179話 お兄さんとのお話 —花音Side
「花音」
ユサユサと体を揺さぶられて、ゆっくりと目を開けていく。
この声……。
声のする方を見たら、やっぱり一花ちゃんだった。心配そうに私のことを見下ろしている。
「一花、ちゃん……?」
「……ああ、朝だぞ」
ホッとしたような顔で、一花ちゃんは息をついていた。カーテンは開かれていて、朝日が部屋に入ってきている。だけど、まだ頭が全然働かない。
「起きれるか?」
「……うん」
重い体を無理やり起こした。
違和感がある。
体を起こした状態で部屋の中を見渡した。一花ちゃん以外――いない。
「……葉月は?」
「ちゃんといる。心配するな」
まだベッドの上にいる私の頭に手を置いてきた一花ちゃんを見上げた。
ああ、そっか。
葉月は、もう……。
まだ眠いのか、ここにいない現実がどこか夢のような気がする。
ただ、昨日のことはちゃんと覚えていた。
昨日、葉月に離れようって言われて、
葉月は宣言通り、ここからいなくなったんだ。
「先にご飯を食べよう。さっき食堂で貰ってきたから」
私の最近の体調を気にしてか、一花ちゃんが用意してくれたみたい。テーブルの上にサンドイッチが置かれていた。しかも値段も安めのものだ。そこまで一花ちゃんは気にしてくれたみたい。優しいなぁ。
「葉月から聞いているとは思うが、今日は兄さんのところに連れていく。ついでに点滴打ってもらえ。大分体も楽になるはずだ」
そう私に言って、キッチンルームから野菜ジュースを持ってきてくれた一花ちゃんは、自分の分のサンドイッチを口に放り込んでいた。「……エビ入りにしたのに入ってない」と、落ち込んでいた様子を見て、思わず苦笑してしまった。
「今度作ってあげるね。エビ入りのサンドイッチ」
「そうか? じゃあ楽しみにしておこう」
一花ちゃんが持ってきてくれた野菜ジュースを飲んで、喉を潤す。葉月がいない朝は久しぶりで、やっぱりどこか寂しい。
だけど、約束したから。
元気になったら戻ってくるって約束したから。
昨日の夜のことが鮮明に思い出されて、必死で言い聞かせた。
卵のサンドイッチを一口食べる。その様子を見ていた一花ちゃんも、どこか安心したような顔をしていた。
「一花ちゃん……やっぱり行かなきゃだめかな?」
「カウンセリングだからって、何も気を負う必要はない。ただ兄さんとお喋りするだけだと思えばいいさ」
カウンセリングってそういうものなの?
だけど行かなかったら、葉月が心配するだろうからな。一花ちゃんには何から何までお世話になって、申し訳なさすぎる。
全部葉月から聞いているのか、一花ちゃんは何も言ってこない。
病院に行くまでの車の中でも、外を眺めていた。
今日は所々雲がある。
……そういえば、一花ちゃんは葉月が死にたい理由を知っているのかな? 結局それは葉月に聞けていないから。一花ちゃんに聞いてみてもいいかな……?
「一花ちゃん……」
「なんだ?」
「……一花ちゃんは、知っているの? 葉月の、その……死にたい理由を」
思い切って聞いてみた。
……一花ちゃんの反応はない。やっぱりそこまで私には話せないのかな。
「――あいつは」
「え?」
私も車の外の景色に視線を向けた時に、ポツリと呟くように口を開いた。一花ちゃんの方をまた振り向いてみたけど、こっちは見ていなくて、やっぱり車の外を眺めている。
「……あいつは何て言っていた?」
……狂ってる。
葉月はそう言っていた。
「狂ってるから――って」
「……そうか」
その一花ちゃんの呟く声が、どこか悲しそうに聞こえた。
「あいつ自身、あまり覚えてないだろうがな」
「それも……言ってた」
「だろうな。言えるのは、今のあいつはちゃんとここにいるってことだ」
それも、昨日言っていた。
一花ちゃんに言えば分かるって。
でもそれってどういう――
「狂ってないってことだ」
……今の葉月は狂ってない?
一花ちゃんは苦く笑って、こっちを見た。
「大丈夫だ。今は花音は自分の事を考えろ。あいつが今一番心配しているのは、花音の事だぞ?」
そう、だね。
元気になって、早く葉月が戻ってこれるようにしないとね。「それに」と、つい昨日の葉月のことを思い出していたら、一花ちゃんが言葉を続ける。
「あいつを止めるのが、あたしの仕事だ」
「――ストッパーのこと?」
「そうだ。だからあまり心配するな」
一花ちゃんが肩をポンポンと叩いてくる。
そうだね、一花ちゃん……葉月を止めるのが、一花ちゃんなんだもんね。
それから病院に着くまで、一花ちゃんはほとんど何も言わなかった。今日はずっと私に付き添ってくれるらしい。「葉月のそばにいなくていいの?」と聞いたら、ベッドから動けないようにしているから大丈夫とのこと。それは、大丈夫なのかな?
病院に着いたら、一花ちゃんのお兄さんの診療室まで連れて行ってくれた。前にお姉さんに治療してもらった診療室とは別の建物にあるらしい。東雲病院、広い。
コンコンと一花ちゃんがノックをすると、中から「どうぞ」と声が返ってくる。お兄さんの声だ。
「やあ、花音さん。久しぶり――というわけではないけど、久しぶりだね」
「――兄さん! 何だ、その頭は!? 今日来ると言っただろう!!」
私が挨拶を返す前に一花ちゃんが怒っている。
……確かに髪が全部逆立っているから、すごいことになっているけど。
そんな一花ちゃんに、「いや、あの一花? これにはちょっと深い訳があってね」と弁解するようにお兄さんはタジタジになっていた。
それにしてもここが診療室? 思わず部屋の中を見渡してしまう。
広い空間。大きめのソファとテーブル。淡い緑の落ち着く色合いをしている。お兄さんが使っていたであろう机の上は、本や書類でゴチャゴチャになっていたけど。
ついその机の上の惨状に視線を向けていたら、お兄さんがそれを隠すかのように間に入ってきた。
「ご、ごめんね、散らかしてて。そっちのソファの方にどうぞ? 一花、お茶を頼め――」
「いいから、さっさとその頭直して来い!」
ドカッと音がするほど、一花ちゃんが綺麗な飛び蹴りをお兄さんの横の腹に直撃させている。「わ、わかったわかった! すぐ暴力はいけないよ?」と余裕たっぷりですぐ起き上がっていたけど……お兄さんもお姉さんも回復早いんだな、なんて呑気に思ってしまった。
一花ちゃんにも「ソファに座っていてくれ」と言われたから、ソファに腰掛ける。うわ、ふわふわ。
しばらくして、一花ちゃんが何かのジュースを持ってきてくれた。何だろう?
「花音、桃が好きなんじゃないのか? 冷蔵庫にあったからこれにしたんだが、違うのがいいか?」
「ううん、好きだよ。ありがとう、一花ちゃん」
桃にしては色合いが何か違うような気もするけど。
一口飲んでみると桃とは違う味もする。これ、ブドウかな? へぇ、桃とブドウのミックスでこんなさっぱりした味になるんだ。おいしい。どこに売ってあるのかな。余裕があったら聞いてみよう。むしろ自分で作ってみたい。
一花ちゃんはというと、お兄さんの机の上を片付け始めていた。それ、勝手に触っていいのかな? というか、読んでない? いいの、読んで?
「いや~ごめんね。みっともないところ見せちゃったね」
不思議に思っていたら、隣の部屋に消えていたお兄さんが髪と服を整えたのか、随分とさっぱりした雰囲気で戻ってきた。
一花ちゃんの様子を見て、「あとで気になるの持って行っていいよ」と話しかけている。いいんだ。重要な書類とかじゃなかったんだ。一花ちゃんは少し表情を明るくさせてたよ。本、好きだもんね。
気分を良くした一花ちゃんが私の隣に座ってくる。少し頬が赤い一花ちゃん、可愛いな。お兄さんはテーブルの真向かいのソファに腰を沈めていた。
「それじゃあ、少し僕とお話し――ってあれ、一花? 僕の紅茶は?」
「淹れてないが? というかあったのか?」
「あれ、おかしいな。一昨日、家から持ってきたんだけど……」
また立ち上がろうとするお兄さん。
お兄さんも飲みたいのかな?
「あの……私が淹れてきましょうか?」
「え、いいのかい?」
「いいわけないだろ!? 花音は今日、患者で来たんだよ!!」
「淹れるぐらい大丈夫だよ、一花ちゃん?」
「いいから座ってろ! 兄さんも! これじゃいつまでたっても始まらない! 探してあたしが淹れてくる!」
勢いよく立って、一花ちゃんはズカズカと音を立てるように行ってしまった。それぐらい大丈夫なのに。
その一花ちゃんをつい目で追ってしまったら、クスクスと笑い声が聞こえてくる。そちらの方を見ると、お兄さんが楽しそうに笑っていた。
「ああやって怒ってるけど、一花は本当に優しい子でね。気遣いも出来る子なんだよ」
それは知っている。葉月にも結局優しいもの。悪戯されても最後には全部許しているから。
「さて、と」とお兄さんが優しく微笑みながら、ゆっくりこっちを見てきた。思わず緊張してしまう。
「そこまで緊張しなくていいよ。前に葉月ちゃんが怪我したあと、僕と話した時のこと覚えてる?」
「え? は、はい」
「あの時みたいに軽い感じで大丈夫だからね。少しお喋りを楽しむぐらいでいいんだ」
そういうもの……なのかな? 一花ちゃんもさっきそう言ってたけど。
「知ってしまったんだってね、葉月ちゃんのこと」
「……はい」
「びっくりして当然だし、怖くなって当然だよ」
……当然、なのかな?
「そう……でしょうか?」
「そうは思わないんだね?」
だって、私が勝手に不安になって怖くなってる。大丈夫だって信じていれば、あんな怖い夢も見ないと思う。
考えてて、ふと気づいた。
私……葉月のこと信じてなかったってことなんじゃないかな? 葉月は大丈夫だって言ってたのに。
「花音さん。ここではね、思ったことを言っていいんだよ」
「え?」
「守秘義務がある。ここで話したことは誰にも言わない。例えば、そうだな……葉月ちゃんが玉ねぎ嫌うのはどうかと思う、とかね」
一瞬、目を丸くしてしまう。
玉ねぎ……おどけて言うお兄さんに、少し緊張がほぐれた。玉ねぎおいしいのに、あんなに嫌うなんてって最初はすごく思っていたから。
「だから、今君が思っていることを言ってごらん?」
「私が思っていること……ですか?」
「そう。君がただ感じたこと。でも全てを言わなくてもいいよ。言いたくなったらでいい。それで少しずつ心を軽くしていけばいいんだから。もちろん、一花がいて話し辛いなら、一花には必ず席を外させる」
「少しずつ……軽く……?」
優しく目元を緩ませながら、お兄さんはゆっくりと頷いていた。
一花ちゃんがいても何も話し辛いとかはないから、それは構わない。それより……軽くしていく。心を軽く。
「今、君の中で怖くて怖くて仕方ない気持ちでいっぱいだと思うんだけど、どうかな?」
「それは……」
「その怖い気持ちを否定することないんだよ。だってそれは、今、確かに君が感じていることなんだから」
否定……しない?
予想外のことを言われてしまった。怖いって感じたくないから、ここに来たのに。
ふふってお兄さんは笑っている。
「まずはちゃんと認めてあげないと、自分のことを、自分自身がそう思っていることを。そうしないと可哀そうじゃないか。せっかく生まれた感情なのに」
可哀そう? 感情が?
お兄さんは不思議なことを言う。怖い、だなんて生まれてほしくなかったんだけど。
「その感情を受け入れて、そこから初めてその感情と向き合えると思うよ」
「そこから……?」
「そう、そこから。これはただ僕が思っていることだけどね」
感情と、向き合う。
自分の中の怖いって思う事と、向き合う。
「これは僕の持論だけど、向き合って、やっと心の中で整理がつけられると思うんだ。そうすると不思議でね。心が軽くなるんだよ」
お兄さんはそう優しい声で言ってから、「これは僕の経験談」と困ったように笑っていた。
向き合って、やっと整理がつけられる。
そっと自分の胸に手を当てた。
「怖くていいんだよ、花音さん。そう思っていいんだ」
優しい言葉が胸に響いてきた。
「葉月ちゃんのことを思うと、怖くなるよね。分かるよ。僕もそうだった」
誰かを思って、こんなに怖くなることがあるなんて知らなかった。
初めてこんなに怖いと思った。
「……不安で……仕方、ないんです……」
「うん」
知らずに嗚咽が混じる。
そこで初めて、また自分が泣いていることに気づいた。
声に出したら、不安が出てくる。
怖いと思ってた感情が出てくる。
「そばにっ……いないと……不安でっ……」
「そうだよね」
「もし……って思ったら……怖くてっ……」
「うん、怖いよね」
途切れ途切れの私の言葉に、お兄さんは一つ一つ優しく返してくれる。聞き取り辛いはずなのに、何も文句を言わずに聞いてくれた。
ずっとずっと、言ってこなかった。
心の中で思っていることを、言ってこなかった。
それが積もり積もって、私の中でどんどん膨れ上がっていた。
ああ、そうか。
私、こんなに怖いって思ってたんだ。
確かに怖いと思ってた。
不安に思ってた。
だけど自分で思っているよりずっと、私の心の中はその感情で埋め尽くされていたんだ。
全部吐き出して、そこで初めて実感する。
そんな私の言葉を、お兄さんは優しく全部聞いてくれた。
東海林先輩に怖いって吐き出した時はただ不安になっていくだけだったのに、お兄さんは葉月の事情を知っているからかな? あの時より不安にならない。
「すいません……いきなり」
「いいんだよ。言っただろう? 怖いと思うのは当然だって」
みっともなく泣いてしまったから恥ずかしくなって、ハンカチで目元を抑えながら蹲ってしまった。
お兄さんの周りを包む空気が安心させてくれるから、ついこう話しちゃったというか。感極まっちゃったというか。
「少し気分を落ち着かせるために、今度は違う話をしようか……っと、そういえば、一花が来ないなぁ」
一花ちゃんが去っていった扉の方を見るお兄さん。そういえば確かに来ないな。随分と時間がかかっていると思うんだけども。
私もつい顔を上げてそちらを振り返ろうとした時に、バンッ! といきなり扉が開く。思わずビクッと体が跳ねちゃったよ?! え、え、何事?
「……おい……バカ兄……」
何故か筋を額に浮かべている一花ちゃんがそこにいた。そして何故か黒い泥の塊を被っているような気がする。なんで、そんな恰好に? お茶を淹れにいったんじゃないの?
「あれ、どうしたんだい、一花?」
「それはこっちが聞きたいんだがなぁ……? なんだ、あの土だか何だか分からないものは……?」
「……? ああっ! あれかっ! 大丈夫だよ、一花。あれは正真正銘の土だからね」
「そういうことを聞いてるんじゃないんだよ……そういうことを……」
お、お兄さん? そんな悠長なことを言っていていいのでしょうか? こっちにゆっくり来る一花ちゃんからは、ドス黒いオーラみたいなのが出てるんですが? 葉月を怒る時もこんなに怒っていなかった気が――あ、ううん。怒ってたね。
なんて違うことを考えてしまっているうちに、あっという間にその場で兄妹喧嘩が始まってしまった。一花ちゃんが自分についた土をお兄さんに投げつけて、それをお兄さんが笑いながら避けている。
「何であの棚いっぱいにあんな土が目一杯入ってるんだ、このバカ兄がぁ!? おかげで埋もれて抜け出せなくなっただろうが!!」
「一花、あれはね。少し実験をしていたんだよ。それにしても酷い格好だね。着替えてきなさい?」
「その前に言う事があるんじゃないのか!? 言うことがあるだろ!?」
「あれ、おかしいな。三日三晩経ってるのに、これだけしか変色しないのか? じゃあ、配合が……」
「そっちじゃないわ!? この実験オタクが!! 時と場所を考えろ!! そして程度を考えろ!!」
一花ちゃんの蹴りを綺麗にしゃがんで避けつつ、床に落ちた土を観察し始めている。お兄さん……すごいな。
2人の様子を茫然と眺めて、これはもう少し一花ちゃんの怒りが収まるの待つしかないなと、さっきまでの怖さがどこへやら、随分と冷静になった自分に驚いた。
その後、一花ちゃんが落ち着いてから改めてお茶を飲もうということになったよ。一花ちゃんはお風呂入りにいっちゃった(土の中に埋もれてたから)。
自分で淹れてあげようと思ってそう言ったら、お兄さんが案内してくれた。どうやら隣の部屋は私室兼実験室みたい。至る所が土まみれになって大惨事になっていたけど。
というより、ここでもう生活できそうな環境。キッチンもあるし、ベッドもあるし、なんならシャワールームもある。そのシャワールームに一花ちゃんは入っていったんだけどね。
キッチン周りも洗い物とかでゴチャゴチャになってたから先に片付けた。たまにお兄さんの奥さんが来て綺麗にしてくれてるみたい。その度に怒られているんだとか。笑って話すお兄さんだけど、この状態は奥さんも怒るんじゃないかなと私でも思います。
もうお昼も近かったから、簡単に余り物で野菜炒めを作った。戻ってきた一花ちゃんが、「何で患者にお世話されてるんだよ!?」とお兄さんを怒っていたね。大丈夫だよ、一花ちゃん。料理してると気分も紛れるし。
そのあとは3人でお昼ご飯を食べて、食後は一花ちゃんも交えて普通の会話。普段していることや、生徒会のこととかを話した。お兄さんは全部楽しそうに聞いてくれたよ。
あとはベッドに連れていかれた。
お兄さんの私室のベッドじゃなくて、また違う患者さん用のベッドの方。……本当に患者さん用なのかな? 大きいんだけど。
点滴を打ってくれるらしい。さっき最近の食事のことも聞かれたからだと思うけど。
「眠れるようだったら眠ってもいいよ。終わったら起こしてあげるから」
……眠れるかな? 少し不安な顔をしてしまったら、お兄さんがまた柔らかく微笑んでいる。
「もしね、嫌な夢を見ているようだったら、その時も起こしてあげるよ、一花が」
一花ちゃんなんだ!? え、でも、さすがに一花ちゃんにそこまでしてもらうのは申し訳ないんだけども……と思っていたら、一花ちゃんはさっきお兄さんに許可をもらっていた書類を手に持って、近くの椅子に腰かけていた。
「あたしはこれ読んでいるから、気にするな」
「そ、そう? だけど一花ちゃん……学園戻らなくていいの?」
もう14時過ぎてるから、今から行っても大して変わらないかもしれないけど……朝からずっと付き合ってもらって申し訳ないよ。
一花ちゃんは私のその心配をよそに、「全く問題ない」と書類を読み始めている。そんな一花ちゃんを楽しそうに見てから、お兄さんはさっきの部屋に戻っていった。
ハアと息をついて肩腕を顔に乗せる。
一杯泣いたからかな……少し疲れた。お兄さん――ううん、もう先生だね。先生とのお話は落ち着いてできたし、それに朝より大分気が楽になっている。
ご飯も少しは食べれたかな? 最近は葉月の血塗れの姿を思い出しちゃって気持ち悪くなってたけど、今日はそんなことなかったし。
このまま元気になって、笑えるようになって、泣かなくなれば――――
「一花ちゃん……」
「ん?」
「葉月と……またルームメイトになれるかな……?」
戻ってきてくれるかな?
大丈夫だよって安心してもらえば、また一緒に暮らせるかな?
「……なれるさ。大丈夫だ」
書類を読みながらの一花ちゃんから、そんな期待を込めたような返事が返ってくる。
そっか。
一花ちゃんが、そう言うならそうだね。
だから、今は元気になることを考えよう。
眠れるようになることを考えよう。
笑えるようになることを考えよう。
その未来を期待して、知らないうちに眠りについていた。
お読み下さり、ありがとうございます。




