38話 奇跡
あれから一年。
あたしは変わらない日々を鴻城の屋敷で過ごしていた。
暴れる葉月を止める。
たまに悪夢に魘される。
時々、フラッシュバックを起こして、呼吸困難になって体が動かなくなる。
でもその度に、美鈴さんと葉月がくれた眼鏡をジッと見る。そこで心のバランスが取れるようになった。
レイラは、あれからしばらく部屋から出られなくなったと聞いた。母さんが細目にケアをしに行っているらしい。最近はやっと部屋から出られるようになって、学園にも通えるようになったとも言っていた。
それはそれでよかったと思う。あいつには荷が重すぎる。葉月を忘れて、あいつの人生を歩んだ方がいい。少し寂しく思ったのは、絶対レイラには言ってやらないが。
その日も、いつもと変わらない日だと思った。
この前の太ももの怪我も治りかけている。そろそろ葉月はまた自分を傷つけ始めるだろうな、と思っていた時だった。
案の定、見張りをしていた使用人から屋敷のブザーが鳴らされた。葉月に何かしら起こった時に押されるブザーだ。
食事を切り上げ、葉月の部屋に向かった。
扉を開けて、視界に入り込んだのはやっぱり血塗れの葉月の姿。
葉月は、ゆっくりと窓の外から入口にいたあたしの方に視線を向けてきた。
だけど、その目がいつもの狂気じみた目じゃなくて、動かした足が止まった。
「はづ――」
「……いっちゃん……お腹空いた……」
今度は、言葉が止まった。
今、しゃべ……?
「いっちゃん……お腹……すいた……」
フラッと葉月の体が傾いていく。驚いている場合じゃない。
慌てて駆け寄って、倒れかけた葉月を受け止めた。
「葉月っ……! おいっ!?」
「…………」
返事がない。ぐったりとして、葉月は動かない。くっそ、今回はどこ刺した!? 急いで傷口を探して、床に葉月を寝させてから手で圧迫止血をした。メイド長達も部屋に入ってくる。
「兄さんを呼べ! それと、輸血の準備だっ! 急げっ!」
メイド長以外の使用人たちがパタパタと動き出す。メイド長も止血を手伝いだした。
葉月は今、痛覚がない。半年前ぐらいにそれが分かった。それ以来、葉月自身も躊躇いなく前より簡単に自分の体を傷つけるようになった。今回もそうだ。傷が深い。
グーっと力を込めて傷口を塞ぐ。それでも血は止まらない。でも、きっと大丈夫だ。焦りはあるが、この前よりは出血が少ない気がする。あたし自身、医療に関する本を片っ端から読み漁っている。この一年で大分出来ることが増えたし、経験もそこらの研修医よりも葉月で積んでいた。これぐらいの傷だったら、あたしでも応急処置できるくらいに。
妙に冷静な自分がいる。
分かってる。
さっきの葉月が喋った言葉だ。
こっちの言葉で、葉月は喋った。
それが何を意味するのか、分からない。
それは兆しなのか。それとも、違うのか。
止血をしながら、青白くなった葉月を見下ろす。兄さんが来るまで、そうだったらいいなと、微かな希望の灯を胸に燈らせている自分がいた。
「喋った?」
「ああ……ちゃんと、こっちの言葉だった」
兄さんと駆けつけてきた源一郎さんにさっきの葉月のことを伝えると、驚愕の表情をしていた。当たり前だ。ずっとあれ以来、葉月は前世での言葉を使っていたんだから。病院で外せない用事があると言っていた母さんに伝えたら、絶対喜んだのに。
今は布団の上に葉月を寝かせている。処置は間に合ったから、命に別状はない。
さっきの言葉、さっきの目。
もう一度と思う自分がいる。
あれは、葉月だ。
あたしの知っている葉月だ。
「それが本当だったら……こんな嬉しい事はないね」
「そうですね」
源一郎さんの顔も少し喜んでいるのか安堵しているように見える。兄さんもだ。源一郎さんは、今日は来るのが遅れている沙羅さんに連絡を入れてくると言って部屋を出ていった。その後ろ姿もどこか嬉しそうに見えて、あたしも少しホッとする。
また寝ている葉月に視線を戻した。
「兄さん……葉月、戻ったんだろうか……?」
「話してみないと、そればかりはね。でも、そうだったら嬉しいよね」
クスっと兄さんが笑いながらポンポンとあたしの頭を撫でてきた。また子ども扱いしてきた。あたしの背はこの一年でまた伸びたというのに。……微々たるものだけど。
期待に胸を弾ませて、葉月の顔を見下ろす。
そうだったらいい。
昔みたいに、話せればいい。
あたしのしたことは許されないことだから、葉月にちゃんと謝る。ああ、でも葉月はバカだから簡単に許してきそうだ。そうなったら、簡単に許すなって言ってやらないと。
だから、早く目を覚ませ、葉月。
ポンポンと葉月の短くなった髪を撫でた。
その間も、期待はどんどん膨れ上がっていった。
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母さんが来た。
そろそろ葉月も目が覚める頃合いだと、兄さんがあたしの部屋に迎えに来てくれた。最初にあたしと会わせるらしい。
今まで源一郎さんたちを見ると、葉月は真っ先にあの人たちを攻撃してきた。それに、あたしを見ると葉月が止まることを源一郎さんたちも十分よく分かっている。あたしを見て、葉月がどういう反応をするのかを先に判断することにした。
緊張して、心臓がドクンドクンと跳ね上がっている。
部屋に入ると、もう母さんがいつでも葉月を眠らせられるように注射を準備していた。ちゃんと話せるかはまだ分からないからだ。
大丈夫。きっと、大丈夫。
あの時の『お腹空いた』とか呑気そうなことを話した葉月だから、きっと大丈夫。
そう自分に言い聞かせて、葉月の布団の横に座った。母さんと兄さんが目配せしてくる。声を掛けてみろってことだろう。メイド長は立ったままあたしたちの様子を見下ろしていた。
「……葉月……起きろ……」
ゴクンと唾を飲み込んでから、葉月に静かに声を掛けた。
「葉月……起きろ」
少しペシペシとおでこを叩いてみた。焦っているつもりはないが、どうにも気持ちが逸る。
すると、葉月の目がゆっくりゆっくり開いていった。さらに緊張で心臓がドクンドクンと騒がしい。
「葉月……分かるか……?」
「………………」
ゆっくりと葉月は瞬きをする。覗き込んでいるあたしの目を見てくる。
これは……どっちだ……?
「……いっちゃん……どうして……泣いてるの……?」
葉月は、小さな声でそう呟いた。
じわっと一気に涙が出てくる。
あの時、葉月の首に手を掛けた時と同じように、葉月がまともなことを言ってきた。喉がひりつく。言葉が上手く出てこない。
「お前が……あまり長く待たせるせいだ……バカ野郎が……」
ポタリポタリと、あたしの涙が葉月の頬に落ちていく。母さんと兄さんが安心している空気が伝わってきた。
「……なかないで~、いっちゃん?」
「ふっ……」
止まらない。目をギュッと瞑ると、また頬を伝っていく。
これは嬉し涙だ。
そのあたしの頬に葉月がゆっくりと手を伸ばしてくる。
その手が温かくて、また涙が溢れてくる。
「よしよし~……」
「何が……よしよしだ……ふざけるな……」
まともに戻ったと思ったら、これか。
そんな昔と変わらない葉月に嬉しくなる自分がいる。
奇跡だと思った。
一生、
もう一生、
この葉月に会えないと覚悟していたから。
何がきっかけなのか分からない。
だけど、今目の前にいるのは紛れもない葉月だ。
あたしが知っている葉月だ。
前と同じようにとはいかないけど、葉月は笑っていた。
困ったように、笑っていた。
葉月には、この二年半の記憶がほとんどなかった。
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