193話 あの子の声
「いっちゃん……」
「……なんだ?」
「私は……おかしい……?」
「……ああ」
「ちゃんと……おかしい?」
「…………そうだな」
冬休みに入って、止められることが多くなった。
今もいっちゃんは私を組み敷いて、じっと辛そうに目を見てくる。
昔の自分が日に日に強くなってくる。
すぐに意識が引っ張られる。
最近自分で自覚できていない。
自分がどっちに立っているのか分からくなる。
だからいっちゃんに確認する。
自分がおかしいことを確認する。
そこで初めて自覚できる。
いっちゃんに答えてもらって自覚する。
自分が今“こっち側”にいないことを実感する。
なんでだろ。
それも分からない。
境界線がどんどんどんどん、ぐちゃぐちゃになってる。
自分の昔の声が頭の中で響いてくる。
目を閉じて、ギュッと強く閉じて、いっちゃんの答えでその声を必死に消す。消えていくのを意識して、誘惑に捉われないように意識して、そこでようやく目を開ける。
「いっちゃん……もう平気……」
「本当か?」
「平気……」
「どこにいる?」
「大丈夫……ここにいるよ」
いっちゃんが、確認するように見ながら、ゆっくり息をついて、どいてくれた。
「葉月……明後日から学校始まるが、明日だけでも病院行くか?」
「……」
「あそこだと眠れるんじゃないか?」
「……」
「今のお前は…………危ないんだ」
「…………そだね」
「せめて、もう少し寝れればな……」
体を起こし、体育座りになって膝に顔を埋めた。いっちゃんはそんな私の頭をポンポンと叩きながら、どうするのが最善か考えてるようだ。
薬を使っても、2時間もしたら起きてしまう。それに本当に寝ているのかも怪しい。だから我に返った時に、いっちゃんが私を押さえつけてるんだから。
確かに……少しでも寝れれば、少しはモヤモヤも消える……はず……。
中等部に上がってからは、少なくても寝ることは出来ていた。だから、昔の自分がこんな毎日出てくることはなかったのに。
けど、ここ最近、ずっとこうで。
気づけば年は明けていて、お正月も過ぎていて。
時間の感覚もあやふやになっている。
考えてるいっちゃんを見る。
本当はお正月にイベントがあるって言ってた。
だけど、今回はいっちゃんはそれを見に行かなかった。
我慢……させてるなぁ……。
けど……ゴチャゴチャなんだよ。
声が聞こえてくるんだよ。
すぐ分かんなくなっちゃうんだよ。
体も頭も、
あの声に飲み込まれるんだよ。
このままだと……。
だめ。
それはだめ。
あの日決めた事を。
あの日願ったことを。
私は叶えたい。
「おい、葉月。大丈夫か?」
いっちゃんの声にハッとする。やっぱり心配そうに覗き込んできてた。
「……うん。大丈夫」
「そうか? 本当か?」
「うん……」
「……じゃあ、少し出かけてきて大丈夫か?」
「……どれぐらい?」
「1時間で戻る。ちょっと兄さんと相談したいんだ。それとも一緒に行くか? それだと助かるが……」
先生のところに行ったら、それこそ止められなくなりそう……今も危ないけど。
首を振ると、いっちゃんは答えが分かってたような感じで肩を竦めてた。
「本当は一緒に来てほしいんだがな」
「……無理やり連れていく?」
「いや、無理やり今のお前を連れていくと、それこそあたしの声も届かなくなりそうで迷うんだよ。でも……あたしがいなくて耐えられるか?」
「1時間で帰ってくる?」
「ああ。少し相談して、薬ももらってくる。それを今日は飲んで寝ろ、いいな?」
「……わかった」
「ただ、いつでも鴻城の監視が部屋に入れるように鍵は開けていくからな? あたしが出てって閉めるなよ? 監視のカメラも、悪いがスイッチ入れていくからな」
「うん……」
1時間。
1時間耐える。
あの声が聞こえてきても耐える。
いっちゃんが不安そうに出ていくのを見届けてから、タイマーをかけた。携帯の画面を見ながら、時間が過ぎるのを待つ。
今はまだだめ。
耐える。
言い聞かせる。
大丈夫。
自分はおかしい。
大丈夫。
コンコン
ノックが鳴った。
ビクッて体が跳ねた。
心臓がドクドクいってる。
監視の人? それとも……昔の自分?
今あの子に来られたら、塗り潰される。
それはやだ。今はやだ。
また狂うわけにはいかないんだよ。
ドクンドクンと心臓の音が耳に響く。コンコンとまた音が鳴る。まだ、いっちゃんが来るまで20分はかかるのに。
ハア……ハア……と息が荒くなっていく。
監視の人かもしれないし、寮長かもしれないし……。
あの子とは限らない。
でも前にもあって、
ノックが鳴って開けたら、あの子がいたことがあって。
ゴクリと喉を鳴らして……ゆっくりドアに向かった。
違う。大丈夫。
今は現実。これは夢じゃない。
だって、いっちゃんが行ってから私は寝てない。
自然と汗が溢れてくる。
ゆっくりドアノブに手を掛けて、カチャッと開けていった。
「あ…………」
………………花音?
「ごめんね。一花ちゃんに借りた本返しにきたんだけど」
目の前にはクリスマスから会っていない花音がいた。
ハッハッ……と息をする。
あの子じゃない。
あの子はいない。
「葉月……?」
花音が首を傾げてこっちを見てくる。
監視の人は? 何でいないのさ……そうすれば花音から本受け取れたのに。
「大丈夫……? 凄い汗――」
花音が手を伸ばしてきて、一瞬あの子の手と重なった。
ドクンと心臓がまた跳ねる。
思わずバッと後ろに避けてしまうと、花音が茫然として見てきた。
「葉月……? どう……したの?」
声を出さない私に、花音が心配そうな表情でその手を彷徨わせている。
違う……違う……。
しっかりしなきゃ。
自覚しなきゃ。
これじゃ花音に不審に思われる。
もし私が今こんな状態なんて知られたら、どうなる?
優しい花音はもっと私を心配する。
しっかり、
しっかりしなきゃ。
『どうして~?』
ゾワっと全身に鳥肌が立った。
声が――後ろから聞こえる。
『どうしてしっかりするの~?』
自然と呼吸が荒くなる。
目の前の花音は不安そうに見てくる。
花音にこの子の声は聞こえていない。
私にしか聞こえない。
今、後ろの声に囚われるわけにはいかない。
「はづ――」
「本っ……渡しておく……から」
「え、あ、うん……」
俯いて、花音の顔を見ないようにして、必死に後ろから囁いてくる声を聴かないように集中する。花音から本を受け取って、それでもずっと囁いてくる。
いっちゃん。
いっちゃん早く帰ってきて。
抑えられない。
自分じゃ抑えられない。
クスクスと耳元であの子の笑い声が響いてくる。
花音に今いてほしくない。
何をするか分からない。
だからドアを閉めようとした。
あと……何分?
『だめだよ~? きて~?』
今、狂うわけにはいかないんだよ。
『ねぇ~? 今日は何する~?』
声が脳を刺激する。
考えられなくなる。
歯を食い縛って、必死に耐える。
「待って、葉月」
閉めようとしたドアが止まった。
ビクッと体が震える。ハッハッ……と息をする。
見ると、花音が手で遮ってる。
だめ。
帰って。
消えて。
ここにいないで、花音。
でも花音は声を掛けてくる。
「やっぱり様子が変だよ……どうしたの?」
「……大丈夫だよ」
「本当に? 一花ちゃんは?」
「平気……すぐ帰ってくるから」
だから帰って。
今もずっと囁いてきてるんだよ。
おかしくなる。
気が変になる。
自覚出来ない。
「花音……自分の部屋戻って…………」
『あはは!!!』
耳元で囁いてくる声に、身を任せたくてたまらない。
「………………いや」
――――花音の声がしたと思ったら、ドアが開いて、温もりに包まれた。
一瞬のことで、頭が真っ白になって、
囁いてきてた声が、その時だけ消えて、
カチャン――と、ドアが閉まる音が聞こえてきた。
「何でそんなに苦しそうなの……葉月」
耳元で聞こえてきたのは、あの子の声じゃなくて花音の声。
伝わってくるのは、花音の鼓動。
身体を包んでくるのは、花音の温もりと香り。
花音がギュッと抱きしめてくる。
……これ。
「全然大丈夫そうじゃないよ」
ヨロっと近くの壁に背中が当たる。
「全然平気に見えないよ」
背中に回された花音の腕に力が込められて、強く強く抱きしめられる。
この香り、
この暖かさ。
さっきまであんなに心臓の音が聞こえてきたのに、
段々と落ち着いてきて、
『あったかいね~』
あの子の声が、また聞こえてきた。
『これ……知ってる~……』
だけど、その声はいつもの狂気じみた声じゃなくて、
『これ、好き~』
どこか安心してるかのような声で、
『ふふ。もっと~』
泣きたくなる声で、
「葉月……?」
涙が自然と零れてきた。
どんどん力が抜けていく。
ズルズル体が落ちてゆく。
「葉月っ……? どうし――――」
花音が座り込んだ私を見下ろしている。
『ねえ、もっと~』
これは……いつの私?
『むー。もっとして~?』
こんなこと……言ってたっけ……?
「葉月? どうして泣いてるの……?」
花音が膝をついて、心配そうに顔を覗き込んできた。
頬に花音の手が触れてくる。
『えへへ~。あったか~い』
『これ好き~』
『ギュってして~?』
『もっとして~?』
あの子の幸せそうな声が頭に響く。
だけど、響く度に、
苦しくなって、
悲しくなって、
辛くなって、
涙が勝手に流れていく。
「葉月……」
花音が泣いてる私を頭ごと引き寄せて、
腕で包んでくれて、
そっと頭を撫でてくれた。
『えへへ~気持ちいい~』
幸せそうなあの子の声を聴いて、
そっと花音の腕の中で目を閉じる。
花音が頭を撫でるたびに、
ギュッとしてくれるたびに、
あの子の嬉しそうな声が頭の中で響いていく。
『あったか~い。もっと~』
段々、ぼーっとしてくる。
『――――ん――だなぁ――づきは――――』
……いま……だ……れ……?
あの子とは違う誰かの声が聞こえた気がした。
『もっと~! もっと――――て~――――』
あの子の声も小さくなる。
意識が遠のいていった。
お読み下さり、ありがとうございます。




