絶対に壊れない眼鏡にするのもありね。そうすれば、葉月も一花も、この世界が壊れないって信じられるようになるかもしれない』
……え?
『昔の記憶とかよく分からないけど、でも信じてほしいわね。私と浩司さん、蘭花たちが、どれだけ二人を愛しているかを』
グッと日記を持っている手に力が入る。
美鈴さん、気づいてたのか……?
『壊れないわ。葉月も一花も、もっとお互いの存在だけじゃなく、この世界に生きていることを信じてほしい。その為に、私が、皆がいるんだから。宝物を守るために』
葉月とあたしの在り方も……気づいて、いたのか。
『葉月、あなたはね、私と浩司さんの宝物。
一花、あなたはね、蘭花たちの宝物。
皆の宝物。
私たちの愛する子供』
胸が、熱い。
『そうね、やっぱり絶対壊れない眼鏡にしましょう』
目頭が、熱い。
『葉月には、一緒に作って、自分が壊れないものを作れる自信を』
喉がひりつく。
『一花には、壊れないことがある事実を、知ってもらえるように』
目が霞んだ。
そっと、いつのまにか横に座っていた母さんの手が背中を撫でてくる。
「美鈴ね、最初から言ってたのよ」
眼鏡に涙が溜まっていく。
「葉月ちゃんが産まれた時に、子供があんな絶望する目をしないって」
頬を熱い雫が落ちていく。
「一花ちゃんも覚えてるでしょ? 美鈴の葉月ちゃんの可愛がり方。あれね、葉月ちゃんを笑わせたかったのよ。幸せってこういうことだって教えたかったらしいわ」
覚えてる。
覚えてるさ。
好きだったから、あの光景が。
「一花ちゃんのことを見て、ものすごく怒ってたわ。『あんた、どういう教育してんのよ!?』って」
雫が落ちて、日記に染みが出来る。
「私の娘だっていうのに、美鈴は一花ちゃんと葉月ちゃんを重ねたのね。何とかしなきゃって思ったのか、私から一花ちゃんを奪おうともう喧嘩よ、喧嘩」
知ってる。
知ってた。
分かってた。
「葉月ちゃんはもちろんだけどね……美鈴は、一花ちゃんのことも宝物だって思ってたわ」
ちゃんと、あの人があたしのことも大切にしてくれてたって。
そのまま優しく母さんが抱きしめてくれる。
「葉月ちゃんと、一花の未来を、美鈴はね、笑って過ごしてほしかったのよ」
声にならない声が、息と一緒に口から漏れ出る。
『ずっと、葉月と友達でいてほしいって願いよ』
あの言葉は、葉月と一緒に信じてほしいってことだったのか。
未来を。
この優しい世界を。
目の前にいる、あたしを愛してくれる家族を。
「でも、もう大丈夫よね」
母さんが優しく微笑んで、顔を覗き込んできた。
「葉月ちゃんがああなって以来、葉月ちゃんと会う前の顔に戻っていたあなたが、今はそんな顔をしているから」
眼鏡の下から、涙を拭いてくれる。
「……どんな顔だ?」
「ふふ、今度、連れていらっしゃい」
誰を? とは母さんは言わない。……舞の事知ってるな、これ。
まだ目が真っ赤だろうけど、グイっと自分の腕で残っていた涙を拭った。
自分の表情が、どう変わったかは分からない。
だけど、気持ちはちゃんと変わった。
もちろん、葉月や花音、レイラのおかげもある。
でも一番は、
舞のあの慌てふためく姿が脳裏に浮かぶからだ。
美鈴さんたちとの、
あの慌ただしくも楽しい時間を思い出させたのは、
やっぱり舞だからだ。
パタンと日記を閉じて、立ち上がってからメイド長に渡した。
「もういいので?」
「ああ。今度葉月にも見せてやれ」
「持っていってもいいですよ?」
「あいつはきっと、美鈴さんたちの傍でそれを見たいだろうさ」
鴻城の屋敷で、思い出がいっぱい詰まったあの場所で、花音と一緒にな。
まだソファに座っている満足気な母さんと、何故か「私は許さないわよ……」とかブツブツ呟いている姉さんを見下ろす。
「今度、家に帰る。父さんたちにも伝えてくれ。最近は父さんともまともに話してないしな」
「そう。待ってるわ」
「……あいつは連れてかないからな」
舞のことは連れて行かない。絶対あいつは緊張しまくってアタフタするに決まってるし、母さんが何やら色々と舞に関心を向けそうだ。母さんも結構腹黒いからな。源一郎さんほどじゃないにしても、何に巻き込まれるか分かったもんじゃない。
ふふっと母さんはそれでも笑っている。
「一花ちゃんがそうでも、あの子はどうかしらね~?」
「……時期が来たら、な」
「そう。それは楽しみね」
「私は全っ然楽しみじゃないわよ! 一花ちゃん、私は絶対認めないか――ぶふっ!」
飛びついて抱きつこうとしてきた姉さんを避けて、足をドアに向けた。このバカ姉。そろそろ同じことをしないように、勉強しろよ。あと、舞に昔の事ベラベラ喋った事、本当はかなり根に持ってるからな。
……そうだ。
ドアから出る前に、ソファに座っている母さんに向き直る。
「母さん」
「何?」
「……ありがとう」
自然と、頬が緩んだ。
知ってるから。
ちゃんと分かってるから。
母さんが、姉さんが、兄さんが父さんが、
みんなが、ちゃんとあたしを愛して、見守ってくれていることを。
「本当に、ありがとう」
今まで、何度となくこの言葉を伝えてきた。
思ってきた。
でも今までにないくらい、晴れやかな気持ちだ。
心の底から、今思う。
「あたしを産んでくれて、育ててくれて、愛してくれて、ありがとう」
この世界に生まれて、
母さんたちの娘で、
姉さんたちの妹で、
この家族の一員になれて、
本当に良かった。
母さんは少し目を丸くさせて、でもすぐに優しい眼差しで見てくれた。姉さんはガバッと起き上がって泣きそうになってるけど。
「そんなの当たり前よ」
母さんのその言葉にとても胸があたたかい。
今度こそ、ドアを開けて部屋を出る。
さて、帰ったら舞のご機嫌取りでもするか。せっかくの休みなのにって不機嫌そうだったからな。葉月の悪戯に巻き込まれて悲鳴をあげているかもしれないが。
つい窓の外の景色が目に映る。
太陽の光が草木に反射して輝いて見えた。
帰ったらきっと舞は涙目になりながら、「どうして置いていったのさ!?」とかなんとか言ってくるだろう。
そんな未来が見えて、自然と笑みが零れた。
美鈴さん、もう大丈夫だ。
葉月もあたしも、
この先の楽しい未来を待ち望んでいるから。
お読み下さり、ありがとうございます。




