237話 与えてくれた
な、に…………?
視界いっぱいに広がるのは花音の顔。
唇には柔らかい感触。
熱い吐息もくすぐってくる。
なん――――?
カッターを掴もうとする手が止まった。
さっきまで頭に響いていた声が薄くなる。
花音がゆっくり唇を離していく。
熱くて、柔らかい感触が、離れていく。
「葉月…………あなたは本当に優しい人だね」
すぐにでも唇がつくぐらいの近さで、花音が私を見てくる。
柔らかく微笑んで、私を見てくる。
「誰よりも……優しすぎる人」
優しい?
花音が頬を撫でてくる。
「自分を愛する人を守りたかったんだね」
だって、いなくなる。
「自分を犠牲にしてでも守ろうとしてたんだね」
それが一番いい方法。
「ねえ、葉月。どうして皆があなたを愛したと思う?」
どうして?
「それはね、あなたがいっぱいの幸せを皆に与えたからじゃないかな?」
私が?
「私はいっぱいもらったよ。葉月から色んな幸せもらったよ」
花音に?
クスっと笑って、花音がそっと腕を頭に回して抱きしめてきた。
暖かな温もりに包まれる。
「葉月が笑うと嬉しかった。葉月が「おかえり」って言ってくれるとすごく安心した。近くにいるだけで胸がドキドキしたし、離れたら切なくなった。おいしいって私の作った料理食べてくれるときの顔が可愛いし、葉月を抱きしめると、その温かさに胸を締め付けられた」
頭をそっと撫でてくる。
耳元で花音の優しい声が響いて、
つい聞き入ってしまう。
「全部が愛おしくて、幸せになれたんだよ。葉月が私にくれたんだよ」
私が花音に?
「だから、葉月を愛した人たちはあなたを守りたかったんじゃないかな?」
花音がゆっくり、撫でてくる。
優しく、壊れないように撫でてくる。
その心地よさが、じんわりと胸の奥にまで染みこんできた。
「私が感じた幸せを、葉月を愛した人たちは受け取ってたから、だから失いたくなくて、あなたを守りたかったんじゃないかな?」
……そんなこと。
「ねえ、葉月。愛されることを怖がらないでいいんだよ」
でもそれだと、また誰かが――。
「死なないから、いなくならないから。大丈夫だから」
うそだ。
だって、花音だって、
「……花音だって……たまにいなくなってた……」
「でも、葉月が見つけてくれたよね?」
だってそれは。
「葉月が守ってくれたよね」
そうしないと怪我をしたかもしれないから。
「葉月がちゃんと守ってくれたから、私はいなくなってないよ」
――――守ったから?
「それにね、葉月。あなたを愛した人たちは、あなたに幸せになってほしかったんじゃないかな?」
私が幸せに?
花音がまた頬に手を添えて、近くで微笑んでくる。
「だから守ってくれたんじゃないかな?」
パパ言ってた?
『しあわ――――せに』
パパは、私に幸せになってほしかった?
ママも?
みんなも?
「葉月は、その人たち嫌いだった?」
嫌い?
そんなわけ――――ない。
「大好き…………だった……」
大好きだった。
パパの大きな手も。
ママの暖かい温もりも。
みんなの笑顔も。
「大好きだったよ」
花音が「ふふ」って笑って、額をコツンと合わせてくる。
「葉月。皆に愛されて嫌だった?」
「そんなことない」
「幸せだった?」
「幸せだった」
「皆もきっと幸せだった」
「パパもママも?」
「きっと幸せだった」
「…………本当?」
「本当。だって、私はあなたを愛せて幸せだもの」
花音が笑う。
柔らかく微笑んでいる。
優しい声が体に沁みわたる。
その姿が、その微笑みが、その声が、
ママやパパ、みんなの笑顔を思い出させる。
重なる。
幸せ?
私を愛せて幸せ?
「葉月、あなたがいなくなったら、幸せ無くなってしまうんだよ?」
「でもいると、みんないなくなる……」
「いなくならないよ」
「うそ」
「嘘じゃないよ」
「でもいなくなる」
「じゃあ、葉月が守って?」
私が守る?
目をパチパチさせる。
「私は葉月を愛してるから、いなくならないように守って?」
花音が額を擦り合わせながら、頬を撫でてくる。
それがとても心地いい。
守ればいなくならない?
花音もいなくならない?
みんなもいなくならない?
「そうすればいなくならない?」
「そばにいるからね」
「そうすれば死なない?」
「死なないよ」
「私を守らない?」
「うーん。私も葉月を守りたいかな」
「じゃあ、いなくなる」
「いなくならないよ。守って、ちゃんとそばにいる」
「本当?」
「本当」
そうすれば――――いなくならない?
守れば、いなくならない?
私を守って死ぬ人いなくなる?
花音の言葉が頭に響く。
反芻する。
沁み込んでいく。
私がその人たちを守ればいい?
そうすれば、みんな幸せになれる?
花音は私を守ってもいなくならない?
一瞬、
ママとパパたちも優しく微笑みながら、頷いているように錯覚した。
目の前の花音は、どこまでも優しく、愛おしそうに目元を緩ませて見つめてくる。
その目を、私は知っている。
パパとママがそうやって見てきた。
みんなが嬉しそうにそう見てきた。
……死ななくても、おじいちゃんたち、いてくれるのかな。
……死ななくても、いっちゃんたち、いなくならないのかな。
そうなのかな。
花音が言うから、そうなのかな。
私がいたら、幸せになれるのかな。
それが、一番いい方法?
――――だったら。
「…………もう少しだけ…………様子見る」
花音が、いっちゃんが、舞が、レイラが、周りにいる皆が安心した空気を出していた。
信じられなくて、また死にたくなるかもしれないけど。
でもちょっとだけ、
花音の言ったことを信じてみたくなった。
目の前の、嬉しそうな花音を見てるとそう思えた。
どこまでも優しく見てくる花音を見ていると、そう思えた。
ママとパパも、
他のみんなも、
花音と同じように思ってたのかなって、
そう思えた。
不思議。
ポカポカする。
あんなに死ななきゃいけないと思ってたのに。
花音がみんなは幸せだったって言ったから。
パパもママも幸せだったって言ったから。
花音が幸せだって言ったから、その温かい言葉が胸に染みこんでポカポカする。
あんなに愛されるのが怖かったのに。
だから、おじいちゃんや叔母さんやお兄ちゃんから離れたのに。
大事にしてくれてるから、そばにいたら死んじゃうって思ってたのに。
花音がいなくならないって言ったから、そうなのかなって思えてくる。
少しだけ。
少しだけ、生きてみよう。
少しだけ信じてみよう。
花音の背中にそっと手を回す。
キュッと肩口に顔を埋めた。
花音も腕を回して、抱きしめてくれる。
あったかい。
いい香り。
落ち着く。
眠くなってきた。
「花音……」
「ん?」
「少し……寝る」
「え? ま、待って、葉月?」
なんか焦ってるけど。
無理。
どんどん眠気が襲ってくる。
瞼が落ちる。
意識が遠くなる。
パパとママの声が聞こえた。
『愛してる、葉月』
優しい声が、私を包んだ。




