58話 謝らないと
『一花は実家帰んないの?』
『まあ、近いしな。顔を出すくらいはするとは思うが、寮で過ごすことになるだろうさ』
『じゃあさ、じゃあさ、一花。冬休み、あたしも早く帰ってくるからさ、そしたら遊びにいこうよ! 葉月っちも一緒にさ!』
冬休みに入る前に、舞はそんなことを言い残して実家に帰省した。『お土産も楽しみにしててよね!』みたいなことも言っていた気もする。
夏休み終わりのレイラのお土産みたいなものを買ってこないといいが。まあ、舞はあれでセンスはいい方だから大丈夫だろう。敢えて面白いモノをとか考えなければだが。
お土産といえば花音もか。花音の実家近くで売っているエビ煎餅は美味いんだよな。あれは少し期待している――が……最近、花音のお菓子攻撃が半端ない。理由は分かっている。きっと、花音は今でも葉月のことがちゃんと好きなんだろう。
スッキリしている顔をしていた、と兄さんが教えてくれた。
それはそれで喜ばしいと思う。
花音が葉月を諦めていないというのは、まだ可能性はあるかもしれないから。
……ただ、花音が葉月を諦めないのは嬉しいことなんだが、あのお菓子とご飯攻撃は少々しんどいだよな。
部屋を替わって以来、葉月は花音のご飯を避けるようになったし、毎回目隠しさせるのも限界があるというか……つまりは葉月が食べない分、あたしが食べているわけで……今は花音が帰省中で良かったと思っているぐらいだ。
いや、まあ、そんなことより……その当人の、今の奇行の方が問題かもしれない。
「むー。むー」
「……」
「むーむーむー」
「……」
「むー……むむ……むー……」
――――鬱陶しい事この上ない。
さっきから、葉月が部屋の中を転げ回っているからだ。
「むーむー」
っっっえええい、鬱陶しい!!
読んでいた本を閉じて、ドスッと転げ回っている葉月の背中を踏みつけた。そのまま腕を組んで見下ろすと、肩越しにボケっとした目を向けてくる。
「……お前はあれか? そんなに自分の体で床掃除をしたいのか?」
まるで『はて?』とでも頭の中で言ってそうな顔をして見上げてくるから、イライラと腹が立ってきた。どうせ今思い出してるのは花音のことだろう。
あのな、あたしがお前を見逃すと思っていたのか? しっかり見ていた。クリスマスパーティーの時に、花音にキスされているお前をな。あんなことをされても、絶対こいつ、自分の気持ちにも花音の気持ちにも気づいていない。花音が不憫になってきた。いくら恋愛とは今まで無縁だったとしても、何故に好意を持たれているって気付かないんだ。
というか、花音……なんでこんな奴のこといまだに好きでいられるんだ? テーブルの下も芋虫かのごとく這うように潜りぬけつつ、それでもゴロゴロゴロゴロと転げ回る変人だぞ……なんてことを少し考えていると、目の前の葉月がきょとんとした目を向けてくる。
「その不思議そうな顔をやめろ」
「でも、いっちゃん。私は掃除に興味はあまりないんだよ?」
「さっきから部屋中を転げ回っておいて何を言う?!」
今度は『なんだって!?』とでも頭の中で言ってそうな顔をした――かと思えば、あたしの足を払いのけて、正座しだした。
「いっちゃん!」
「なんだ?」
さらには『あ、何でもなかったや』とでも言いたげに、パチパチと目を瞬かせている。
「呼んでおいて、何も無しか?」
「大丈夫だったから、いいや」
「自分本位すぎるわ!?」
そう言ったところで、ふと、変化に気づいた。
……いつもの目じゃない?
ジッと腰を屈めて、間近で葉月の目を見つめる。……おかしいな。いつもと違う。いつもはこう、いつ引っ張られるか分からない、子供の声が葉月の中で聴こえているかもしれないみたいな目をしているんだが。花音と部屋替わってからは、特にストレス抱えているような感じだったのに。
「……何かお前変だな?」
「いつもだよ?」
「そっちの変じゃない。大分キてると思ってたんだが……今さっき転げ回ってたしな。でもなんか……いつもは欲全開って感じなんだが、その感じがしないな……お前今ここにいるよな?」
「やだなぁ、いっちゃ――」
念の為の合図を言うと、葉月の言葉が途切れる。笑っていたはずの口角がだんだんと下がっていき、目の瞬きの回数が多くなってきた。
「葉月?」
目を見開いて、またあたしを見てくる。返事がないのがどうにも不安に――
いきなり、葉月の空気が変わった気がした。
ゾワゾワッと鳥肌が立ってくる。
目の前の葉月の口角が、ゆっくりと上がってきた。
やばい、と本能的に感じる嗤い方。
今までの経験から分かる、その前兆。
咄嗟に葉月の体を拘束しようとして、でも葉月の方が早かった。押さえつけようとした手が空振りした隙に、グルリと体を反転させて、一気に窓際に駆け寄ろうとしている。
「待て! 葉月!」
「あっは」
――まずい!
その嗤い方が、酷く寒気を引き起こしてくる。
窓に鍵がかかってるのが分かったのか、葉月は遠慮なしにその窓を殴りつけるような動作を取っていた。その手を腕ごと無理やり後ろに引っ張った。葉月の体がまた反転して、そのままあたしも床に押さえつける。
葉月に跨って、腕を床に押さえつけたまま葉月の視界に入るように、自分の体を動かした。その間も足をバタバタさせてくる。
「落ち着け、葉月!」
「う、あ! じゃ、ま!!」
「いいから、こっちを見ろ!」
「あっは、あは! あはは! うん、うん! そうだよねぇ!」
ドクドクと嫌な感じに心臓が騒ぎ出した。あたしを見ていない目で宙を仰いでいる。
誰と会話してるのか予想がつく。今、葉月は自分の中で子供の自分と会話している。なんでいきなり!? さっきまで普通に会話していたのに!!
葉月はあたしの手をどかそうと、腕ごと体ごと暴れ出した。その間も、「邪魔だ、邪魔ぁ!」「あはは! 早く、早く!」と会話しているかのような言葉を出している。
最悪だ! こっちを全然見ようとしない!
「葉月! こっちを見ろ!」
無理やり顔を近づけると、やっと葉月がピタッと止まった。
「馬鹿が! 落ち着け!」
ハッハッハッと息を荒くして、目を見開いて、でもちゃんとあたしのことが視界に入ったようだ。
これなら、いける!
「落ち着けっ……! ちゃんと意識しろ!」
けどまだ葉月の中で声が聞こえているようだった。視線だけを彷徨わせ始める。
「っ――こっちを、見ろ!」
またピタッとあたしを見て、その目が止まった。息を荒くさせているが、あたしの声は届いている感じだ。
「……ゆっくり……ゆっくり呼吸しろ……あたしだ」
ちゃんと分かるはずだ。
あたしの声がちゃんと届いているはずだ。
そう信じて、葉月にあたしの声を聞かせる。
「誰かの声じゃない……あたしの声だ、葉月」
ちゃんと届くように、あたしもゆっくりと言葉を出した。
段々と葉月の呼吸が落ち着いてきた。
ちゃんと届いている。
そうだ。
あたしの声だ。
「その声は幻だ。誰も何も言っていない」
時々彷徨わせていた葉月の視線が、しっかりとあたしに固定された。
「誰もお前を呼んでいないぞ……葉月」
ちゃんと、こっちに戻って来い。
こっちがお前の現実だ。
「いっちゃ……」
「……そうだ」
やっとあたしのことを呼んだ葉月に、少しだけ安堵する。でもまだ葉月は苦しそうに目をギュッと瞑った。まだ、声が聞こえているのか? だったら――
「今どこにいる、葉月?」
「……呼んでる……いっちゃん……」
「違う、それは幻だ。意識しろ。どこにいる?」
「声が…………」
「それは幻だ。ちゃんと、ちゃんと意識しろ。どこだ?」
合図を言って、無理やり意識させる。更に強く目を瞑っている葉月を見て、緊張のせいか心臓がうるさい。……頼むから、ちゃんと戻って来い。そればかりがあたしの頭をずっと駆け巡っている。
スッと、ゆっくり葉月が目を開けた。
「ここにいるよ……いっちゃん」
……ああ。大丈夫だ。この目は大丈夫だ。
その答えを聞いて、そこであたしもゆっくりと息を吸って吐き出した。
押さえつけていた手を葉月の腕から離して、体を起こすと、葉月は自分の息を整えているみたいだった。
いつもこの瞬間が、安心できる時間だ。
「葉月、おい、大丈夫か?」
「いっちゃん……」
苦しそうな声で、葉月が呟いた。
まさか、まだ?
でも、葉月の口からは違う言葉が吐き出される。
「いっちゃん、ねえ、私おかしいよね?」
泣きそうな声で、聞いてくる。
……こんな風に確認してくるのは初めてだ。まだ混乱してるのか?
「落ち着け……お前まだ……」
「おかしいって言って? おかしいって……」
……その声が、事故直後の葉月の声を思い出させてきて、あたしの方が苦しくなる。
縋りつくように、あたしの腕の服を掴んできた。不安そうにしているその顔が、あの時の葉月と重なってくる。
おかしくない。
お前はどこもおかしくなってない。
そう言いたいのに、その言葉は出てこない。
今必要なのは、
こいつに必要なのは、
『おかしい』って言葉だから。
それが、分かってしまうから。
なあ、葉月。
そう言わないと、お前、保てないのか?
自分で意識するの、難しくなっているのか?
なんでだよ。
花音のことで頭が一杯になってるはずなのに。
なんで、そこまでして、美鈴さんたちのところに行きたがってるんだよ。
美鈴さん。
浩司さん。
連れて行かないでくれよ。
こいつのこと、大事に想っている子がいるんだ。
源一郎さんたちも、まだ諦めずに生きてほしいって思っているんだ。
あたしも、まだ、諦めていないんだ。
「答えて……いっちゃん」
懇願するように、葉月は言う。
本当は、こんなこと言いたくないのに。
でも、それが少しでもお前が生きる事に繋がるなら――
歯を食い縛って、目を強く瞑った。
「…………そうだな」
絞り出すように呟くと、ちゃんと聞こえたのか腕を掴んでいた葉月の手が離れた。目を開けて顔を見下ろすと、そこでは泣きそうになりながらも、どこか安心した笑みを浮かべている葉月がいる。
おかしくなんてなってない。
お前はちゃんと昔みたいに笑える。
だってそうだろ?
花音と一緒にいた時、お前は時々昔みたいに笑ってたんだ。
あの時みたいに、幸せそうに笑っていたんだ。
今は死にたいって思っているかもしれないが、ちゃんと生きたいって思えるようになる。
だから葉月。
何度でも、何回でも、お前を現実に戻してやるから、
早く、自分の気持ちにちゃんと気づけ。
あたしから言ったんじゃ意味ないんだ。
ちゃんと自分で気づかないと駄目なんだ。
そうしないと、お前は絶対認めないから。
死ぬことを優先するから。
気づけばきっと――お前はまたあの頃のように笑えるから。
それまで、ちゃんとお前を何度も何度もこの現実に戻してやるから――
『じゃあさ、一花。冬休み、あたしも早く帰ってくるからさ、そしたら遊びにいこうよ! 葉月っちも一緒にさ!』
……そういえば、舞が帰省する前にそんなことを言っていた気がする。
何で今、あいつが言ったことを思い出すんだか。
――ああ。
そうか。
それは叶わないことだからか。
ついそのことを考えて、葉月がいる前で苦笑してしまう。
「いっちゃん?」
「何でもない。水飲むか?」
「……アイスがいい」
「馬鹿野郎が。買ってきてないだろ。誰かに明日にでも買ってくるよう言っておく。他にも色々と。……当分、ここから出られないからな」
「……うん」
いきなり引っ張られるかも分からない危険性。それを当分抑えるためには、この部屋で過ごすのが一番いい。今が冬休みで良かったと思う。
兄さんたちがいる病院に連れて行くのが一番安心するが、さっきみたいな感じだとそれも危ない気がする。兄さんと会うのも、今は葉月にとってストレスがかかるはずだ。
今の自分の状態を分かってるのか、申し訳なさそうに葉月は返事してくる。馬鹿野郎だ。本当に。
「そんな顔するな」
「ごめんね、いっちゃん」
謝る必要はない。
自分で決めたことだから。
それに、
「あたしの方が……謝らないとな……」
「うん?」
不思議そうに首を傾げている葉月を見ながら、思い浮かべたのはバカみたいに笑っている舞の顔。
この冬休み、お前には付き合えない。
せめてもの思い出を、あげられなくてすまない。
心の中で舞に謝りながら、冷蔵庫にあるペットボトルの水を取りにいった。
それから毎日、葉月はあの声を聞こえるようになって、帰ってきた舞に顔を合わせるたびに心苦しくもあり、
断る時に見せる舞のその寂しげな顔を見れば見るほど、
自分がその顔をさせているんだと、
傷つけているんだと、
自分に好意を向けてくれるのに、結局は傷つける事しかできない自分が、嫌で嫌で仕方がなかった。
お読み下さり、ありがとうございます。




