232話 まだ、伝えてない —花音Side※
前話の花音視点ですので、少し流血シーンあります。ご注意ください。
ドンッ!
自分の体が塀にぶつかった。
でも、手には葉月の手を掴んでいる。
大きく身を乗り出して、かろうじて葉月の手だけを掴めていた。
ハアハアと自分の息が聞こえてくる。
手の先には、葉月の見上げてくる顔。
怒っているわけでもない。
何の感情もない。
虚ろな瞳をして、私を見上げている。
「手を離して?」
「いやっ……!」
冷静な葉月の声。
地面は遠い。
この高さから落ちたら、絶対に死んでしまう。
手の汗で、どんどん葉月の手が離れていく気がした。
さらに身を乗り出す。
大丈夫。舞の声が聞こえた。「ふぐぐっ!!」と私の腰を支えてくれている。
離さない。
ここで離したら、葉月は落ちる。
恐怖か、焦りか。
分からないけど、涙がどんどん零れていく。
「一緒に落ちちゃうよ、花音?」
「絶対っ――離さないっ――からっ!」
絶対絶対離さない。
葉月はふうと息をついて、下を向いた。
葉月の方から手を握ってくることはない。
どんどん手がゆっくりと離れていく。
ダメ。絶対ダメ。
このまま、葉月を落とすなんてダメ。
ギュッと目を瞑った時、横に誰かの気配がして、さっきまで感じていた重さが一気に軽くなった。
横を見ると、会長が身を乗り出して葉月の腕を掴んでいた。
「引き上げるぞ!」
さらに反対から、一花ちゃんの腕が伸びて葉月の肩口を掴んでいる。
「この! 馬鹿野郎が!!」
葉月がまた私たちを見上げている。
その眼は、絶望しているように見えた。
ドサッ
と、葉月を塀の内側に引き上げて、みんなで息を荒げ、葉月の周りに力が抜けたように座り込んだ。
葉月は動かない。黙って塀の壁に背中を預けて、座り込んで俯いている。
落ちなかった。
死んでない。
安心からか涙が止まらない。
「ふっ……ぅっ……!」
確かめたくて、顔を俯けてる葉月に抱きついた。
首に腕を回して、肩口に顔を埋める。
ギュッと抱きしめた。
自分の体は震えている。
葉月は、何も言わない。
抱きしめ返してくれるわけでもない。
けれど、葉月の体温を感じた。
生きてる。
ちゃんと生きてる。
失ってない。
更に強く抱きしめる。
「なぁ……葉月……」
一花ちゃんの弱々しい震える声が聞こえた。
一花ちゃんのこんな声、初めてだね……。
「いい加減、諦めてくれよ……」
それは願い。
一花ちゃんの願い。
「いい加減死ぬの、諦めてくれよ!」
泣いているのが分かった。
葉月に伝えたい気持ちを訴えてるのが分かった。
一花ちゃんの気持ちが、痛いほど分かる。
死んでほしくないから。
生きていてほしいから。
「無理だよ……」
耳元で聞こえた、か細い葉月のその声に、ビクッと体が跳ねる。
その声は暗く、希望もない声。
死ぬのを諦められないと、葉月はそう言ったから。
一花ちゃんのその願いも、葉月は聞けない。
どうすれば、諦めてくれるの……?
葉月にどうしたら生きたいって思わせられるの?
「なんでですの……?」
レイラちゃんの、怒っているような声が聞こえてきた。
「なんでですのよ! どうしていつまで経ってもあなたはそうなんですのよ!?」
こんなに声を張り上げて、怒るレイラちゃんは初めてだ。
「一花の気持ちが分かりませんの!? 皆が、皆がどんな気持ちでここにいるのか分かりませんの!? いつまで続けるつもりなんですのよ、こんなこと!?」
最後には泣き声に変わっていた。
レイラちゃんも泣いている。
レイラちゃんも、
一花ちゃんも、
昔からの葉月の幼馴染が泣いている。
葉月を想って、泣いてるよ?
「無理なんだよ……」
それでも、葉月の答えが変わらない。
どこまでも沈んだ声。
諦めている声。
「葉月っち……どうしてさ? どうして無理なの?」
舞の意外と落ち着いている声が、背中から届いてくる。
「あたしさ、葉月っちといると楽しいよ? 葉月っちは違う? 皆といて楽しくないの?」
舞は変わらない。
友達思いで、明るくて元気。
そんな舞と一緒に、いつも葉月は笑っていたよ?
バカなことやって、一花ちゃんに怒られて、
楽しそうだった。
そんな2人を見るの、好きだった。
「小鳥遊さん……あなたはいつも、本当に困らせてばかりね……」
東海林先輩も葉月にいつも振り回されてた。
でも、どこか楽しそうにも見えたよ。
葉月がそうさせてたよ。最後にはいつも仕方ないと言って葉月を許してた。
葉月がいなかったら、舞も先輩も、あんな風に笑ってなかったんだよ。
「小鳥遊」
会長の声が聞こえてくる。
「お前、これだけ言われても、何とも感じないのか?」
葉月に困らされていた。悪戯されて怒って、不機嫌にもなってた。
でもね、会長も葉月のこと考えてくれてたよ。
ちゃんと葉月も学園生活楽しめてるか、考えてくれてたよ。
だけど、葉月は何も言わない。
葉月に届かない。
皆の気持ち、届いてるのに届かない。
それがとても悲しくて、切なくなってくる。
お腹の辺りで、何かが動いた。
葉月の手。
さっきまで全然動かなかったのに。
「葉月……?」
つい顔を上げてしまった時、
その傷ついた表情に目を奪われた瞬間。
ドンッ!!
葉月の手が肩を押してきて、突き飛ばされる。
「花音!?」「葉月っ!?」と舞と一花ちゃんの声が聞こえて、後ろにいた舞が慌てて止めてくれた。
慌てて体を起こして前のめりに葉月の方を見ると、さっきまでの場所にいない。皆の視線が違う方に向いている。
視線を追うと、大きな柱を背にして、塀の方を見ている葉月が立っていた。
また塀に登ろうとしているのかは分からない。
静かに、何を考えてるかが分からない虚ろな目で私たち全員を見てくる。
「葉月っ! やめろ!」
近くにいた一花ちゃんが立ち上がって、葉月に近づいていた。
この距離なら、一花ちゃんは力尽くで止められる。
前に、その場面を見ている。
でもどうしてか、不安は増す一方。
「来ないで?」
いつの間にか持っているカッターナイフを自分の首に当てている葉月に、皆の動きが固まった。
さっきの……あれはカッターナイフを手に持ったんだ。
「……やめろ。ここからだったら、止められる」
「そだね、いっちゃん。でも生死は彷徨うだろうね」
「葉月っ!!」
悲しそうに、葉月は一花ちゃんに言葉を投げる。
口元に笑みを浮かべて、でも誰よりも傷ついた目をしていた。
「またここで切っても、あの時みたいに助かるんだろうね。どうせ、もう車は下に用意してあるんでしょ?」
「そうだ……だから無意味なことやめろ」
「一か八かに賭けてみるよ。もしかしたら、今度こそ死ねるかもしれないしね」
「やめろ!!」
どこまでも、葉月は死を求めるの……?
皆の気持ちを分かっているはずなのに、そんなに死を急ぐの?
葉月がカッターナイフを首に強く押し当てたのが分かった。その場所から血が流れたから。
本気で、死のうとしている。
「なんでさ!? なんで葉月っちはそんなに死にたいのさ!?」
「いい加減諦めなさいな!! さっさとそのナイフを下ろしなさい!!」
舞とレイラちゃんの言葉に、葉月は力なく微笑んでいた。
「私は……ちゃんと正気のまま逝きたいんだよ」
死を願う言葉を紡ぐその声が、一花ちゃんの足を止めた。
「狂ったまま逝きたくないんだよ」
それが葉月の願いだと分かる。
弱々しいその声が、胸の内に沁み込んでくる。
「ちゃんと死ぬんだって実感して逝きたいんだよ」
どうしようもなく、それが葉月のたった一つの希望だと告げてくる。
――――だけど、
じゃあ、どうして?
「もう終わりにしたいんだよ」
――――何に、葉月は怯えているの?
さっきまでの体の震えが止まっていた。
ゆっくり、立ち上がって葉月を見る。
怖がっているように見えるよ。
怯えているように見えるよ。
鴻城のお屋敷に行った時と同じように。
今すぐ抱きしめたい。
その思いでいっぱいになる。
震えるあなたを抱きしめてあげたい。
でも今そんなことをしたら、きっと葉月は一気にあのカッターナイフで自分の首を切るだろう。さっきより、震える葉月を見たからか、冷静に考えられる自分がいる。だから考える。
どうすれば、葉月の事を止められる?
葉月に死なれるのは嫌。
そんなの困る。
――――そうだよ、困る。
葉月に死なれるのは困る。
だって、
私、まだ伝えてない。
「私は死んでほしくないよ、葉月」
はっきりと声が出てきて、少し自分でも驚いた。
真っすぐ葉月を見つめると、葉月も驚いているのか目を丸くさせて見てくる。
不思議。
さっきまでは不安で、葉月が死んでしまうことが怖くて、涙も流れてきたけど――その涙も今は止まっている。
葉月にまだ伝えてないからかな?
ちゃんと伝えたいからかな?
さっきまでの恐怖も、震えもなくなっている。
1歩1歩、ゆっくりと足を進める。
抱きしめるために、葉月に近づく。
「死んでほしくない。だから、それを下ろして?」
そんな危ないものを下ろして?
静かに手を伸ばした。
訝し気に、葉月は見てきた。
でも、カッターを持つ手は止まった。
スウッと小さく息を吸い込んで、じっと葉月の目を見つめる。
「葉月が死んじゃうと、困るよ」
今度は片方の眉を上げている。
「じゃあ、忘れて?」
それが出来たら苦労しないかな。
クスっと思わず苦笑する。
「無理だよ。忘れるのは絶対無理」
軽く首を振ると、葉月もまた首を傾げていた。
「大丈夫だよ。ちゃんと忘れられるよ? いなくなればいつか忘れる」
「葉月、私は絶対忘れないよ。自信ある」
本気でそう思っているみたい。
甘く見てるよ、葉月。
私のこの気持ちは、誰にも負けない。
愛おしくて、
切なくて、苦しくて、
でも、こんなに温かい。
誰よりも、
何よりも、
こんな気持ちにさせるのは、あなただけ。
だって、
「だって、私は葉月が好きだから」
はっきりと口に出すと、
葉月が今までにないくらい目を大きく見開いて、
カッターを持つ手が完全に止まったのが分かった。




