56話 それでも
「教えちゃった……」
そう小さく呟く葉月の声が今にも消えそうで、でも予想通りの答えで、「そうか」と答えることしか出来なかった。
葉月が退院して、やっと花音にも笑顔が戻って、舞も嬉しそうで、レイラも安心していて、また前みたいに戻れると思っていた。
葉月は源一郎さんに初めて電話をかけていたし、いい方向に進んでいると思った。源一郎さんのあの嬉しそうな声を、何年ぶりに聞いたか分からない。母さんも兄さんも魁人さんも沙羅さんも嬉しそうだった。
でも、
いつかはバレることだったんだ。
最近の花音の様子から、それに気づくには容易かった。
目の下に隈を作って、まるで怯えるように葉月を見ていて、恐る恐るといったように不安そうにしていて。
葉月も子供の時のような笑顔を見せることはなくなっていった。
心配そうに花音を見ていて、いつも悔しそうに拳を握っていた。
察するなという方が難しかった。
今も中庭のベンチの隣で空を見上げ、でもその空を見ていないような目をしている。
「兄さんたちには連絡している」
「うん……」
「心配するな、まだ見られていない」
「うん……」
「レイラの時と同じようにはならない」
「……」
今葉月が心配している一番のことを告げると、葉月は返事をしなかった。花音のお弁当にも手をつけないで、ただ黙って空を見ている。
その目を見れば分かる。
葉月は今自分を制御できないぐらいに危うい。
花音と一緒の部屋は危険すぎる。
期待はあった。
花音ならどうにかするんじゃないかって、そういう期待は常にあった。
でも、優しい花音にあんな葉月を見せるわけにはいかない。
心に傷をつけることを、あたしだって望んでいない。
今、花音は不安で不安で一杯だろう。
いつ葉月が死のうとするかもしれないと、怖くて怖くて仕方がないはずだ。葉月が死ぬ夢を見ているのも分かる。この前魘されているのを自分の目で見たから。
チラッと横にいる葉月の手首に視線を向ける。そこにはあの傷がリストバンドで隠されている。
今まで気づかれなかった方が奇跡だったな……。
「部屋も変える。お前も準備しておけ」
「いっちゃん……」
「なんだ?」
名前を呼んだくせに、葉月は空から視線を外さない。
「任せたから」
たった一言、その葉月のその一言が今まで一番重く耳に響いてきた。
「ああ」
頼まれるまでもない。
あたしにとっても花音は大事な友人だ。
ベンチから立ち上がって、まだ座っている葉月を見下ろすと、きょとんとした丸い目を向けてくる。
そんな葉月の頭にゴンッと拳を振り下ろしてやった。
「い、いっちゃん?」
「いいか、葉月、よく聞け」
「んん?」
いきなり拳骨をお見舞いしたおかげか、葉月は困惑してるような表情をしている。さっきまでの虚無感を感じさせない目を見て、少し安心した。
そしてこれが今の葉月を一番安心させる言葉だろう。
「花音は大丈夫だ」
だから、ちゃんとお前は飲み込まれないようにしろ。
続く言葉は言わないで、口角を上げて葉月に告げると、葉月もパチパチと目を瞬かせてから、やっと口元を緩ませた。
これから忙しくなるな。花音へのフォローもそうだが、源一郎さんたちにも説明しないと。ああ、花音にもちゃんと説明しないとか。だが。
「花音にはあたしから言うか?」
「……ううん。自分で言うよ」
「そうか……」
それもまた花音にはきついかもしれないな。自分が好きな葉月からルームメイト解消だって言われるんだから。花音はそれでも葉月のことを好きでいられるのか? いや、今回の件でもしかしたら、その気持ちも冷めるかもしれないか。
それに、舞にも言わないといけないな……。
舞に言ったら、それはそれで落ち込むかもしれない。いや、確実に落ち込むか。逆に怒るか。どっちになるかは分からないか。
でも、
舞との生活もいつかは終わる事だったんだ。
「いっちゃん?」
「なんだ?」
「……苦しそうだったから」
葉月がそんなことを言ってきて、逆に自分も目を瞬かせた。
苦しそう? あたしが?
そんなわけない。あたしじゃない。
今苦しいのは花音と葉月だ。自分の好きな人が死にたがりで、心を許したルームメイトに自分の秘密を知られてしまったこの二人だ。
ワシャワシャと乱暴に葉月の髪を掻き乱すと、「なんで~!?」と手の下にいる葉月が言っているが無視した。人の心配をする前に自分の心配をしろと言ってやりたくなる。
――いっそのこと、舞には何も言わないで勝手に部屋を変えるか。
どちらにしろ、舞は何でと聞いてくるはずだ。まだ一緒に暮らしている今の部屋では追及が続くかもしれない。
舞には話せない。
舞はまだ知らない。
いつもどおりに、葉月と接してほしいと思う。
あいつだけは、いつもと変わらないように花音を支えてほしいと思う。
見かけとは裏腹に、友達想いの奴だから。
そこはもう信じている。
まだ短いルームメイト生活だけど、あいつの優しさを知っているから。
花音やレイラや、学園でのあいつの友人たちへの振る舞いでそれは分かるから。
あのバカみたいに明るくて、優しいままでいてほしいという願いだ。
「葉月」
「んん~?」
「お前は、ここにいるんだからな」
舞とレイラ、花音、源一郎さんたちがいるこっちが、あたしらの現実だ。
手をどけると、葉月もまたあたしを見上げてくる。
でも、それはどこか悲しそうな笑顔で。
「そうだね、いっちゃん……」
負けるなよ。
まだ、負けるな。
ちゃんと止めてやるから。
どんな未来がこようとも、
あたしがちゃんとお前を止めてやるから。
舞の気持ちを蔑ろにしているのはわかっている。
優先するのは、あたしの中ではいつでも葉月だ。
最低だと思う。
でも、
それでも、
こいつが、美鈴さんたちがいた時みたいに笑う姿を、諦めるわけにいかないんだ。
舞の傷つく姿がちらつく。
それでも、胸の奥が痛むのに気づかないふりをして、花音の病院に付き添っている間に、部下に葉月と舞の部屋の交換をさせた。
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