172話 打診
葉月は死にたがりであり、子供の頃に発狂した過去をもっております。
境界線がある。
狂った自分の“こっち側”。
花音やいっちゃんたちがいる“そっち側”。
“こっち側”の人間は、人を傷つけることを何とも思わない。
自分の体でも他人の体でも平気で傷つけることができる人間。
傷つけることを何も思わない。感じない。
自分の中では、そう定義した。
正気に戻ったあの日。
自分が狂った人間だと自覚したあの日。
それがはっきりとわかった。
自分の中にしっかりその欲があることを認識した。
自分の立ち位置を明確にした。
今、自分が立っている場所が、どっち側なのかを意識するようになった。
だって、“こっち側”にいるときは分からなくなる。
欲に塗れ、それに溺れ、現実かどうかも分からなくなる。
また、狂ってしまう。
先生は言う。
『今どこにいる?』
いっちゃんは確認する。
『今ここにいるか?』
それは合図。
“こっち側”にいることを私に自覚させる。
戻った時に、はっきりと自分が今どっち側にいるかを自覚する。
自分がやっていることが、おかしいことだと分かるから。
みんなを悲しませることだとわかるから。
それでようやく普通の人になれた気がした。
だけど、自分の中の欲は膨れ上がる。
いっちゃんたちの“そっち側”にいても、すぐに“こっち側”に塗りつぶされる。
だから小さい欲を作り上げた。
時には、虫だったり、時にはバカなことだったり、木に登って落ちてみたり。
そうすることで、あまり引っ張られることはなくなった。
正気に戻ってからは、“こっち”と“そっち”を行ったり来たり。
それでバランスを保ってた。
正気に戻ったあの日に、
どうせだったらって決めたことがある。
それのおかげもあるのか、今でも私は完全に狂う状況には至っていない。
でも気を抜けない。すぐに頭の中は欲に塗れて、それだけしか考えられないようになる。
だから、いっちゃんにお願いした。
すぐに“こっち側”に引き摺り込まれるから、“そっち側”に連れ戻してもらうように。
狂っている時もいっちゃんを見た時だけは、少しだけ正気に戻れたから。
いっちゃんが同じ転生者だから。
違う世界の記憶を持っているいっちゃんを見ると、何故だか“こっち”じゃないと自覚できた。
夢じゃないと、現実だと思えた。
あの日に決めたことを、忘れることがないように、
狂わないために、いっちゃんにお願いした。
ベッドで寝ている花音を見下ろす。
花音は知るべきじゃなかった。
花音は優しいから、“こっち側”のことは分からない。
私しか分からない。
だけど、花音は知りたがった。
知ってしまった。
これから花音はどうなるかな。
レイラは壊れた。
私が狂っている場面を見て、レイラは壊れた。
眠れなくなって、悪夢を見るようになって、心が壊れていった。
カウンセリングを受けて、私から離れて、やっと今のレイラになったんだ。
でも、あの時の私を怖いと思っているだろう。
友達が血塗れになりながら、狂って笑っている。そりゃ、ホラーだよ。誰だって、恐怖する。
いっちゃんもそう。
私の事が怖くて怖くてたまらなかっただろう。
でも、いっちゃんは離れなかった。
根気強く、狂っている時も私に会いにきた。
最初は触れるのも震えながらだったのに。
過呼吸になりながら、先生と一緒に私と会話してた。
いっちゃんは狂ってる時の私を知っている。
その場面も何度か見ている。
だけど、いっちゃんを見るとピタッと私が動きを止めるからか、いっちゃんは私に会いにきてた。
いっちゃんには大人の記憶もあるから、少しは耐えられたのだろうか。
おじいちゃんも叔母さんもお兄ちゃんもメイド長も、皆が毎日目を光らせて、監視して、恐怖していた。
またいつ私が何をするか分からないから。
いつでも止められるように、正気に戻るまで閉じ込められた。
だから中等部に上がるまでの3年間、学園には行っていない。
そして皆、今も恐怖している。
いつ、また狂うか分からないから。
花音もそうなるのかな。
花音もこれから皆みたいに怖がるのかな。
でも、花音は私のその場面を見ていない。
だけど昨日の感じだと、話しを聞いただけでも、花音にはきつそうだった。
離れた方が……いいのかな。
「…………ん」
花音を見てると、ゆっくり瞼が開いていった。
ベッドの横で床に座って、枕近くで自分の腕に顔を乗せながら花音を見ていると、ゆっくり目をパチパチとさせて、ぼーっとしながらこっちを見てきた。
「はづ……き……?」
「…………おはよう、花音」
昨日はお風呂に入ってもう寝ようって言って、無理やり寝かせた。
悪夢を見た気配はない。
「おは、よう……」
まだぼーっとしているのか、起き上がるのもゆっくりだった。
怯えの気配も、ない。
でも…………まだ分からない。
いつものように朝ご飯を作って食べて、歯を磨いて、学園に登校する準備をする。
花音は昨日のことを何も言わない。
手遅れになる前に、離れた方がいいのかな。
レイラみたいに壊れる前に。
「花音……?」
「ん?」
制服に着替えてる途中で、花音に話しかけた。カバンに教科書を入れてる花音が振り返ってくれる。鏡越しに花音と目が合った。
「葉月?」
「……寮長に言って、部屋替えてもらおうか?」
「え……?」
鏡の中の花音が大きく目を見開いて、こっちを見てくる。全く考えてなかった顔だ。
「花音も……もう嫌になったんじゃない?」
「なに……言って……」
「無理しなくていいんだよ?」
鏡から視線を逸らしてブレザーを取るためにハンガーに手を掛ける。反応がない。
これは考えてるのか……な――
いきなり、後ろから手が回ってきて抱きしめられた。
「いや……」
擦れるような花音の声が聞こえてきた。
「いやだよ……葉月……」
「でも花音……」
「いや……」
ギュウッと力を込めてくる。
本当に、大丈夫なのかな。
一向に離そうとしない花音の手はわずかに震えている。
コンコンと奥のドアから音が聞こえた。いっちゃんたちだ。
「……わかった。わかったよ、花音。学校行こっか」
「…………うん」
ポンポンと手を叩いたら、そっと離してくれた。
振り向くと、今にも泣きそうな顔をしていて、
目には涙が溜まっていて、
心臓がギュッと掴まされたように苦しくなって、
その日から花音は魘されるようになった。
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