173話 いなくなりそうで —花音Side※
「…………ん」
ゆっくり瞼を開けていく。
開けるのが重い。
あ、れ……? 今、何時だろう……?
重い瞼を何度かゆっくりと瞬かせる。
ぼーっとする。
どう、したんだっけ、私……?
考えようとした時に、ふと横に気配を感じた。その気配の方に顔を少し傾けたら、葉月が枕近くで自分の腕に顔を乗せながら、微笑んでいる。
「はづ……き……?」
「…………おはよう、花音」
いつもは起きていない葉月の後ろで、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいるのが見える。
朝……?
あ、れ……昨日、どうしたんだっけ……?
ああ、でも……まずは挨拶……。
まだ覚醒していない頭で、葉月に「おはよう」と返す。体を起こそうとしたら、重く感じた。
そう……そうだ……確か昨日、葉月にお風呂入るよう言われて……それで上がってから、布団掛けられて……そのまま寝ちゃったんだ。
ゆっくり昨日の事を思い出す。
そうだ……。
葉月の過去を聞いて……それで。
ベッドの上で体を起こした私を、床に座り込んでいる葉月はジッと見上げてきた。
……今はそれより、ご飯、作らないと。
「……葉月、朝ごはん何食べたい?」
「……目玉焼き」
やっぱり卵なんだ。
思わず笑ってしまったら、葉月がどこかホッと安心した顔をしていた。
ご飯を作って2人で食べて、歯を磨いて学園に行く身支度をする。今日は朝に生徒会に行く予定はないから、葉月たちと一緒に登校。
だけど、目が覚めていくうちに、昨日の事が鮮明に思い出されてきた。
葉月が子供の頃に発狂したこと。
何度も死のうとしていること。
それをレイラちゃんが目撃したことがあること。
一花ちゃんはそれを止めていること。
どうして死にたいのか、葉月は何も答えていない。
狂っていると言っていた。
発狂って、何を意味しているの?
大丈夫とも言っていた。
それはもう考えていないという意味?
でもじゃあ、あの諦めた顔は……?
昨日の葉月を思い出して、どんどん不安を募らせていた時に「花音?」と呼ばれた。カバンに教科書を入れるのを止めて振り返ると、制服を着ていた葉月と鏡越しに目が合う。
「葉月?」
「…………寮長に言って、部屋替えてもらおうか?」
部屋を、替える?
どうして、いきなりそんなこと……。
予想外のことを言われて、思わず目を見開いてると、葉月は鏡越しに私から視線を逸らした。
「花音も……もう嫌になったんじゃない?」
「なに……言って……」
「無理しなくていいんだよ?」
無理なんて、していない。
嫌だなんて思っていない。
離れたいって思ったの?
私が、昨日聞いたから?
葉月の後ろ姿が、遠くに感じる。
今にも消えてしまいそうに思える。
昨日の事実が思い出されて、一気に焦燥感に駆られた。
気づくと葉月の背中から抱きついてしまっていた。お腹に腕を回してギュッと抱きしめると、葉月もいきなり抱きついたからか、動きが止まっているように思える。
「いや……」
やっと絞り出した声が擦れる。
だけど、葉月。
いやだよ。
「いやだよ……葉月……」
「でも花音……」
「いや……」
みっともなく我儘をいう。
消えそうで。
いなくなってしまいそうで。
今、ここにいるはずの葉月が…………死を選ぶんじゃないかって怖くなって。
ギュッと抱きしめてる手に力を込めた。
いなくならないで?
お願いだから、いなくならないで?
コンコンと、廊下に繋がるドアからノックの音が聞こえてきた。
「……わかった。わかったよ、花音……学校行こっか」
「…………うん」
ポンポンとお腹に回していた手を軽く叩かれたから、そっと恐る恐る離す。本当に、わかったの?
振り向いてくれた葉月は、困ったように笑っていた。
葉月の中で、私と離れる選択肢がある。
私が葉月の過去を知ったから、その考えが芽生えたのかは分からない。
けれど、確実に葉月の中で、私と一緒にいない未来があるのはわかった。
それが分かると、とても怖くなる。
そうしたら葉月に2度と会えない気がする。
もうこの笑顔を見られなくなる気がする。
「いっちゃんと舞が待ってるよ、行こう?」
「…………うん」
見られなくなるのはいや。
会えなくなるのはいや。
そばにいられなくなるのは、いやだよ。
縋りついてでも、葉月を離したくないんだよ。
今にも泣きそうになる私を見て、一花ちゃんと舞が驚いてたけど何も聞いてはこなかった。昨日も泣いたから、少し目元も腫れている。酷い顔だと、さっき鏡を見て思ったよ。
それ以上に、葉月のことが気になって仕方ない。
クラスが別だから、そこで一花ちゃんと葉月とは別れる。それぞれのクラスに向かう。
この瞬間も今は怖かった。
離れたら、消えちゃうんじゃないかって思ってしまうから。
「……あのさ、花音? その、大丈夫? 何があったのさ?」
舞が、さすがに2人がいなくなってから聞いてきた。
だけど言えるわけない。
葉月が死のうとするかもしれないなんて、言えるわけがないんだよ。
だから無理やり笑顔を作る。
「……大丈夫だよ、舞。何でもないの」
「そんな酷い顔してるのに? 最近も悩んでいるみたいだったけど、それが原因?」
泣き腫らした目元を心配げに見てくる舞。ごめんね、心配させて。だけど言えないよ。
苦笑して、誤魔化すように「教室いこう?」と舞を促すと、私が話そうと思っていないのが伝わったのか、何も言ってこなくなった。
本当に、ごめんね、舞。
だけど、今離れただけでも心配になるの。
今日は放課後に生徒会行けそうにない。
会ってないと不安で。
一花ちゃんがいるとはいえ、不安で。
葉月がちゃんといるのか、不安で、仕方がなくなる。
その不安を無理やり抑え込んで教室に行くと、やっぱりナツキちゃんとユカリちゃんも心配そうに見てきた。「大丈夫だよ」と言って誤魔化す。
その「大丈夫」は自分自身にも言い聞かせている感じだ。
お昼休みに生徒会室へ行くと、今度は先輩たちにも心配された。特に東海林先輩に。昨日の今日でこんな酷い顔を見せてしまったから。
だけど先輩。
私の場合、踏み込んだら、もっと不安になってしまいました。
知らなくて良かったかもしれないです。
だって知る前より怖いんです。
葉月がいなくなるんじゃないかって怖いんです。
「一体何があったの?」
東海林先輩のその優しい声に、とても胸が締め付けられた。止めたはずの涙が零れるのを我慢出来なくなった。
「さ、桜沢!?」
「一体、どうしたっていうんだ?!」
「あー、あなたたち、ちょっとうるさいから出ていきなさい」
会長たちがいきなり泣き出した私を見て戸惑っているのを、東海林先輩が追い払っているのが聞こえる。
けれどそんなことに気を回す余裕が無くて、止まらない涙を止めるために思わず両手で顔を覆っていると、東海林先輩が優しく抱きしめてくれて、よしよしと頭を撫でてくれた。
「昨日の今日で、本当に何があったって言うの?」
東海林先輩にも言えるわけがない。
葉月の悪戯に困っている人だから。
その葉月は、今まで何度も死のうとしていたみたいなんです。
まるで、自分の命を諦めている顔をするんです。
この前の怪我も、思い返すときっと死のうとしたのかもしれない。
自分にナイフを向けさせて、それで死のうとしたのかもしれない。
今までの葉月の行動が、それに繋がってくる気がして――
また怖くなる。
「昨日言ってた大事な人のこと?」
「っ……」
「……もしかして聞いたの?」
「……先……輩……」
「何?」
心配そうに顔を覗き込んでくる。
だけど私は何かに縋りたくて、東海林先輩に答えを求めてしまった。
「聞いて……不安が消えなくて……さらに怖くなったら……どうしたらいいですか?」
目を丸くして、私を見てくる東海林先輩。
だけど教えてください。
どうすればこの不安は消えますか?
どうすればこの恐怖は消えますか?
「聞かないでおこうと思ってたけど、誰にどんな秘密を聞いたの?」
「……っ……言え……ません」
言えないんです。
それは葉月が知ってほしくなかったこと。
「だけどっ……だけど怖いんですっ……」
絞り出すように、素直に自分が今感じている感情を吐き出した。
朝から、どんどん不安でいっぱいになっていく。
今、葉月は何をしているだろう。
まさか死のうとしているんじゃ。
積み重なる不安が、怖さに変わっていく。
泣きじゃくる私に、東海林先輩が戸惑っているのが伝わってきた。
「……ごめんなさい。何を言えばあなたの不安を取り除けるか……言葉が出てこないわ。私はそれが誰のことかも、どんな秘密だったのかも知らないから」
分かってる。
東海林先輩は悪くない。
「だけど言えるのは……今は一杯泣いていいわよ。泣くのはストレス発散にもなるし、もしかしたら、あなたのその不安も少しは吐き出してくれるかもしれないから」
何も分からない東海林先輩は、言葉を選んでそう言ってくれる。その心遣いは嬉しい。
「話してもよくなったら、ちゃんと話して? そうすれば私がその人のことを叱りにいくから」
……いつも先輩が叱っている人です。
だけど、葉月はきっと東海林先輩に怒られても変わらない。
葉月はきっと揺るがない。
そのままお昼休みの間、私は東海林先輩の胸を借りて泣き続けた。
涙が枯れるぐらい泣き続けた。
少しでも東海林先輩の言ったとおりに、この胸の中の不安が消えればいいなと願って。
だけど不安は消えてはくれない。
寮に帰って、確かめたくて葉月を抱きしめる。
その温もりで安心できると思ってたのに、やっぱり不安は消えてくれない。
だからかな。
その日から、最悪の夢を見るようになった。
お読み下さり、ありがとうございます。




